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2018年1月25日 (木)

無関心は支持であり共犯である

「東京新聞」 2018年1月23日(火)朝刊
コラム「本音のコラム」より

無関心の罪 鎌田慧(ルポライター)

 国の暴力の極限が侵略戦争だが、個人への直接襲いかかる暴力として、罪なきひとを罰する冤罪(えんざい)がある。冤罪の被害は家族をふくめてもごく少数だが、施設への収容と隔離を強制されたハンセン病者の被害は、けっして少なくはない。
 ハンセン病はかつて癩病(らいびょう)と呼ばれ、伝染性が恐怖された。国は「らい予防法」を制定し「無癩県運動」という、患者撲滅の浄化運動を全国的に実施した。その被害の実態は、熊本の元患者など勇気をふるって立ち上がった違憲国賠訴訟のなかで、ようやく明らかにされ、わたしたちの知ることになった。
 一昨年からハンセン病家族による、国の謝罪と損害賠償を求める裁判が、熊本地裁ではじまった。3月の法廷から原告の証言がはじまる。
 21日、裁判応援の集会が東京・東村山市の多磨全生圓で開かれ、弁護団の田村有規奈さん、『ハンセン病家族たちの物語』の著者・黒坂愛衣さんの講演があった。
 「業病(ごうびょう)」といわれた患者の家族は身を隠して生き、声をあげる機会を奪われてきた。だから、まわりから応援する声が必要だ、と田村さん。黒坂さんは「怖い病気」とする国の刷り込みが社会ばかりか患者本人と家族の意識と行動まで支配した恐怖を語った。
 排除した「社会」の側にわたしたちがいた。無関心は支持であり共犯である。

pencil

〈雑感〉
何か問題が起こったとき、すぐに問題の責任者さがしをして、その人を叩く立場に立とうとする。
けれど、責任の一端は、「無関心を決め込む私」 「加害者意識が希薄な私」にもあります。

東本願寺出版発行「同朋新聞」 2017年5月号
「時問自問‐時代に問われ 自らに問う‐」に執筆させていただいた文章を添えさせていただきます。

「加害者としての当事者意識を持つ」ということ

 「当事者になる」ということと「当事者意識を持つ」ということについて考えています。今、日本ではハンセン病のこと・原発のこと・沖縄の基地のことなど、さまざまな事柄があります。それぞれの事柄で、差別や被害を受け、つらく苦しい想いをしている人がいます。「当事者」とは、つらく苦しい想いをしている人であり、「当事者意識を持つ」とは、その方々の想いにふれ、少しでも寄りそえる身になろうと努めることかと思います。「当事者になる」ことと「当事者意識を持つ」ことの間に隔たりがあることは当然のことなのですが、深い溝のようなものを感じ、気になっています。
 昨年4月、姫路で開催された「第10回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」に参加しました。基調講演で講師の徳田靖之さん(弁護士・ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団代表)が、「当事者とは誰のことか。今なお残る差別・偏見の根本には、自分たちがこの問題において加害者であったのだという意識があまりにも希薄だと感じています」と話されました。ハンセン病問題において「当事者」と言う場合、差別を受けてきた元患者さんのことを思い浮かべていました。しかし、ハンセン病「問題」における「当事者」とは、他でもない「加害者である私」のことでした。
原発の問題も、原発事故により故郷を奪われた方々、家族が分断されてしまった方々を「当事者」と思っていました。しかし、電気がある生活をあたり前と思い満足していた私こそが「加害者としての当事者」です。
 さまざまな事柄に「問題」とつけますが、何が「問題」なのか。「加害者としての当事者意識を持つ」ことの希薄さが深い溝を生み、「問題」とつけることによって、かえって事柄の中味を見えなくしてしまっているのではないでしょうか。

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