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2018年3月

2018年3月31日 (土)

掲示板のことばアーカイブズ(31)

2007年(平成19年)

1月〔359/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」101〕
如来の本願は
風のように身に添い
風の如くに流れ続ける
  平野修

2月〔360/寺報102〕
経(きょう)は経(けい)なり
経(きょう)は鏡(かがみ)なり

3月〔361/寺報103〕
3月の風と 4月のにわか雨とが 5月の花をもたらす
  イギリスの諺

4月〔362/寺報104〕
死に支度 いたせいたせと 桜かな
  小林一茶

5月〔363/寺報105〕
絵心がなくても絵は描けるけれど
物語(ファンタジー)がなければ人生は描けない

6月〔364/寺報106〕
天命に安んじて人事を尽くす
  清沢満之

7月〔365/寺報107〕
私を傷つけるのが人なら 私を支えるのも人
私が傷つけるのが人なら 私が支えるのも人

8月〔366/寺報108〕
人間は苦悩する才能を持った生き物です

9月〔367/寺報109〕
生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける
   親鸞聖人

10月〔368/寺報110〕
私を助ける阿弥陀さまがいるのではない
私が助かる法を阿弥陀さまというのです
  安田理深

11月〔369/寺報111〕
如来に信ぜられ
如来に敬せられ
如来に愛せらる
かくて我等は如来を信ずるを得る
  曽我量深

12月〔370/寺報112〕
愚かなる 身こそなかなか うれしけれ 弥陀の誓いに あると思えば
  良寛

2018年3月30日 (金)

掲示板のことばアーカイブズ(30)

2006年(平成18年)

1月〔347/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」089〕
生のみが我等にあらず 死も亦我等なり
我等は生死を並有するものなり
  清沢満之

2月〔348/寺報090〕
幸福を求める者は 必ず不幸になる
  和田稠

3月〔349/寺報091〕
南無阿弥陀仏 合わせる私の手の中に どれだけの罪業があることだろう

4月〔350/寺報092〕
四季があるように 人生の節目で人はまた こころをあらたにする

5月〔351/寺報093〕
高いつもりで低いのが教養
低いつもりで高いのが気位

6月〔352/寺報094〕
自分の悲しみを だれか好きな人に打ち明けることができれば その時、悲しみはほとんど消える
  アベル=ボナール

7月〔353/寺報095〕
気配(けはい)を発すること 気配(けはい)を感じること 気配りのはじめです

8月〔354/寺報096〕
たとえ明日 この世の終わりが来ようとも 今日わたしは リンゴの木を植える
  ルター

9月〔355/寺報097〕
苦悩の旧里はすてがたく 安養の浄土はこいしからず
  親鸞聖人

10月〔356/寺報098〕
どんなに孤独なときも ひとりではないのです

11月〔357/寺報099〕
他力というは 如来の本願力なり
  親鸞聖人

12月〔358/寺報100〕
ありがとうの想いを忘れて生きることのかなしさ

2018年3月29日 (木)

掲示板のことばアーカイブズ(29)

2005年(平成17年)

1月〔335/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」077〕
喜怒哀楽は連鎖する感情です

2月〔336/寺報078〕
優しさって 人の憂いが 分かること

3月〔337/寺報079〕
古木は老木ではありません 毎年新しい芽が出てきます

4月〔338/寺報080〕
教育 教えることによって私が育てられること

5月〔339/寺報081〕
許されるつもりで謝るのか
 許されない覚悟で謝るのか

6月〔340/寺報082〕
他力の道こそ 最後まで努力を尽くす道

7月〔341/寺報083〕
真の贅沢というものは ただひとつしかない
 それは人間関係という贅沢だ
   サン=テグジュペリ 『人間の土地』

8月〔342/寺報084〕
なみだは にんげんのつくることのできる 一ばん小さな海です
  寺山修司

9月〔343/寺報085〕
地獄への道は 善意で敷き詰められている

10月〔344/寺報086〕
経験というのは、単なる時間の積みかさねではなく 人を感じる眼であり、耳であり、皮膚感覚なわけだ
  松田優作

11月〔345/寺報087〕
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
  『歎異抄』第1章

12月〔346/寺報088〕
自分のこころを 自分のこころだけで見るのは怖い

2018年3月28日 (水)

掲示板のことばアーカイブズ(28)

2004年(平成16年)

1月〔323/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」065〕
あと何年生きられるか 引き算の人生
今・今・今の積みかさね 足し算の人生

2月〔324/寺報066〕
はすとにわとり (金子みすゞ)
 どろのなかから はすがさく 
 それをするのは はすじゃない
 たまごのなかから とりが出る
 それをするのは とりじゃない
 それにわたしは 気がついた
 それもわたしの せいじゃない

3月〔325/寺報067〕
すべてに対して誠実であるということは
 すべてに対して不誠実であるということ

4月〔326/寺報068〕
事件とか悲しいニュースとかありますけど
その責任追及をするのではなくて、
自分の内面に責任とか原因の一端があるんじゃないかと
常に感じていたい
  Mr.Children 桜井和寿

5月〔327/寺報069〕
「ゆとり」って 時間の余裕じゃなくて こころの余裕なんだよね

6月〔328/寺報070〕
娑婆のいのち枯れて 後生の一大事を胸にかけて 浄土に往生する 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

7月〔329/寺報071〕
優しさが足りないのは 悲しみが足りないから
光を感じないのは 闇を感じないから

8月〔330/寺報072〕
人生には何ひとつ無駄なものはない
 私が味わった苦しみも 私が他人に与えた苦しみも

9月〔331/寺報073〕
生かされるとは 本当に大事な人に手を合わせられない自分に気付くこと

10月〔332/寺報074〕
出会いとは 再会である

11月〔333/寺報075〕
楽を求めて苦しみを除くと 今まで味わったことのない苦しみが芽生えてくる

12月〔334/寺報076〕
ともかくも あなたまかせの 年の暮れ
  小林一茶

2018年3月27日 (火)

掲示板のことばアーカイブズ(27)

2003年(平成15年)

1月〔311/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」053〕
人との出会い 言葉との出会い 書物との出会い
その出会いを生かすも殺すもわたし次第

2月〔312/寺報054〕
人間は優しさの中にいると それさえ優しさだと感じなくなる

3月〔313/寺報055〕
ひとつの恨みで とおの恩を消し去りますか
ひとつの恨みで とおの恩を強く感じますか

4月〔314/寺報056〕
№1にならなくてもいい もともと特別なonly one
  SMAP「世界に一つだけの花」

5月〔315/寺報057〕
人に親切にすることも難しいが 人の親切を受け入れることは もっと難しい

6月〔316/寺報058〕
待つことが出来る勇気
待つことが出来る智慧
待つことが出来る慈悲

7月〔317/寺報059〕
ただほれぼれと 弥陀のご恩の深重なること
つねはおもいいだしまいらすべし
しかれば念仏ももうされそうろう
  『歎異抄』

8月〔318/寺報060〕
私が笑顔でいられるのは あなたの笑顔のおかげです

9月〔319/寺報061〕
ゆるすということはむずかしいが
もしゆるすとなったら限度はない
ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、
それは初めからゆるしてはいないのだ
  山本周五郎 『ちくしょう谷』

10月〔320/寺報062〕
おいしいご飯を望むより
 ご飯をおいしく食べられる私でありたい

11月〔321/寺報063〕
自立とは「たすけてください」と言えること
決してひとりで生きることではない
ひとりで生きるのは 自立ではなく孤立

12月〔322/寺報064〕
今哀しいことより この哀しみがうすれることのほうが ずっとかなしい
  ナカムラミツル

2018年3月26日 (月)

掲示板のことばアーカイブズ(26)

2002年(平成14年)

1月〔299/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」041〕
二度とない人生だから 一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう
  坂村真民

2月〔300/寺報042〕
やさしさは「ありがたい」と思うところから生まれます

3月〔301/寺報043〕
人は笑顔の中にどんなにたいへんなことがあっただろうか

4月〔302/寺報044〕
人間って哀しいね だってみんなやさしい それが傷つけあって かばいあって
  さだまさし「償い」

5月〔303/寺報045〕
われわれは他人によって苦しめられるのではない
  清沢満之

6月〔304/寺報046〕
どうにもならんことは どうする必要もないこと
  安田理深

7月〔305/寺報047〕
自分ができるフィールドで全力を尽くせばいい
  尾上松緑

8月〔306/寺報048〕
百人いれば 百通りの人生 考え方がある

9月〔307/寺報049〕
大人と子供の違いは いつ生まれたかということだけだ
  祖父江文宏

10月〔308/寺報050〕
愚痴っていうのは 自分が正義に立って こぼしているなぁ

11月〔309/寺報051〕
親鸞聖人は亡くなったんじゃないんだ 今も自分と一緒にいるっていうことなんだ

12月〔310/寺報052〕
悲しみがあると生きていけないのか
 悲しみがなくても生きていけるのか

2018年3月25日 (日)

掲示板のことばアーカイブズ(25)

2001年(平成13年)

1月〔287/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」029〕
鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ

2月〔288/寺報030〕
欲深き 人の心と 降る雪は 積もるにつけて 道も忘るる

3月〔289/寺報031〕
どうにもならぬままが 私のこんにちあるく道でございました

4月〔290/寺報032〕
この道より 我を生かす道なし この道を生き抜く

5月〔291/寺報033〕
私の目は損得を見る 如来の眼はこの私を見る

6月〔292/寺報034〕
いのちを見つめる 木のいのちを 土のいのちを あなたのいのちを 私のいのちを

7月〔293/寺報035〕
その人を憶いてわれは生き その人を忘れてわれは迷う ああその人よ

8月〔294/寺報036〕
別れ-その悲しみからの出発

9月〔295/寺報037〕
安らい
 時おり 念仏もうしながら ここまできたが
 死ねばそこが浄土や なむあみだぶつ
   榎本栄一

10月〔296/寺報038〕
人生尊し 1日尊し 只今尊し

11月〔297/寺報039〕
弥陀の五劫思惟の願を よくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなりけり

12月〔298/寺報040〕
正しい人ばかりになって ますます争いが烈(はげ)しくなってきた

2018年3月21日 (水)

2018春彼岸

春のお彼岸4日目(2018年3月21日)
寒い寒い春彼岸お中日でした。しかも、雪snow

Dsc_1285

数日前から天気予報で「雪が降るかも」と言っていたとはいえ、ちらつく程度だろうと高をくくっていました。
とんでもないsign03 見事に積もりました。
お彼岸中は玄関でスタンバイしていますので、暖房器具さんに頑張ってもらいましたsun 思いがけない出番に、暖房器具もひとつ壊れてしまいましたcoldsweats01

Dsc_1286

荒天の中でも、大勢の方がお彼岸のお寺参りにみえました。大切なお姿を見させていただきました。ありがとうございます。
ご結婚の報告をしてくださった方もいました。嬉しいニュースに心も温まりました。おめでとうございますheart04

玄関で、参拝される方々の姿を見ていて、こんなことを思いました。
例年の春彼岸お中日と比べると参拝者は約半分。それを少ないと感じるのか。
こんな荒天のなか、これだけの方がお参りにみえたsign01 たくさんみえたなぁと感じるのか。
同じ状況を見ていても、感じ方は変わるのだなぁ、と。

午後3時過ぎ、降雪の勢いも弱まり、外に出る娘たち。雪合戦をして、雪だるまを作り始めました。もうないだろうと思っていた雪遊びに感激だったようです。私は、寒さに震えながら、ただ見守っていました。子どもって、元気だなぁhappy01

Dsc_1304

午後4時頃には雪から雨に変わり、積もった雪もとけてゆきました。
皆様、お風邪召しませんように。

2018年3月20日 (火)

2018春彼岸

春のお彼岸 2日目と3日目(2018年3月19日 20日)
西蓮寺ご門徒の通夜葬儀を、西蓮寺本堂にて執り行いました。
私が小さい頃からお世話になっている門徒さん。
住職が若かりし頃に「同朋の会」(西蓮寺法話会)で話していた頃から聴聞を続けてこられた門徒さん。西蓮寺「同朋の会」を知る最後の方でした。
ここ数年も、年に何度か「西蓮寺聞法会」(今は私が話しています)に足を運ばれました。「家族に内緒で出て来たの」と微笑みながらhappy01
いつも綺麗に身支度され、凛とした方でした。聞法会でも感想をお聞かせくださり、有り難いことです。

普段 通夜葬儀の際は、フラットな気持ちでお勤めするように気持ちを落ち着かせるのですが、お通夜の前に棺の中で眠るお顔を拝見し、流石に淋しさと感謝の気持ちで心が揺れ動きました。

お育ていただき、ありがとうございます。阿弥陀さまのお浄土から、これからもお照らしください。
南無阿弥陀仏

2018年3月19日 (月)

2018春彼岸

春のお彼岸2日目(2018年3月19日)
と、次女の幼稚園卒園式

子どもたち一人ひとりに卒園証書を手渡ししてくださり、ありがとうございます。
「ハイッ」という子どもたちの元気な声に、子どもたちの歌声に、思わず目も潤む卒園式でした。
先生方、幼稚園の皆様、お友達、みんなありがとう
長女と次女は3学年離れているので、長女から数えて6年間続けて幼稚園児のいる生活をしてきました。
それも終わってしまうかと思うと、ホッとしたような、淋しいような。
これからが大変なんでしょうけどね。

幼稚園アイテム 担任の先生と保護者との連絡帳「生い立ちの記」
家庭での子どもの様子や先生への質問などを書いて提出すると、先生が子どもの幼稚園での様子や感想や答えなどを書いて戻ってくる連絡帳。
長女年少の際に記入したところ、「お父さんが書いてくれるのは珍しいです」と、幼稚園内で話題に。
先生からのお返事が有り難く、子どもたちの成長も書き記したく、マメに記入。文章だけでなく、子どもの写真や時にはイラストも。
後で聞こえてきたところ、私の書いた「生い立ちの記」は、担任の先生ひとりで完結するのではなく、先生方の間でも回し読みされていたとのことhappy01
そんな嬉しい情報を聞いた頃、寺報(お寺の新聞)の内容に困っていて・・・「文字が多くて読む気がしません」という意見をいただきました・・・あ、イラスト添えればいいのかな? と、思い立ち、それから寺報にイラストを入れるようになりました。エスカレートして、今ではマンガを描いています。
絵は、小学生の時にマンガクラブに所属していて、その当時のレベルのままで恥ずかしいのだけど、寺報に絵を描くようになってから、感想をいただくことが増えた気がします。ほとんどマンガの感想ですがcoldsweats01
それでも、寺報をお読みいただき、ありがとうございます。

寺報を手にとっていただけるようになったのは、「生い立ちの記」と、それを楽しみにしてくださった先生方のおかげです。ありがとうございます。(私の「生い立ちの記」ロスの先生がいるとかいないとかhappy02
6年分の「生い立ちの記」を読み返し、子どもたちも大きくなったなぁと、あらためて感じました。
卒園おめでとうheart04

2018年3月11日 (日)

想像力で、壁は越えていける

長女、次女と続けて発熱し、看病。子どもの病気はつらい。代わってあげたいけれど、出来るはずもなく。良くなることを念じるのみ。
相手が子どもに限らず、他者(ひと)の身に起きた出来事というのは、代わることができない。私の身に起きたこともまた、代わってもらうことはできない。

東日本大震災から7年。
10年日記の3月11日のページを見返し、この7年の3.11を思い返す。
午後2時46分東日本大震災追悼法要をお勤め。
警察庁によると2018年3月9日現在、震災の死者は1万5895人、行方不明者は2539人とのこと。
報道・記録としては、15,895人 2,539人という数字で表現すべきこともあるけれど、
亡くなったのは1人の人、今もなお行方不明なのは1人の人。
大きい数字が災害の甚大さを表わしているけれど、よく見ると1人の人の人生が奪われたという現実がある。
 
 book

安田奈津紀さんインタビュー(東本願寺発行『月刊 同朋』 2018年3月号より)

 今は「難民は」「被災者は」など、主語を大きくして集団をのっぺらぼうにしてしまうんですね。でも難民の方にしても、誰も最初から難民だったわけではありません。シリア難民の人たちに「私の名前は難民ではありません。私の名前は○○です」と言われたことがありますが、集団の中には一人ひとり名前をもつ個人がいるんです。
 シリアやイラクの紛争は、離れたところにいると、どうしても遠い地域の話になりがちですし、集団をのっぺらぼうにしてしまうことで「難民? 何か怖そう」といった漠然として恐怖感も生まれやすくなります。けれども私たちの想像力で、そうした壁は越えていけるんですよね。そのことを伝えるのも私たちの役割ではないかと思っています。

 book

「難民は」「被災者は」という表現で、他者(ひと)をひとくくりにして見てしまう。しかも、自分とは切り離した他者として。
大きい主語は、顔を見えなくしてしまう。
死者数 行方不明者数も、顔を見えなくしてしまっているのかもしれない。
みんな、顔を、名前を、人生を、縁ある人びとをもっている。
大きい主語に隠れた1人がいる。1人の人生を想像すると、そこに何十人 何百人 何千人もの人とのつながりがある。その中に私も含まれている。想像を働かせると感じられる、より大きなつながりがある。

大きさに隠されて見えなくなる1人のいのち
1人を見つめていると見えてくるたくさんのいのち。

他者の人生と、代わることはできないけれど、つながっている。
決して他人事(ひとごと)ではない。

2018年3月 1日 (木)

2018年3月のことば

2月28日から3月1日にかけて、天候が荒れましたが、曇り空が晴れると、暖かい日射しとともに明るくなってきました。春も近づいていますねhappy01
が、春一番が吹くかもtyphoon 花粉症持ちには、つらい季節です。春が近づいていますねweep
以下、3月の掲示板のことばですcherry

 apple apple apple

Dsc_0440
赤い実のなる木に赤い実がなった
木の満足
  竹部勝之進

人間が求める満足は人それぞれ
ピョンチャンオリンピックが閉幕した。開会前は、アスリートのための大会を政治が踏みにじり、スポンサー第一の運営に辟易し、関心もなかったのだけれど、オリンピックが始まると、アスリートのパフォーマンスに見入ってしまった。国を越え、性別を越え、すべての選手・スタッフにありがとうという気持ちでいっぱいです。これから始まるパラリンピックも楽しみです。
最高レベルの技術を持った選手たちが集まる大会。自国の選手を応援する気持ちが湧き起こるのは当然のことかもしれませんが、競技全体を見ていれば、どこの国の選手であろうと、表現される力に目を奪われる。メダルの色では計れないすばらしさが、競技中のみならず、その前後に溢れている。
テレビ桟敷(現代ではネット桟敷か)の観衆は、メダル獲得に満足を求める。結果、競技そのもの、プレーヤーその人を見ず、メダルやその色に目を奪われる。ひとつでも上の順位を、ひとつでも上のメダルを目指しているのは、誰よりもプレーヤー自身に違いない。しかし、鍛錬を積み、より高次なレベルになればなるほど、「この人にはかなわない」という嗅覚も鍛えられていく。決して諦めてしまうという意味ではなくて。
観衆はメダル獲得に満足を求めるが、プレーヤーは、結果よりも、競技ができること自体に、「この人にはかなわない」と思えるほどの選手と競えることに満足を見出しているかもしれない。また、金メダルを獲得しても、自分のパフォーマンスに納得できずに満足感がないプレーヤーもいるかもしれない。順位は振るわなかったけれど、自分の中では最高のパフォーマンスが出来たと、満足感を得たプレーヤーもいることでしょう。どこで満足を得るのか得ないのか、いつまでも満足感が続くのか、次の瞬間には失せてしまうのか。人間が求める「満足」は、人それぞれです。

どのような状態でも憂う私
お釈迦さまのことばです。

田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(中略)田なければまた憂えて田あらんと欲(おも)う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。    
  「仏説無量寿経」

(田畑や家があれば、それらの維持管理に迷い、誰かに取られはしないかと心配し、無ければよかったのにと憂鬱になる。田畑や家がなければ、それらを求めて、また憂う)

人間の本質的な姿は、お釈迦さま在世の2500年ほど前も、それ以前も、現代も、まったく変わりありません。満足を求めて生きるのだけれど、なかなか満足は得られない。たとえ「満足した!」と瞬間は感じられても、次の不満が生じる。本当の意味で満足を得るということはありません。
さて、「満足」を、人間が求めて、努力・追求をして手に入れるものだと思い込んではいないでしょうか。「満足」は、人間が求め、人間が為すものではありません。すでに我が身にいただいているものなのですから。
「満足」は、元々「円満具足」といいました。「円満」は、たとえるならば、円形の縁(ふち)のある器に、なみなみと水が注がれている様子。「具足」は、何も欠けることなく、すべてが具わって(備わって)いる様子。つまり「円満具足」とは、何も欠けることなく満ち足りている様子を意味します。では、なにがそれほどまでに「円満具足」しているのか。阿弥陀如来の、私への慈悲心です。阿弥陀の慈悲心が「円満具足」・・・「満足」しているからこそ、私が私として生きています。国を越え、性別を越え、時代を越え、個々の能力を越え、すべてのいのちに阿弥陀の慈悲心は注がれ、満ち満ちています。人間は、自分に欠けたものを求めて満足を得ようとします。しかし、すでに満足しているからこそ、私がいます。
他者(ひと)と比べると、自分には何かが欠けていると感じるものです。今の自分に嫌気がさしたり、今の自分に無いものを求めたりします。しかしそれは、私に欠けている何かがあるのではなく、自分自身を見つめる眼を失っているだけです。「自分のことは自分が一番わかっている」などというセリフを聞きますが、自分のことを一番わかっていないのは、実は自分自身です。わかっているのなら、今の私以上を求めないし、今の私を卑下しない。わかっていないから求める。見えていないから落胆する。

一生を尽くしてでも遇(あ)わねばならない人

たとえ一生を尽くしてでも
遇わねばならない
ひとりの人がいる
それは私自身
     廣瀨杲

自分の想い(理想)で作りだした私を探し求めて憂う私。でも、遇わねばならない私とは、理想の私ではなく、この私自身。阿弥陀の慈悲が円満具足している私。その私自身に出遇う旅が、人生の目的なのかもしれない。
思春期は、「自分はどうあるべきか」「自分は何をしたいのか」「本当の自分はどこにいるのか」を求めて、「自分探しの旅」に彷徨う時期です。その時は苦しくても、大切な時期です。今の自分に足りない何かを求めて彷徨っていたけれど、すでに満ち足りていた。「青い鳥」のようだけれど、彷徨った時間があるからこそ、出遇えた温もりがある。

いのちの満足

人間は
一生を通して誰になるのでもない
自分になるのだ
    中野良俊

一生を通して自分になる。自分という大樹の根が張る大地には、阿弥陀の慈悲心が地下水の如く円満具足している。
例えとして、私の名前で書かせていただきます。

白山勝久のなる木(いのち)に
白山勝久がなった
木(いのち)の満足

あなたも、自分のお名前に置き換えてお読みください。

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掲示板の人形 おひなさま
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