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2017年8月

2017年8月13日 (日)

深堀好敏さんからのメッセージ 2017年長崎平和祈念式典より

長崎・平和祈念式典 「平和への誓い」 深堀好敏さん

原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。爆心地から3・6キロ離れた長崎県疎開事務所に学徒動員されていました。11時2分、白い閃光(せんこう)と爆発音を感じ慌てて机の下にもぐり込みました。夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろうと山の中腹まできたところ、山上から逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だから…」と制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。ようやく辿(たど)りついた山王神社近くの親せきの家は倒壊していました。その中で家の梁(はり)を右腕に抱きかかえるような姿で18歳の姉は息絶えていました。あの時、私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて最期に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。そのあと大学病院へ向かい、さらに丘を越えると眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれ出るとともに怒りを覚え、「ああ、世界が終わる」と思いました。 ここ平和公園の横を流れる川には折り重なって死体が浮いていました。私は、三ツ山に疎開していた両親に姉の死を報告し、8月12日、母と弟と3人で材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘(だび)に付しました。その日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気がせまり目がくらみそうでした。母は少し離れた場所で地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。

たった一発の原子爆弾は7万4千人の尊い命を奪い、7万5千人を傷つけました。あの日、爆心地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びも束(つか)の間、得体(えたい)のしれない病魔に襲われ多くが帰らぬ人となりました。なんと恐ろしいことでしょう。私は「核は人類と共存できない」と確信しています。2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯(おび)えました。しかし、リスクの巨大さに喘(あえ)いでいる最中、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。地震多発国のわが国にあって如何(いか)なる厳しい規制基準も「地震の前では無力」です。原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。戦後「平和憲法」を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ世界各国から集めた尊敬と信頼は決して失ってはなりません。また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなりません。

私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います。

2017年(平成29年)8月9日 被爆者代表 深堀好敏


朝日新聞DIGITAL HPより)

2017年8月12日 (土)

2017年 長崎平和宣言

2017年8月9日 長崎平和宣言

 「ノーモア ヒバクシャ」  この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。  核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。  私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。  しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。    核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。  安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。

 日本政府に訴えます。
 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。

 私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
 あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
 世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。
 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
 
 人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
 世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
 今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
 
 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

2017年(平成29年)8月9日 長崎市長 田上富久


(長崎市HPより)

 sun

2017年8月9日(水) 早朝から暑さと眩しさに襲われた日でした。
しかし、原爆が投下され、上空で爆発し、熱線を浴びた方々が その肌で感じた熱さはどれほどのものだったことでしょう。想像を絶します。
一度手にした武器を手放せない人間の弱さ
一瞬でも相手への脅威を感じてしまうと ぬぐい去れない 相手への恐怖心
仮想敵国の脅威を煽り、武器の売買を正当化し、その経済効果による恩恵を目論む ほんの少数の権力者・関係者たち
それらが集まって、人類は結局は自分で自分の首をしめている。

被爆された方々が挙げてくださっている声を聞き、声に聞く

2017年 広島平和宣言

2017年8月6日 広島平和宣言

皆さん、72年前の今日、8月6日8時15分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。鋭い閃光がピカーッと走り、凄まじい放射線と熱線。ドーンという地響きと爆風。真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには、男女の区別もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍(しかばね)。その間をぬって、髪は縮れ真っ黒い顔をした人々が、焼けただれ裸同然で剝(は)がれた皮膚を垂らし、燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう。目の前の川は死体で覆われ、河原は火傷(やけど)した半裸の人で足の踏み場もない。正に地獄です。「絶対悪」である原子爆弾は、きのこ雲の下で罪のない多くの人々に惨(むご)たらしい死をもたらしただけでなく、放射線障害や健康不安など心身に深い傷を残し、社会的な差別や偏見を生じさせ、辛うじて生き延びた人々の人生をも大きく歪めてしまいました。

このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄(ほの)めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨(むご)たらしい目に遭(あ)うのは、あなたかもしれません。

それ故、皆さんには是非とも、被爆者の声を聞いてもらいたいと思います。15歳だった被爆者は、「地獄図の中で亡くなっていった知人、友人のことを偲(しの)ぶと、今でも耐えられない気持ちになります。」と言います。そして、「一人一人が生かされていることの有難さを感じ、慈愛の心、尊敬の念を抱いて周りに接していくことが世界平和実現への一歩ではないでしょうか。」と私たちに問い掛けます。

また、17歳だった被爆者は、「地球が破滅しないよう、核保有国の指導者たちは、核抑止という概念にとらわれず、一刻も早く原水爆を廃絶し、後世の人たちにかけがえのない地球を残すよう誠心誠意努力してほしい。」と語っています。

皆さん、このような被爆者の体験に根差した「良心」への問い掛けと為政者に対する「誠実」な対応への要請を我々のものとし、世界の人々に広げ、そして次の世代に受け渡していこうではありませんか。

為政者の皆さんには、特に、互いに相違点を認め合い、その相違点を克服するための努力を「誠実」に行っていただきたい。また、そのためには、核兵器の非人道性についての認識を深めた上で、自国のことのみに専念して他国を無視することなく、共に生きるための世界をつくる責務があるということを自覚しておくことが重要です。

市民社会は、既に核兵器というものが自国の安全保障にとって何の役にも立たないということを知り尽くし、核を管理することの危うさに気付いてもいます。核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です。そのような核兵器を保有することは、人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎないと言って差し支えありません。

今や世界中からの訪問者が年間170万人を超える平和記念公園ですが、これからもできるだけ多くの人々が訪れ、被爆の実相を見て、被爆者の証言を聴いていただきたい。そして、きのこ雲の下で何が起こったかを知り、被爆者の核兵器廃絶への願いを受け止めた上で、世界中に「共感」の輪を広げていただきたい。特に、若い人たちには、広島を訪れ、非核大使として友情の輪を広げていただきたい。広島は、世界の人々がそのための交流をし、行動を始める場であり続けます。

その広島が会長都市となって世界の7,400を超える都市で構成する平和首長会議は、市民社会において世界中の為政者が、核兵器廃絶に向け、「良心」に基づき国家の枠を超えた「誠実」な対応を行えるような環境づくりを後押ししていきます。

今年7月、国連では、核保有国や核の傘の下にある国々を除く122か国の賛同を得て、核兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政府は、「核兵器のない世界」に向けた取組を更に前進させなければなりません。

特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい。また、平均年齢が81歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々に寄り添い、その支援策を一層充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

私たちは、原爆犠牲者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げ、世界の人々と共に、「絶対悪」である核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。

平成29年(2017年)8月6日  広島市長 松井一實


広島市HPより)

2017年8月 1日 (火)

2017年8月のことば

8月に入りました。全国的に不安定な天気で、いろいろな地域で豪雨の被害が出ています。
被害に遭われた皆様の生活が、一刻も早く回復されますことを念じます。
とともに、猛暑・酷暑ゆえ、いつどこで天候被害が起こるか分かりません(どこでも起こり得ます)。共に、気をつけましょう。
こういうときこそ、助け合い・支え合いの気持ちでshine

今日のブログ「2017年8月のことば」をアップする前にテレビをつけたら、ちょうどNHK「クローズアップ +(プラス)」の始まるところでした。
タイトルは「“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ」
掲示板8月のことばは、日野原先生のことばからいただきました。
日野原先生の活動や考え方をお慕い申しておりましたが、テレビを見ていて、「あぁ、テレビやネットや本で先生のお人柄のほんのちょっとでも触れていた気でいたけれど、全然だったなぁ」と、恥ずかしい気持ちになりました。

周りの人々への感謝の気持ちを最期まで持ち続け、
いのちは若いときにピークを迎えたら後は下がっていくだけ・・・ではなくて、精神的にはどんどん成熟していくという観点を与えてくださり、
自身の最期を堂々と引き受けられるのではなく、やはり逡巡・葛藤する姿を見せてくださり、死も含めての生を生きるということを体現された日野原先生。
ありがとうございます

 bud bud bud

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 鳥は飛び方を変えることはできない
 しかし人間はいつからでも生き方を変えられる
                       日野原重明

人間は生き方を変えられる
2017年7月18日、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが亡くなられました。105歳でした。
子どもたちに平和と命の大切さを伝えるために、全国の小学校で「いのちの授業」を行ないました。
また、日本は75歳以上を「後期高齢者」と呼び、身も心も老いに追いやられてしまうような環境にありますが、「75歳からは第3の人生です」と提唱し、日野原先生が88歳の2000年に「新老人の会」を結成しました。「新老人の会」結成の根幹には、「老いてこそ、創造的に生きられる。新しいことにチャレンジする勇気を持ちたい」という想いが込められています。
2年ほど前、その「新老人の会」の大会で「人間は生き方を変えられる。自分に与えられた時間を他人のために使ってほしい」と講演をされました。

今月のことば「鳥は飛び方を変えることはできない しかし人間はいつからでも生き方を変えられる」は、日野原先生のフェイスブックのカバー写真に掲載されています。
インターネット上の交流サイト「フェイスブック」を、日野原先生は100歳になってから始められたそうです。まさに、「老いてこそ新しいことにチャレンジ」を体現されていました。
「人間は生き方を変えられる」とは、日野原先生の全生涯が発する強いメッセージであると感じます。

日野原先生は、1970年3月31日、58歳の時に「よど号」ハイジャック事件に遭遇します。ハイジャック機に監禁され、死をも覚悟します。無事に解放され、そのときのことを述懐されています。
「あの事件で人生観が変わった。これからは与えられた寿命なのだ。与えられた命を、人のために捧げようと思う。新たな人生をどう生きるかと考えたとき、誰かに恩を受けてその人に恩返しをするのは当たり前だが、むしろ関わりなき人にも私が受けた恵みを返すべきではないかと気付いた」と。

「生き方を変えられる」とは?
「生き方を変えられる」・・・どのようなときに、生き方を変えたいと考えますか?
 物事が上手くいっていないとき? 
 困難な出来事に遭遇したとき?   
 自分自身が嫌いになったとき?
いずれにしても、マイナスの状況をプラスに転じたいときに、生き方を変えたいと考えることが多いのではないでしょうか。でも、そんなときって、マイナスの要因を外に求めてしまうものです。つまり、他者(ひと)のせい。
そうすると、生き方を変えたいとは思っても、私自身を変えようとは思わないわけです。私自身が変わらずに、というか、私自身のことを見つめることなしに生き方を変えたいと願うことは、結局、飛び方を変えられない鳥と同じことではないでしょうか。

淋しいけど楽しい
過日、奥様のご法事をお勤めになられた旦那さんが、お気持ちをお話しくださいました。
「妻に先立たれて淋しいです。淋しいんですけど、とても楽しいんです。周りのみんなに助けられて、ありがたいなぁって感じます。子どもたちをはじめ、いい人たちに巡り会えたなぁって、感謝の気持ちでいっぱいです」
と、手を合わせながら語られました。
「淋しいけど楽しい」・・・一般的感覚では、「淋しい気持ちが強すぎて、楽しい気持ちになんてなれない」かもしれません。けれど、「淋しいけど楽しい」という矛盾して聞こえる感覚が、人間には起こり得ます。「悲しいけど嬉しい」とか、「憎いけど愛おしい」とか。
矛盾した感覚を同時に味わったり、いろいろな感情が入り交じった感覚に襲われたり。そのような感覚にこころが揉まれることを通して、「あぁ、自分で思い描く事柄って、ちっぽけだなぁ。自分で想定している感覚って、たいしたことないなぁ。自分の想いや力を超えた、もっと大きなものに、私は包まれていたんだなぁ」なんて感じることがあるはずです。そんなとき、人生観が変わったり、人生の奥深さを感じたりします。
「生き方を変えられる」とは、そういうことではないかなぁと想います。

よく考えると、「生き方を変えられる」といっても、電車が線路を変更して走るように、人間が人生という線路を変更して生きることなどできません。幾つも選択肢があって、そのつど選びながら生きてきたような気でいますが、そもそも私が生きる道は一本道です。私の人生で、出会う人々、経験する出来事、身に降りかかる困難に変わりはありません。しかし、目の前にいる人に何も感じず通り過ぎるのか、何かを感じながら生きるのかで、同じ道を歩みながらも、内容は大きく変わります。
私が生きてきた道を振り返ると、多くの人々の支えのおかげで生きてきた。その気付きが、周りへの感謝や大きなはたらきへの感動を生み、手が合わさる生活が始まります。そのような変化が、「生き方を変えられる」姿だと、先の旦那さんの話を聞いて思いました。
日野原先生は、ハイジャック事件を契機に「人のために生きる」と誓われました。行動として「人のために生きる」という側面も当然ありますが、それ以前に、「この人のおかげで私がいる」「この出来事のおかげで私が私となった」という感動が、先生の中に湧き起こったのだと思います。

昨年10月4日に出版された著書『僕は頑固な子どもだった』(株式会社ハルメク発行)に先生は語られています。
「最期の時には、ただ、感謝の思いだけを伝えたい」と。

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掲示板の人形
「金魚すくいをしているクマ を、見ているクジラ」という構図ですhappy01
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