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2018年2月14日 (水)

服や食によってお育ていただいている私です

公立校の制服(標準服)をアルマーニに決めたというニュースで、論争が起きています。
そのことの是非については書きませんが、校長先生の説明の中で「服育」ということばが出て来て、そこに違和感がありました。
「服育」という表現を初めて耳にしたのですが、ことばとしては既にあるようですね。
「服育とは、主に衣服に関連する事項を通して、TPO・マナーなどの社会性、環境問題、健康・安全、国際性・文化等に対する理解を深めさせ、子どもの生きる力を育てようという取り組み」とのこと。
かつて「食育」ということが言われましたが(今でも言われていますが)、上記「服育」に照らすならば、「食育とは、主に食に関連する事項を通して云々」ということでしょうか。
確かに大切なことですが、服や食を通して、子どもたちに教育するという姿勢がとても高圧的です。
TPOを気にしない服装をし、着る物や食べ物の他文化をひやかしてみたりバカにしてみたり、値段が手頃だからといって着る物をサッサと捨てたり「恵方巻」だとか騒いで大量の巻物を廃棄処分したり・・・そんな生活をしている私たちが、どの口で「服育だ」「食育だ」と言えるのでしょうか?
TPOに合わせた服を身に着ける。「いただきます」「ごちそうさま」の姿を見せる。私たちが身に着ける衣服や口にする食料の背景には、貧しい国に生きる方たちが安い賃金で働かされている現実を伝え。想いを馳せる。
常日頃の姿勢で、子どもたちに伝えることができます。子どもたちは、大人の姿を見ています。私自身が衣服や食物、その背景について想いを巡らす。その姿は、周りの人に、次の世代に伝わっていくことでしょう。そのことが「服育」や「食育」の姿勢ではないでしょうか。

「子育て」という言い方をしますが、そういう ことば はなく、本来は「子育ち」だったと聞きます。
子どもたちは、親や周りの人の愛情を受けて育ち、目にするもの耳にするもの感じるものを身心に受けて、自然に成長していきます。子は育っていくもの、子育ちするものなのです。
それが、いつの頃からか、親の要望(こうそだって欲しいと習い事や幼児期からの教育に熱心になる)、親の都合(忙しいから大人しくしていて欲しい、これで遊んでいてとずっとテレビを見せたり、スマホに子守をさせる)最優先で子どもを育てる「子育て」をするようになりました。子ども中心から大人中心になったということでしょうか。
「服育」も「食育」も悪いことだとは思いませんが、大人の事情の押し付けなのか、先ずは私自身が想いを馳せ、そのうち共に考えてゆけるようになるのか。

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