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2018年3月 1日 (木)

2018年3月のことば

2月28日から3月1日にかけて、天候が荒れましたが、曇り空が晴れると、暖かい日射しとともに明るくなってきました。春も近づいていますねhappy01
が、春一番が吹くかもtyphoon 花粉症持ちには、つらい季節です。春が近づいていますねweep
以下、3月の掲示板のことばですcherry

 apple apple apple

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赤い実のなる木に赤い実がなった
木の満足
  竹部勝之進

人間が求める満足は人それぞれ
ピョンチャンオリンピックが閉幕した。開会前は、アスリートのための大会を政治が踏みにじり、スポンサー第一の運営に辟易し、関心もなかったのだけれど、オリンピックが始まると、アスリートのパフォーマンスに見入ってしまった。国を越え、性別を越え、すべての選手・スタッフにありがとうという気持ちでいっぱいです。これから始まるパラリンピックも楽しみです。
最高レベルの技術を持った選手たちが集まる大会。自国の選手を応援する気持ちが湧き起こるのは当然のことかもしれませんが、競技全体を見ていれば、どこの国の選手であろうと、表現される力に目を奪われる。メダルの色では計れないすばらしさが、競技中のみならず、その前後に溢れている。
テレビ桟敷(現代ではネット桟敷か)の観衆は、メダル獲得に満足を求める。結果、競技そのもの、プレーヤーその人を見ず、メダルやその色に目を奪われる。ひとつでも上の順位を、ひとつでも上のメダルを目指しているのは、誰よりもプレーヤー自身に違いない。しかし、鍛錬を積み、より高次なレベルになればなるほど、「この人にはかなわない」という嗅覚も鍛えられていく。決して諦めてしまうという意味ではなくて。
観衆はメダル獲得に満足を求めるが、プレーヤーは、結果よりも、競技ができること自体に、「この人にはかなわない」と思えるほどの選手と競えることに満足を見出しているかもしれない。また、金メダルを獲得しても、自分のパフォーマンスに納得できずに満足感がないプレーヤーもいるかもしれない。順位は振るわなかったけれど、自分の中では最高のパフォーマンスが出来たと、満足感を得たプレーヤーもいることでしょう。どこで満足を得るのか得ないのか、いつまでも満足感が続くのか、次の瞬間には失せてしまうのか。人間が求める「満足」は、人それぞれです。

どのような状態でも憂う私
お釈迦さまのことばです。

田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(中略)田なければまた憂えて田あらんと欲(おも)う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。    
  「仏説無量寿経」

(田畑や家があれば、それらの維持管理に迷い、誰かに取られはしないかと心配し、無ければよかったのにと憂鬱になる。田畑や家がなければ、それらを求めて、また憂う)

人間の本質的な姿は、お釈迦さま在世の2500年ほど前も、それ以前も、現代も、まったく変わりありません。満足を求めて生きるのだけれど、なかなか満足は得られない。たとえ「満足した!」と瞬間は感じられても、次の不満が生じる。本当の意味で満足を得るということはありません。
さて、「満足」を、人間が求めて、努力・追求をして手に入れるものだと思い込んではいないでしょうか。「満足」は、人間が求め、人間が為すものではありません。すでに我が身にいただいているものなのですから。
「満足」は、元々「円満具足」といいました。「円満」は、たとえるならば、円形の縁(ふち)のある器に、なみなみと水が注がれている様子。「具足」は、何も欠けることなく、すべてが具わって(備わって)いる様子。つまり「円満具足」とは、何も欠けることなく満ち足りている様子を意味します。では、なにがそれほどまでに「円満具足」しているのか。阿弥陀如来の、私への慈悲心です。阿弥陀の慈悲心が「円満具足」・・・「満足」しているからこそ、私が私として生きています。国を越え、性別を越え、時代を越え、個々の能力を越え、すべてのいのちに阿弥陀の慈悲心は注がれ、満ち満ちています。人間は、自分に欠けたものを求めて満足を得ようとします。しかし、すでに満足しているからこそ、私がいます。
他者(ひと)と比べると、自分には何かが欠けていると感じるものです。今の自分に嫌気がさしたり、今の自分に無いものを求めたりします。しかしそれは、私に欠けている何かがあるのではなく、自分自身を見つめる眼を失っているだけです。「自分のことは自分が一番わかっている」などというセリフを聞きますが、自分のことを一番わかっていないのは、実は自分自身です。わかっているのなら、今の私以上を求めないし、今の私を卑下しない。わかっていないから求める。見えていないから落胆する。

一生を尽くしてでも遇(あ)わねばならない人

たとえ一生を尽くしてでも
遇わねばならない
ひとりの人がいる
それは私自身
     廣瀨杲

自分の想い(理想)で作りだした私を探し求めて憂う私。でも、遇わねばならない私とは、理想の私ではなく、この私自身。阿弥陀の慈悲が円満具足している私。その私自身に出遇う旅が、人生の目的なのかもしれない。
思春期は、「自分はどうあるべきか」「自分は何をしたいのか」「本当の自分はどこにいるのか」を求めて、「自分探しの旅」に彷徨う時期です。その時は苦しくても、大切な時期です。今の自分に足りない何かを求めて彷徨っていたけれど、すでに満ち足りていた。「青い鳥」のようだけれど、彷徨った時間があるからこそ、出遇えた温もりがある。

いのちの満足

人間は
一生を通して誰になるのでもない
自分になるのだ
    中野良俊

一生を通して自分になる。自分という大樹の根が張る大地には、阿弥陀の慈悲心が地下水の如く円満具足している。
例えとして、私の名前で書かせていただきます。

白山勝久のなる木(いのち)に
白山勝久がなった
木(いのち)の満足

あなたも、自分のお名前に置き換えてお読みください。

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掲示板の人形 おひなさま
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