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2018年2月15日 (木)

人間・・・ともに生きていく人となる

昨日(2月14日)は西蓮寺聞法会
寒い中、聴聞にお出かけいただき、人生の先輩たちの姿に感謝。
チョコレートもいただき、ありがとうございます。美味しくいただきました。

本日(2月15日)涅槃会(お釈迦さまがお亡くなりになった日)
お釈迦さま、現代(いま)に続く仏法聴聞の歴史を開いてくださり、ありがとうございます。

昨日の聞法会のテーマは「ともに生きていく人となる」
昨年亡くなられた日野原重明先生のことばを元にお話。

20世紀の哲学者マルティン・ブーバーのことばを読み返し、医師としての生き方を問われた日野原先生は語ります。

ブーバーは、他者を「あなた」と呼ぶか、あるいは「もの」とみなすか、と問うていました。私はとっさに、医師にはこの2つが同時にその心に宿っていることを、自省しながら思ったのです。科学的探求心が高じたとき、医師はかけがえのない一人の人間である患者さんを見ずに、自らの研究の対象として、病んだその臓器を見ています。自分のもとに、一つでも多くのがん化した臓器や老化した血管がいまにも到着することを待ち望む気持ちにもとらわれます。厄介な病いであればあるほど、研究意欲に燃える医師の心は沸き立つのです。 そのような悪魔性をもつ自分を律して、患者さんを「あなた」と呼ぶ、人間本来の関係性に医師は立ち返らなくてはいけません。(中略) 他者を「あなた」と呼ぶ関係は、何も医師に限らず、人間がつねに問われている態度でもあるはずです。人間が「人」と「間」の二文字で書き表されるのは、私たちは人とのかかわりなくして存在しえないということの証でもあります。かかわりを通して、人は学び、育ち、傷つけ、そして慰め合うのです。「私とあなた」「私とそれ」という二つのかかわりのなかに生かされています。もし、同時代に生きるすべての人たちを「あなた」と呼べたならば、世界を覆っている紛争や飢饉や貧困に、何らかの救いの糸口が見出せはしないでしょうか。それを、より日本人的な感覚に引き寄せて言うならば、「あなた」ではなく、「私たち」と呼んでもいいかもしれません。

「あなた」と「それ」。目の前の人を、同じ人間として受け止めるか、私ではない他の誰かとして捉えるか。目の前の人を「あなた」と呼べたならば、「世界を覆っている紛争や飢饉や貧困に、何らかの救いの糸口が見出せはしないでしょうか。
私の文章を読んでくださっている方はお気づきと思いますが、「他者」と書いたときに、「ひと」とルビをふっています。「たしゃ」と読んでしまうと、他人事、自分を含めない誰かのこと、と思いこんでしまうからです。
親鸞聖人も、野山で狩りをし、海で漁をし、生き物のいのちをいただいて生きている人々、「いし・かわら・つぶて」と見下されている人びとの姿を受け止めて、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」と、「われら」と表明されています。日野原先生の文章を読んで、目の前の人を「私たち」と受けとめ、他者も「ひと」として交わられた親鸞聖人のことを思いました。

日野原先生の文章
「人間が「人」と「間」の二文字で書き表されるのは、私たちは人とのかかわりなくして存在しえないということの証でもあります。かかわりを通して、人は学び、育ち、傷つけ、そして慰め合うのです。「私とあなた」「私とそれ」という二つのかかわりのなかに生かされています。もし、同時代に生きるすべての人たちを「あなた」と呼べたならば、世界を覆っている紛争や飢饉や貧困に、何らかの救いの糸口が見出せはしないでしょうか。」
を読んで、先日2月13日に投稿した宮子あずささんの文章
実際の社会は、温かい人柄の人が病に苦しんだり、時に通り魔に襲われる理不尽に満ちている。
公正世界信念には無理がある。ほどほどに諦め、誰が悪くなくても悲しいことは起こると認められたら。不安と引き換えに、私たちはもっと互いに優しくなれるのではないだろうか。

が重なって聞こえてきました。

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