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2018年1月

2018年1月18日 (木)

おとなになってから わたしを支えるのは 子ども時代の「わたし」

子どもたちよ
子ども時代をしっかりとたのしんでください
おとなになってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の『あなた』です
   石井桃子さんの言葉

2018年1月17日(水)「東京新聞」朝刊 「地域の情報」
 児童文学者 故石井桃子さん創設 家庭文庫の草分け「かつら文庫」今春60周年より

石井桃子さん(1907年~2008年)
ミルンの「クマのプーさん」やポターの「ピーターラビット」シリーズなど数多くの児童文学の名訳により、1954年に菊池寛賞を受賞。「ノンちゃん雲に乗る」(47年)「三月ひなのつき」(63年)などの創作も読み継がれている。
1958年3月、自室の一室を使って「かつら文庫」を始めた。

 pencil

センター試験が行なわれていますね。受験生の皆様、ご心労もお疲れも多いことと思います。お風邪など召しませんように。
受験に向けて、一所懸命に勉強をされたことと思います。その努力は、決して無駄にはなりません。けれど、大人になり、年を重ねたときに、ふと思い出されるのは、幼少期に見た(読んだ)絵本や漫画だったりします。また、そのときの記憶が土台となって、受験期に於ける知識の上書きに役立つものと思います。
私の場合、小学生の時にかなり漫画を読みあさっていたのですが、漫画で漢字や慣用句や諺や土地の名前や名産品やいろいろなものの見方や結果がすべてでは無いことや、いろいろなことを学んだなぁと思います。
教科書の中味は思い出さないけれど、漫画の一コマは折に触れ思い浮かびます。
本も読めたらよかったと思いますが、今でも本を読めない人なので、せっかく本を買っても、多くが積ん読(つんどく)になっていますsweat01
読書体験だけではありませんが、年をとってから感じられる私の土台となっていることって、子ども時代のことが大きいです。あ、学生時代も欠かせないと思います。春からも、しっかりとたのしんでください。出会いを、学びを大切にpaper

2018年1月17日 (水)

暴発

2018年1月16日(火) 昨年、ノーベル平和賞を受賞した非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長と、与野党代表らによる公開討論会が開催された。
フィン事務局長は、日本政府に核兵器禁止条約への署名を求めたが、明確に賛同したのは共産、自由、社民3党と参院会派「沖縄の風」だけ。核抑止を理由に自民、公明両党の与党は慎重で、他の野党も明言はしなかった。

 typhoon

同じ日、カナダ西部バンクーバーで、北朝鮮の核問題を協議する外相級会合が開かれた。
各国は北朝鮮が非核化を受け入れるまで圧力強化を継続していくことで一致した。
会合には、カナダ・米国の他、韓国、日本やインドなど約20カ国が参加。中国やロシアは招待されなかった。

 typhoon

自分はオモチャを持ち続けて、それでいて持っていない人、持とうとしている人に「持っちゃダメだよ。認めないよ」と高圧な態度で迫る。
対話が成立しないのは、相手のせいばかりではなく、自分自身の問題でもある。

2018年1月16日 (火)

野球殿堂2018

2018年プロ野球殿堂 プレーヤー表彰で松井秀喜氏 金本知憲氏が、エキスパート表彰では原辰徳氏が選出されました。

松井選手も金本選手も試合に試合に出続けることにこだわり、松井選手は日米通算1768試合連続 金本選手は1492試合連続フルイニング出場を成し遂げました。

連続出場にこだわる松井秀喜氏のことば
ファンは毎日球場に来られるわけではない。1年に1度しか見に来られない人もいる。やっとの思いで観戦できた日に、僕が出なかったらホームランを楽しみにしていた子どもたちはがっかりする
セリフや思いも素晴らしいですが、それだけの成績を残し続けないと試合には出られないわけで・・・。
東京ドームで、ライトの松井選手とセンターの高橋由伸選手(現ジャイアンツ監督)がキャッチボールしていて、そのボールの強さ早さに驚いたことを鮮明に覚えています。

原辰徳氏は、お父さんも高校・大学の野球監督として知られていますが、原辰徳氏が初めてジャイアンツ監督に就任した2002年、父 貢氏は、次の言葉をおくっています。
選手と監督は違う。床に入って頭を枕に付けたら考え事はするな。考え事をしたいなら、電気をつけろ」と。
その言葉のことは、当時の新聞か何かで知り、私も「そのとおりだなぁ」と思いました(監督をするわけではないけど)。以来、床に就いたときには考え事をしないように、考え事をするなら机に向かってということを心がけていますが、実はとても難しい。布団の中で考え事をして、何か思いついても、朝起きたら忘れているものです。それに、休むときにはしっかり休め!! それも監督の仕事だ!!というメッセージだったのかもしれません。

名を残す人には、確固たる想いと、善知識(よき指導者)がいるものですね。

2018年1月15日 (月)

恩に生きる

「東京新聞」連載「今週のことば」より 〔2018年1月14日(日)朝刊〕

(師の言葉や生きざまを心に刻み、生きることが=意訳)
恩を知り恩を報ずることである。
      宏智正覚(わんししょうがく)禅師 (中国の宋代の禅僧)

青山 俊董(あおやま しゅんどう)さん(愛知専門尼僧堂長)の文章

 限りない多くの師に導かれての今日の私であるが、年の始め、内山興正老師からいただいた一言にあらためて参じたい。
 老師は生涯、宗門のアウトサイダーに徹して生きた方で、宗門内のことはあまりご存じない。ある時お訪ねをし、「今の宗門はこんなふうで、摂心のあり方もこんなあり方で・・・」としゃべる私に、老師はポツリとおっしゃった。
 「青山さんね。事実を見て云々いってもくたぶれるだけで、そこからは何も生まれてきやしない。その暇があったら、今私がここで座禅する、今私がここで真実を行ずること。そこからのみ明日への新しい力が生まれ、新しい芽が育つんですよ。仏教は主義や思想ではない。『おれが今、やれるだけやる』、これだけですよ」
 私は頭から鉄槌を下された思いで頭を垂れこの一言を頂戴した。
“あゝ、又しても眼が外を向いていたな”と。常に自誡の言葉としている。
(以上)

 pencil

他者をどうのこうの言うのは簡単で、
自分を見つめることを忘れないように
眼が内側を向いているか否か・・・

「おれが今、やれるだけやる」
これだけですよ
と、ポツリ

2018年1月14日 (日)

今年 2018年は戌年(いぬどし)ですね。
「戌」という漢字の部首は「戈」(ほこづくり)です。

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「戈」という漢字は見慣れませんが、『仏説無量寿経』の中に「兵戈無用(ひょうがむよう)」ということばが出て来ます。「仏教広まるところには、兵も戈(武器)も無用である」という意味です。
しかし、兵や戈の数や充実を競い、争いが起ころうとしている、否、現に争いが起きています。
ということは仏法は広まってないということか? という自問自答も生まれます。

昨日、
「仏法は説よりも聞にはじまる」(曽我量深)
「人間を尊重するということは相手の話を最後まで静かに聞くことである」(安田理深)
ということばを紹介(投稿)しました。
「聞」の欠落は、人間不信へと通じると教えられています。
「戈」で脅し合いをするのではなく、聞き合うことが求められています。
仏法が広まっていないのではなくて、聞く耳を持たない“わたし”が浮き彫りになっています。

「戌」には「滅」の意味も含まれるそうなのですが、「戌」という漢字の中に「戈」があるからといって、武器でもって人と人とが いのちを奪い合い 消し合いする世の中になりませんように。相手を傷つけることは、やがて自身の滅亡へとつながります。

2018年1月13日 (土)

聞法

仏法は説よりも聞にはじまる
曽我量深

人間を尊重するということは
相手の話を最後まで静かに聞くことである

安田理深

いただいた年賀状を読み返していたら、先達からの大切なことばに目が留まりました。
お釈迦さまがどんなに大切なお話を説かれても、聞く人、つまり悩み苦しみながらも懸命に生きる人がいなければ、仏法が大切な教えとして今に伝わることはありえませんでした。
聞くということを通して、仏法を、人間本来の姿を知ることができます。
聞くは、人間尊重のはじめなり。南無阿弥陀仏(‐人‐)

2018年1月12日 (金)

私にできることは

2018年1月8日(月)に、成人の日に着物や着付けを予約したにもかかわらず、業者が連絡がつかなくなる事件について投稿しました。
その事件について、キングコングの西野亮広さんが自身のブログを更新し、次のように記されました。
「大人になる日に大人が裏切ってしまったことを、同じ大人として、とても申し訳なく、そして恥ずかしく思っています。本当にごめんなさい。大人が面白くない未来は面白くないので、今回失った信用はキチンと取り戻したい」
そして、被害に遭われた方やそのご家族のために、ご自身が無料の成人式イベントを立ち上げることを発表されました。
素晴らしい!と思いましたし、私も大人として申し訳なく感じています。
自分が面白くないと思っている世界を、これからの いのち に歩ませることはできません

私にできることは

2018年1月11日 (木)

阿弥陀さまに還ってゆく 南無阿弥陀仏

人は、死んでもあの世で人として個体として生きているという発想が、強くあるのではないかと思う。
だから、「あの世でまた出会っていることでしょう」「あの世で仲良くしていることでしょう」とか「あの世でまであの人に会いたくない」という声も聞かれ、それゆえ「お墓で甕を並べて挙げてください」とか「同じお墓に入りたくない」という想いも湧いてくるのだと思う。

でも、人として、いのちある者として生まれ、阿弥陀さまの浄土へ還っていく姿は、波が生じ海へ還り海と一体となるようなもの。波が波の形のままにあり続けるわけではないように、個体としてのいのちがあり続けるわけではない。海から生まれ海へと還っていく。いのち から生まれ、いのち へと還ってゆく。

2018年1月10日 (水)

西蓮寺聞法会新年会2018

2018年1月10日(水) 西蓮寺聞法会新年会
定例の聞法会&コールリンデン(仏教讃歌を歌う会)、休会中の白骨の会(仏教青年会)出席者が一堂に会す新年会。
先ずは本堂で勤行と聞法の時間。法話は私(副住職)、大まかな内容は「すでにご利益をいただいている教え、浄土真宗」

新年、神社に初詣でに参り、お賽銭を入れていろいろなお願い事をする方も多いと思います。けれど、お賽銭や懸命なお願いや善行(自分が行なう善い行い)など、自分がしたことに対していただく対価(?)をご利益と思われがちだけれど、それはおかしなことだと思います。この身をいただき、ここまで生きてくる中でさまざまな出会いがあり、それらの積み重ねで、私が私となりました。つまり、ご利益というものは、既にいただいているもの。「こういう結果(家内安全・商売繁盛・無病息災などなど)をお願いします」などと期待してお願いするものとは違うと思います。
というようなお話をしました。

本堂内陣の水引を新調したので、そのお披露目も。

会館に移って、コールリンデン参加者による合掌披露。

それから会食 新年会。もちろんお酒付きbottle
楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

2018年1月 9日 (火)

教えを開く者となる

私は、幸いにもお寺に生を受け、親鸞聖人の教えに出遇い、感動し、その親鸞聖人の教えを伝えていく役割をいただくことができました。お寺という場所・舞台・前提があるわけです。
しかし、親鸞聖人の教えに出遇い、感動し、その教えを伝えていく者となりたい!と志し、そこで初めて自らお寺を立ち上げ、開く方々がいます。開教する者、開教者と言います。
その開教を志された方々のために、開教者実習というカリキュラムがあるのですが、その中の「寺報講座」の講師を過日勤めました。そして、いよいよカリキュラムも修了し、2018年1月9日、開教者実習終了式が練馬の真宗会館で行なわれました。
今年度は2名の参加者でしたが、お二人とも親鸞聖人の教えに出遇えた喜びと、これから教えを伝える者としての歩みを始める決意を語られました。
頼もしい仲間の誕生に涙し、「おめでとう、ありがとう」と声をかけさせていただきました。
ホント、嬉しいです。これからも、人生を通してよろしくお願い致します。

2018年1月 8日 (月)

新たに踏み出される一歩に

2018年1月8日(月)成人の日
祝日を月曜日に持ってくることに、いまだに馴染めずにいます。成人の日といえば、1月15日のイメージが・・・

生涯に1度迎える成人の日なのに、晴れ着の着付けや着物レンタルを行なう会社が連絡が取れなくなる事態が生じていると、ニュースで見ました。
楽しみにされていた新成人の方の気持ちを思うと、こころ苦しくなります。涙を流したり、「もう成人式には行かない」と言っている方もいました。

そのような中、既に予約で手一杯でしょうに、「なんとかしてあげたい」と、着物のレンタル業者や美容師さんたちが、困っている新成人やそのご家族のために、着物を手配したり、着付けや髪のセットをしてあげたというニュースを聞くと、ホッとします。

現代では、成人式や七五三や結婚式などおめでたい行事をさして「晴れの日」と言いますが、元々はご葬儀なども「晴れの日」と言ったと聞いたことがあります。なぜならば、その日を出発点として、新たな一歩を踏み出していくから。
おめでたいから晴れているのではなく、人生の節目節目に、自分の歩みを振り返るご縁をいただき、あらためて前を見ると、そこから視界が開かれていくから。だから「晴れの日」という。
悲しい出来事は無くすことは出来ないけれど、そこで手を差し伸べてくださる方々がいたこと、そのこともまた忘れられない出来事。忘れられない想いを胸に前を向いたら、涙で曇っていた視界に、光が射してきました。

2018年1月 7日 (日)

ひとつのパイを、どのように分けるか

サンデーモーニング(2018年1月7日放送)視聴
特集「揺らぐ世界~この時代の変わり目に~」
マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏など世界の富豪8人の総資産が、世界中の資産下位50パーセントの人々の資産とほぼ同じとの情報が。

地球上の限られた資源の奪い合いの結果、貧富の差が拡大。
人間の性とはいえ、つらい現実が突きつけられている。

先日、「御文を読んでいるときに 相田みつをさんの詩を思い出しました」と、書きましたが、今日も思い出した詩があります。

 うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる みつを

そうなのだと思います。しかし、分かっていながらもそれができない悲しみ。
資産下位50パーセントに位置付けられる人々の中でも(中だから?)、奪い合いは生じます。
目の前に、欲する物があれば手を伸ばしたくなる。それは、私自身のこと。つまり、格差を生み出す原因は「わたし」にあります。

とはいえ、相田みつをさんのことばを胸に生き続けたいと思います。

2018年1月 6日 (土)

星野仙一さん

今朝スマホを見ると、星野仙一さんの訃報がsign03(2018年1月4日逝去)

昨年、福岡でのソフトバンクVS楽天のクライマックスシリーズに、星野仙一楽天取締役副会長の姿がないという記事(見出し)を見て、「そういうときもあるでしょ!」くらいに思っていたのだけれど、体調が優れなかったのでしょうね。
選手としての姿は見てなくて、監督 星野仙一しかしらないけれど、中日監督時の数々のトレードと、阪神監督時代に優勝した際の「あーしんどかった」と、楽天監督時の初日本一が印象深いです。

たくさんの思い出をありがとうございます

2018年1月 5日 (金)

行動しているときも止まっているときも、座っているときも寝ているときも、いついかなるときもお念仏を

1月5日 お朝事にて
御文 第一帖 第五通(雪の中の御文)拝読

そもそも、当年より、ことのほか、 加州・能登・越中、両三か国のあいだより、 道俗男女、群集をなして、 この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとおり、 いかがとこころもとなくそうろう。 そのゆえは、まず当流のおもむきは、 このたび極楽に往生すべきことわりは、 他力の信心をえたるがゆえなり。 しかれども、この一流のうちにおいて、 しかしかとその信心のすがたをも、 えたるひとこれなし。 かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。 一大事というはこれなり。 さいわいに五里・十里の遠路をしのぎ、 この雪のうちに参詣のこころざしは、いかようにこころえられたる心中ぞや。 千万こころもとなき次第なり。 所詮已前はいかようの心中にてありというとも、 これよりのちは心中にこころえおかるべき次第を、 くわしくもうすべし。 よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。 そのゆえは、他力の信心ということを、 しかと心中にたくわえられ候いて、 そのうえには、仏恩報謝のためには、 行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。 このこころえにてあるならば、 このたびの往生は一定なり。 このうれしさのあまりには、 師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、 こころざしをもいたすべきものなり。 これすなはち、当流の義をよくこころえたる、信心のひととはもうすべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。

拝読しながら、相田みつをさんの詩を思い出していました。

 『おさい銭』
  百円玉一ツ
  ぽんと投げて
  手を合わす
  おねがいごとの
  多いこと
     みつを

2018年1月 4日 (木)

「如是我聞」

2018年の年賀状を書いているとき、あらためて2017年年頭にいただいた年賀状を見返してみる。
手書きのメッセージが書いている年賀状は、印刷だけの年賀状と違って、その人の顔や体温や想いが感じられる。
などと言いながら、受け取った際には感じなかった感覚が、今、こちらに湧いてくる。
ある方からいただいた年賀状に手が止まる

「その愚及ぶべからず」という語がある。これは、もと称(ほ)めての言葉であるということであるが、私にはあざけりの言葉であっても差し支えはない。  金子大榮

金子先生のことばの後に、
「如是我聞」以外にないんだよね
と続く。

「如是我聞」・・・「このように私は聞きました」
お釈迦さまのお側で、説法を聞き続けた阿難尊者。
経典編纂の際、阿難尊者の耳の底に残ることばを書き記しました。
阿難尊者は、「このように私は聞きました」と、語り始めます。
経典はほぼ「如是我聞(あるいは我聞如是)」で始まります。
「他の人はどう聞いたか分かりませんが・・・」というニュアンスではなく、お釈迦さまがお説きになった内容に違いはありませんと、責任の所在を明確にしたことばと受け止めています。

「如是我聞」以外にないんだよね。
書き手・話し手の想いは当然あるけれど、結局はこの私がどう受けとめているか、どう聞いているか。つまり、「どう生きているか」。
そんなメッセージかな?と、今更ながら(いや、「今は」か)受け止めています。南無阿弥陀仏

2018年1月 3日 (水)

おからだご自愛のほどを

暮れから住職が風邪っ気で、年末年始ゆえ様子を見ていましたが、流石にしんどかった様子。
1月2日の朝、「どこか病院やってないかな?」との声が弱々しかったです。
調べると、すぐ近くの総合病院の内科・小児科が休日診療をしてくださっていました。
住職を連れて行くと、すでに大勢の人が待合所に。
住職も含めて、ほとんどの方がインフルエンザの検査をして、診察室から出て来ます。
流行っているのですね。皆様お大事に。
ちなみに、住職はインフルエンザではありませんでした。いざというときのための解熱剤を処方していただき、帰ってきました。

それにしても、電話で対応してくださった方・病院の受付の方・お医者さん・看護師さん・薬剤師さん・掃除をしてくださっている方等々、病院以外にも、休日に働いてくださっている方々のご苦労とお気持ちに頭が下がります。ありがとうございます。
って、私も年末年始休みはありませんが。

2018年1月 2日 (火)

「雑」

 『万葉集』は、何と「雑」の分類から出発する。(中西進)    ◇

 年の初めといえばお雑煮。ここにも「雑」が使われている。古代中国の辞書によれば、「雑」は「五采(ごさい)相(あ)い合うなり」(五色の彩りがひとつになる)とか「最なり」(第一のもの)を意味すると、随想「美しきカオス」(「潮」昨年12月号)で国文学者は教える。雑伎も華々しい技芸のこと。歌集の「雑」も華やかな開始を示すと思われ、「その他」ではないと。ごっちゃ(多様)こそ「万物の礎」?

以上、「朝日新聞」に連載中の鷲田清一先生の「折々のことば」 2018年1月1日のことば

「雑」という漢字が含む“美しきカオス(混沌)”について学ばせていただきました。2018年一発目のsign01でした。

「雑」というと、文章中にもあるように「その他」とか、「別の」「メインではないけれど」といった意味合いを込めて受け止めてしまうけれど、そうではありませんでした。雑の中にこそ、融和の醍醐味が、共有の美しさが込められていました。

「仏説阿弥陀経」に「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」
(阿弥陀さまの浄土にある池には、車輪のような大きな蓮が咲いていて、青い色の蓮の花には青色の輝きが、黄色には黄色の、赤には赤の、白には白の輝きがある)
と、出てきますが、サンスクリット原典には「雑色雑光」があります。なにゆえ訳者の鳩摩羅什さんが原典を訳す際に外されたのか定かではありませんが、「青 黄 赤 白」を語ればすべて言い表していると考えたのかな?と、私は考えていました。つまり、「雑」を雑に扱っていました。
鷲田先生の文章を読んで、雑に扱って(受け止めて)いいものじゃないじゃん!と、正月早々反省したしだいです。

「雑色雑光」・・・多種多様なものが混ざり合った場合も、混沌のままに美しく輝いている
個々(青・黄・赤・白)の個性の尊重も大事だけれど、さまざまな人種・いろいろな考え方を持った人・あらゆる境遇を生きる人々が共に生きているこの地球。そこにこそ、それぞれが、それぞれの姿で輝ける(生き合える)世界がある!! 

2018年1月 1日 (月)

2018年1月のことば

2018年を迎えました
明けましておめでとうございます

朝5時に起床し、お参りの準備を整えて、朝6時 2018年修正会(しゅしょうえ)をお勤め致しました。
いつもと変わらぬ朝なのに、元旦は凛とした気持ちになるから不思議です。
常にそうありたいものです。常にそうあれよ!と、自分に渇を入れました。
本年もよろしくお願い致します

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南無阿弥陀仏

 fuji fuji fuji

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本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
  親鸞聖人「天親和讃」

でっかいもの

 でっかいものを 作ろうとして
 はじめて 知った
 でっかいものを作るには
 それよりでっかい足場を組む作業が必用な事
   (羽海野チカさん 『ハチミツとクローバー』9巻より)

たとえ何年の人生であっても
たとえどのような生涯であっても
今、築いている人生は「でっかいもの」
その「でっかいもの」を作るために
「それよりでっかい足場」が
組まれていました

私がいのちを尽くすために、
私は、一人では生きていけない
私は、一人では生きていない

目の前の人とも
周りの人とも
出会ったことのない人とも
私はつながっている

好きな人がいて
嫌いな人がいて
何とも感じない人がいて
みんながいて、私が私となりました

私一人の人生のために
どれだけ「でっかい足場」が
組まれていたことだろう

年が明けて、願い事に懸命な私は

安全を願わずにいられない
幸せを願わずにはいられない
家族や身内がいるから
「家内安全」を願い

そんな温かい家族を支えたいから
今の仕事が好きだから
「商売繁盛」を請い

家族の健康のため
自身の健康のため
「無病息災」を祈る

願い事は尽きない私です
けれど
願い事をするに先立って、
私に願いを起こさせる
家族や仲間、
仕事や世界やいのちがある

そんな家族や仲間や仕事や世界
そしていのちに囲まれて
今、私はいる

私が他のいのちを想うように、
私も他のいのちから想われていた
私が他のいのちの幸せを願うように、
私も他のいのちから願われていた

こんなに想っているのに
なぜ伝わらない
こんなに願っているのに
なぜ叶わない
こんなにがんばっているのに
なぜ実らない

私の願いが叶わないとき
「むなしい」とつぶやきたくなる
けれど、
願われている私なんだと目覚めたとき
願いが叶わないことを
「むなしい」というのではなくて
願いに気付いていないから
むなしかったんだなぁと微笑む

むなしさや はかなさを
つらさや 悲しさを生きる私
そんな私のことを願うはたらきは
私を私のままに受けとめていました

功徳や利益(りやく)は
善い行いや
お金の対価として貰うものではなくて
いのちをいただいて生きている
すでにその事実が功徳であり利益

功徳や利益は
つらさ悲しさ苦しさを
無くしてくれるはたらきではなくて
つらさ悲しさ苦しさを
すべてひっくるめてのいのちなんだと
目覚めさせてくれるはたらき

お汁粉も
きな粉餅も
クッキーも
甘さを引き立たせてくれるのは、塩
砂糖ばかりどんなに入れても
ついに甘さは感じられない

つらさ悲しさ苦しさは
有るより無いがいいけれど、
生きることを嫌悪する私の思いに反し
爪や髪やヒゲは伸び、
お腹が空いたと腹は鳴り、
痛めた傷を治癒しようと
私のいのちは懸命に生きている
果たして「私」とは どこにいるのだろう

願い事が成就しますようにと
宝物を求めて手を合わせるけれど
合わせる手の中にすでに大切なもの
南無阿弥陀仏が
功徳の宝海が満ち満ちている

海は
きれいな河川も
汚れ濁った河川も
分け隔てせずに
受け入れる

阿弥陀如来の慈悲のこころは
燃えさかるような煩悩を持った人も
煩悩でまなこが濁った人も
えらばず きらわず みすてずに
あきらめることなく
常に私を抱きしめている

 sun sun sun

掲示板の人形
今年は戌年(いぬどし)ですね
毎年1月恒例十二支人形の主役は犬です(イノシシが出番を待っていますhappy01

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