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2018年1月 4日 (木)

「如是我聞」

2018年の年賀状を書いているとき、あらためて2017年年頭にいただいた年賀状を見返してみる。
手書きのメッセージが書いている年賀状は、印刷だけの年賀状と違って、その人の顔や体温や想いが感じられる。
などと言いながら、受け取った際には感じなかった感覚が、今、こちらに湧いてくる。
ある方からいただいた年賀状に手が止まる

「その愚及ぶべからず」という語がある。これは、もと称(ほ)めての言葉であるということであるが、私にはあざけりの言葉であっても差し支えはない。  金子大榮

金子先生のことばの後に、
「如是我聞」以外にないんだよね
と続く。

「如是我聞」・・・「このように私は聞きました」
お釈迦さまのお側で、説法を聞き続けた阿難尊者。
経典編纂の際、阿難尊者の耳の底に残ることばを書き記しました。
阿難尊者は、「このように私は聞きました」と、語り始めます。
経典はほぼ「如是我聞(あるいは我聞如是)」で始まります。
「他の人はどう聞いたか分かりませんが・・・」というニュアンスではなく、お釈迦さまがお説きになった内容に違いはありませんと、責任の所在を明確にしたことばと受け止めています。

「如是我聞」以外にないんだよね。
書き手・話し手の想いは当然あるけれど、結局はこの私がどう受けとめているか、どう聞いているか。つまり、「どう生きているか」。
そんなメッセージかな?と、今更ながら(いや、「今は」か)受け止めています。南無阿弥陀仏

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