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2017年6月

2017年6月30日 (金)

2017年6月の寺報より

Img387

考えてもみれば 不思議な表現 ってありますよね。
でも、さも分かった風にことばを使う。
不思議だなぁって思ったことを、口に出して尋ねるということは、とても大切なことです。
尋ねられた方が勉強になります!!

2017年6月25日 (日)

うけつぐ

2017年6月22日(木)有志で靖国神社見学
「遊就館(ゆうしゅうかん)」も見学の予定だったが休館日。
急きょ「しょうけい館(戦傷病者史料館)」への見学に変更。
以前、お寺の青年会でも、「しょうけい館」を見学したことがあります。
戦争で何が起きたのか、戦争の現実を知るため、しょうけい(承継)するために行くべきは「けいしょう館」だと感じます。個人的には、「しょうけい館」を見学し、その後みんなで感想を言い合えたのは良かったと思います。

6月23日は「慰霊の日」
1945年 沖縄の地で、民間の人々をも含めて20万人以上ものいのちが奪われた地上戦。
軍司令官 牛島 満 中将をはじめ司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされています。その日が1945年6月23日。

6月13日のブログ投稿でも書いた、大田昌秀元沖縄県知事が建立に尽力された「平和の礎(いしじ)」。20万人以上の沖縄戦全戦没者のお名前が刻まれています。
慰霊の日、平和の礎の前で涙し、伏せておられる方々の姿がありました。

ひとりの死とは、決してその人ひとりだけのことではなく、
ひとりの人生の背景には、多くの人々の人生があり、広く永く結びついている。
20万人の犠牲の背景には、何十万、何百万、何千万ものいのちが結びついている。
死は、個人的な出来事ではなく、数え切れないほど多くの人々(いのち)が込められている。
ひとりの死を、誉め讃えて慰めるのではなく、
ひとりの死は、私の死でもあり、また生でもあるのだと こころに刻みつけて 生きたい。

亡き人の
懸命に生きた
姿から
我がいのちの
これからを学ばん

2017年6月19日 (月)

見えない部分、見えていない部分、見たくない部分の方が大きい

宮部みゆき 『模倣犯』より

人間が事実と真正面からから向き合うことなんて、そもそもあり得ないんだ。絶対に無いんだよ。もちろん事実はひとつだけだ。存在としてはな。だが、事実に対する解釈は、関わる人間の数だけある。だから、事実には正面も無いし裏側も無い。みんな自分が見ている側が正面だと思っているだけだ。所詮、人間は見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じないんだよ。

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何が正しくて 何が間違っているのかなんて、結局 答はないのだろう。
時代によって、集団性によって、環境や境遇によって、そのときの気分によって、人間の物の見方や考え方は、いとも簡単に変わってしまう。
考え方が変わるというのは、まだましかもしれない。考えているのだから。「今、何の問題も感じないから、面倒くさいこと考えなくてもいいじゃん!」という思考停止もあることを思えば。

同じ物を見ていても、同じ物を食べていても、感想はバラバラ。
所詮、人間は自分がかわいい。

事実の一側面しか見ていないけれど、その“正面”が、ほんのピンポイントなのか、見える範囲全体を見わたしているのかでも、見え方は違う。そして、考え方も。で、見えていない部分があるんだなぁということを知っていれば、さらに考え方が膨らんでくる。

2017年6月18日 (日)

「愛し」「美し」を「かなし」と読む 「かなし」が含む慈しみ

久しぶりに 柳宗悦さんの『南無阿弥陀仏』を拝読、感嘆。

「悲」とは含みの多い言葉である。 二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることが出来ないのが命数である。 だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。 悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。 悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。 悲しみは慈しみ(いつくしみ)でありまた「愛おしみ(いとおしみ)」である。 悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。 古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。 信仰は慈みに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。 それどころか「悲母阿弥陀仏」なる言葉さえある。 基督(キリスト)教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに、‘Lady of Sorrows’の言葉を用いた。 「悲しみの女」の義である。

2017年6月17日 (土)

もし民意を尊重すると言うのであれば、強行採決する必要などありません。しかし強行採決したということは…

2017年6月17日(土) 「東京新聞」朝刊 「本音のコラム」

地球の反対側でも    師岡 カリーマ

 奇妙な1日だ。母の国 日本の国会で「共謀罪」法案の強行採決が行なわれていたちょうどそのころ、父の国 エジプトでも、民意や司法の判断を踏みにじるゴリ押し採決が行なわれていた。ふたつの島をサウジアラビアに譲渡する協定が、議会で批准されたのである。
 (多額の援助や投資と引き換えに?)主権が移譲されたのは紅海の要衝に浮かぶ二島で、国内の合意を得ることもせず、憲法にも反して、シシ大統領の一存で「領土を売った」として、エジプトでは強い反発を招いた。
 最高行政裁判所は協定を無効とし、二島をエジプト領とする判決を言い渡したが、この裁判で活躍した著名な人権弁護士は先日、「抗議デモで品位を乱す手ぶりをした」容疑で逮捕されている。来年の大統領選立候補に意欲を見せるが、有罪ならその道は閉ざされる。彼を支援する若者も数多く拘束されたと聞く。
 今回は、来月予定される最高憲法裁判所の判決を待つことなく、議会に二島譲渡を批准させた形だ。その間、治安部隊に包囲された記者組合本部で抗議集会が行なわれていたが、この日は記者逮捕の知らせがSNSを通じて続々と入ってきた。
 警察国家エジプトと一緒にするな、と叱られたら、素直に謝ろう。だがこうも言える。民意を無視する強行採決は本来、こういう強権政府がすることだと思っていた、と。    (文筆家)

 pencil

つい自国のことでいっぱいいっぱいになってしまいます。そんなときに、当然他の国でも権力者によって民衆が踏みにじられていることは起こっているわけで。
権力者やそのとりまきにとって都合の悪い人物は捕らえられ、都合の悪い情報はもみ消されていきます。そのことをエジプトは示してくださったのであり、このことは、やがて日本でも起こります。いや、既に起こっています。

2017年6月16日 (金)

悪いのはぜんぶ私たち

2017年6月15日(木) 「京都新聞」 配信

「共謀罪」成立、作家高村薫さん「悪いのはぜんぶ私たち」
「共謀罪」法案は、私たちが自由に発言したり、行動したり、時には国に盾突くこともできる、といった戦後民主主義的な価値観を否定するものです。テロ対策や国際組織犯罪防止条約の批准のためといった理由は口実にすぎない。そんなとんでもない法律を、極めて強引な手法で成立させてしまう。しかし、悪いのはぜんぶ私たちですよ。政権のウソを見抜くことができず、高い支持率を与え、好き勝手にさせてしまったのだから。
「テロ対策」というのはまやかし。再三の指摘にもかかわらず適用範囲はあいまいなままで、対象となる罪もテロとは無関係なものが多数含まれている。他方で、都合の悪い異論を封じ込めるに、これほど便利な法律はない。今は、政府の方針に堂々と言論で反対することができるけれど、共謀罪があれば、そうした行為と、処罰対象となる「反政府運動」とを結び付けるのは簡単。ほんの一歩、あるいは半歩ほどの違いしかない。
犯罪の兆しを言動から探るには、日常的な監視が必要になる。メールやスマートフォンのアクセス記録、位置情報などが常時収集される社会が当たり前になる。テロ防止の実効性は不明だけれど、市民への威圧効果は十分です。異論が封殺され、物騒なことには口をつぐむ。非常に均質な社会になるでしょう。
では、なぜ政府のウソを見抜けなかったのか。高い支持率を与えてしまったのか。それは考えることを放棄してしまったから。今の日本は情報が多すぎて「何が最善なのか」「何が本当なのか」が見えにくい。分かるのは「結局、世の中難しいね」っていうことだけ。そこで、自分で決断することに限界を感じ、ある種威勢の良い言葉で現状をスパッと切ってくれる政治家に飛びついてしまう。
国会の論戦も、旧態依然とした保守対リベラルの構図に終始し、無関心を加速させた。冷戦時代は、市民の生活感覚として保革の対立は理解できたけれど、今やそんな感覚は皆無でしょう。だから野党の批判も、大きな反対の動きにはつながらなかった。
繰り返しになるけれど、悪いのは私たち。ある意味、平和や民主主義が保障されてきた戦後社会に慣れすぎていた。安心感を覚え、権力に対する警戒心が失われていた。そう、この70年、権力は「優しい顔」をしていたんですよ。よく注視すると本当は違うけれど、市民感覚として権力は怖くなくなっていた。いつ権力が私たちに牙をむくか分からないのに。共謀罪はまさにそういう法律だったのです。私たちは本当に取り返しのつかないことをした、今は、そのことを肝に銘じることしかできない。

2017年6月15日 (木)

自分は対象外と思っていませんか?

2017年6月15日(木)
共謀罪法案が可決・成立してしまいました。
テロ集団を取り締まるためと不安を煽り、その必要性を強調する政府与党と、いつの間にか自民党と歩調を合わせる(同一化してしまった)維新の党。
また、オリンピック・パラリンピック開催のためには国際的にも必要不可欠と、もっともらしく説明するけれど、木村草太さんが指摘してくださるように、本当に必要ならば、まだ共謀罪が成立していない日本(東京)に、オリンピック・パラリンピック開催が決まるはずはありません。つまり、成立を急ぐ必要も、成立をさせる必要もないのです。
不安を煽り、もっともらしい理由を述べてまで、何ゆえ成立をさせたのか?

不安を煽られた側の国民も、「必要な法だから」「一般人は処罰されないんでしょ」というけれど、そう発する裏には、「私は悪いことはしないから大丈夫」という自己性善説が溢れている。
共謀罪が成立してしまった今、すべての人間が対象になってしまった。それでなくても、マイナンバーが当然の如くいろいろな場で必要となり、監視カメラが当たり前のように配備され、スマホやポイントカードが普及してビックデータが集約されている中で、プライバシーは無くなることだろう。
戦争できる国になり、個人は監視されデータまで握られ、つまり、データを元に徴兵され、今後憲法まで改悪されたら、国民は国(権力者)のコマになってしまう。
私たちは、チェスのコマになってしまいました。

国会で、公明党の女性議員が「金田法相は真摯に説明を尽くし…」などと語っていたけれど、本当にそう思っているのだろうか。自分のことばなのか?言わされたことばではないか?しかし、言わされたとしたら、彼女は思考停止に陥っている。自民党も公明党も、どうしてただの1人も「ちょっと待ってください」「時期が熟していません」「こんなん、おかしいでしょ!」と言わないのだろう?
党に従うのは当然でしょ!と思われるだろうか。でも、声を上げる人がいてもおかしくないのでは。思考停止に陥っているのだろうか。議員生活を終えてしまったら、あなたたちも、あなたたち言うところの「一般人」(共謀罪の対象)なのですよ。

2017年6月14日 (水)

聖人君子

前川喜平・前文部科学省事務次官が、いかがわしいお店に出入りしていたと報道され、「そのような店に出入りしている人間の言うことが信じられるか!?」という論調の記事が書かれている。
そういうことに目くじらを立てるのに、罪を犯した人間が国政に立候補して、また当選するということもたびたびある。そういうところは、あまり突つかない。つまりは、嫌いな人間・自分(自分ら)に不都合な人間に対しては容赦ないということの表われなのだろうか。

高位の肩書きを持つ友人に、「いかがわしいとされるお店への入店は気をつけなよ。誰が見張っているか分からないよ」happy01なんて冗談を言いました。
するとその友人が、「そんなこと言いだしたら、官僚の高位に就く人とか、国会議員も、医者や警察や学校の先生や、お坊さんもだね、聖人君子しか成れないよねぇ」と言いました。
そのときはすぐに「そうだねぇ」と、応えました。

で、しばらくして、ふと思いました。
やましいことや隠し事のない立派な人間を「聖人君子」と称するけれど、そもそも「聖人君子」って、そんな完璧・潔癖の人のことなのだろうか?という疑問が湧いてきました。
「聖人君子」といえど、いかがわしいとされるお店に行く人もいるのではないか。隠し事のひとつやふたつ、あるんじゃないか。なんて思いました。
「だから、そんなのは“聖人君子”とは言わないんだよannoy」という人もいると思うけれど、
叩けばホコリが出る「聖人君子」がいてもいいじゃないか!と、思いました。でなければ、人の心が分からないでしょう。ホントに完璧・潔癖な人間がいたら、そうでない人間のために尽くそうなんて志すこともないでしょう。

だからこそ、人を救おう、平和を願おうという人が現われて、悩める人々を導いてくださったのではないでしょうか。

2017年6月13日 (火)

ピアノの音色が鳴り響く瞬間(とき) 地球上のすべての いのち が平和でありますように

2017年6月12日(月) 元沖縄県知事・元参院議員の大田昌秀氏がお亡くなりになりました。
92歳 亡くなられた日は、誕生日でもあったそうです。
知事在任中、敵味方を問わず沖縄戦の全戦没者20万人以上の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を、激戦地の糸満市摩文仁(まぶに)に建立。反戦平和に力を尽くされました。

以下「東京新聞」 2017年6月13日(火)より

pencil「評伝」
学徒兵として動員された熾烈な沖縄戦を原点に「基地の島」と化した沖縄から恒久平和を希求し続けた。知事在任中には、市街地の真ん中に位置する普天間飛行場の返還を国に訴え、日米両政府の返還合意では陰の立役者となった。ただ存命中に普天間返還を見届けることはかなわなかった。

pencilコラム「筆洗」
万歳三唱ほど時代から消えた風習はないかもしれない。かつては会社の送別会や、結婚式などでもバンザイ、バンザイとやっていたのだが、最近はとんとお目にかからない

ぎりぎり万歳が生き残っている場所はおそらく政界だろう。衆院解散となれば、本会議場でこぞって万歳を唱える。何も国会議員に限らぬ。どんな選挙でも当選すれば候補者への花束贈呈、続きまして万歳三唱というのがお祝いの運びである

選挙で勝っても万歳を絶対に口にしなかった数少ない人が亡くなった。元沖縄県知事、元参院議員の大田昌秀さん。92歳

学徒兵として動員された熾烈な沖縄戦。味方の兵が住民の食料を奪う。壕から住民を追い出し、自分たちが使う―。目の当たりにした非人間的な出来事を出発点に反戦平和を生涯をかけ訴え続けた

かつての選挙で、万歳ではなく、カチャーシーで当選を祝ったのは万歳という行為がいやでも「戦争」に結びついてしまうためだと聞いた。一方的で強制的なかつての万歳の裏側で、どれだけの命が失われたか。それを唱えぬかわりに唱え続けることを選んだのは沖縄を基地の島としないための異議だった

防空壕の外にピアノがあった。誰かが学校から運んできた。空襲の合間、友人が弾いてくれた。人間を取り戻せる時間だったと書いている。今、その曲を静かに聴いていらっしゃるか。


2017年6月12日 (月)

なんて充実した3分間なんでしょう!

ある文豪が「カップ焼きそばの作り方」を書いたら…
そんな発想で、ツイッター上で、いろいろな方が、『文豪○○が「カップ焼きそばの作り方」を書いたら』を表現し、広がっています。
そんな情報を知り、ネットで見ていたら笑ってしまいました。というよりも、感心してしまいました。
村上春樹さん 糸井重里さん 椎名誠さん 太宰治さん 夢野久作さん 江戸川乱歩さん エトセトラエトセトラ…

この人ならこう書くだろうな…なんて想像できるほど、作家さんの作品を読み込んではいないけれど、なんとなく「分かる 分かる」「そうそう」って、クスッとできます。
そんな風に表現出来るなんて、皆さん それぞれが表現された文豪さんをリスペクトされてるんだろうなぁって、羨ましささえも感じました。

糸井重里さんに関しては、「糸井重里さんならこう書く」という文章に出会ってしまい、その文章をベースにしながら、「私ならこう書くよ」って文章を、本人自らが書いているという!!
文章の雰囲気以前に、そういうこと(ネット上の遊びを、自分でもやってみる)を実際にしてみるところが、いかにも糸井さんらしいなと思いました(当然、ご本人と接触はないので、想像の範囲でしかありませんが)。

ネットで「文豪 カップ焼きそばの作り方」とか「村上春樹 カップ焼きそばの作り方」などと検索かけると、いくつかサイトが出て来ます。ちょっと疲れた夜に、読んでみてはいかがでしょう。

(おまけ)
私は、かつて友人から「白山君は、“私の言うことは少数派だけど”とか“僕の言うことは多くの人には受け入れられないけど”って、枕に付けることが多いよね。そんなこと言う必要もないし、それに…思ってもないでしょwink」と、指摘されたことがあります。
私のことをよく見てるなぁ(聞いてるなぁ)!と、感心・感動したものです。はい、当たりです。そのとおりhappy01
なんて昔話を思い出しました。
そんな私が「カップ焼きそば」の作り方を書いたら…

「僕の言うことは多くの人には受け入れられないけれど、お湯を注いで3分間待ってください。」
って、多くの人がそうするでしょ!!
なんの面白味もない文章になってしまいましたhappy01

2017年6月11日 (日)

グレン・グールドの9分32秒

2年前に75歳で逝った詩人・長田弘さんに、「グレン・グールドの9分32秒」という詩がある。9分32秒とは、天才グールドがピアノで弾いた、ワーグナーの歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕前奏曲の録音時間だ

 針がレコードに落ちるまでの、
 ほんの一瞬の、途方もなく永い時間。
 ワーグナーのおそろしく濃密なポリフォニーから
 すばらしく楽しい対位法を抽きだして、
 響きあうピアノのことばにして、
 グールドが遺した
 9分32秒の小さな永遠

時間とは「一人のわたしの時間をどれだけ充実させられるかということでしか測ることができないもの」と、詩人は説いた。だから、時間をはかる単位は時分秒ではなく「充実」なのだと(『幼年の色、人生の色』)

そんな詩人が大切にしたのは、「時計の針で測る時間でなく、音楽で測る時間」。じっと聴き入り、時を忘れる濃密な時間である

詩は続く。

 芸術は完成を目的とするものではないと思う。
 微塵のように飛び散って、
 きらめきのように
 沈黙を充たすものだと思う。
 あらゆる時間は過ぎ去るけれども、
 グールドの9分32秒は過ぎ去らない。
 聴くたびに、いま初めて聴く曲のように聴く…
 人生は、音楽の時間のようだと思う

時分秒ではなく、「充実」という単位ではかる時間を持ちたい。あすは、時の記念日。
(「東京新聞」 2017年6月9日(金) コラム「筆洗」より)

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長田弘さんの詩は、いくつも読んできたけれど、「グレン・グールドの9分32秒」という詩は知りませんでした。
6月も早くも中旬に入りました。ついこのあいだ6月に入ったと思ったのに。
「時の経つのが早いなぁsweat01」なんてつぶやくと、妻から「時間の経つスピードは同じよhappy01」と突っ込まれます。確かに、1秒の長さは同じですよね。ということは1分も、1時間も、1日も、1年も…
「年を重ねると、どんどん時間が経つのが早くなるねぇ」なんて会話もあるけれど、生まれたばかりの赤ちゃんも、何年も喜怒哀楽を重ねて来た先輩も、時間の経つスピードは同じ(はず^^)。

同じ時間を生きているのだから、「空過(くうか:空しく過ぎゆく)」よりも「充実」ではかる時間を生きたい。

2017年6月10日 (土)

氷山の一角

感情の表出は、氷山の一角。

「喜び」の感情が表出したとき、その奥には、目に見えている以上の感情が内包されている。
けれど、「喜び」が表出したとき、隠れている部分も「喜び」かといえば、そうではない。「怒り」「哀しみ」「楽しみ」それらがあってこそ、「喜び」が表出する。
「怒り」が表出するときも、その感情の奥底には「喜び」「哀しみ」「楽しみ」が混在している。
「哀しみ」も「楽しみ」もそう。その他の感情もそう。
でっかい「喜び」というひとつの氷山があるのではなくて、いろいろな想いが結晶し、ときには「喜び」として表出し、ときには「怒り」や「哀しみ」として表出される。

「あの人はいつも笑顔で、私まで元気づけられるわ😊」なんて言われるあの人も、他人には知るよしもない哀しみを背負っています。
「いつまでも哀しんでいてはいけないことは分かってるんだけど、でも、哀しくて…」という人もいるけれど、いつまでも哀しんでてかまわない。哀しめるということは、楽しかった思い出があるから。哀しみの表出は、楽しかったことの表出でもある。どんなに哀しんでも、その奥底には、哀しんでいる以上の「楽しさ」や「怒り」があるもの。「いつまで哀しんでてはいけない」とは言っても、ほんのちょっとに過ぎない。
感情の動きは、縁を生きているということ。
表に見える部分って、ほんのちょこっと。その奥底には、もっともっと大事なこと、大変だったこと、生きてきた証が内包されている。

2017年6月 9日 (金)

往相回向 還相回向

6月9日は、西蓮寺前坊守(祖母)の命日
私が生まれる前、47歳で阿弥陀さまの元へ還られました。

6月4日が祖母の誕生日。
今年の6月4日は、家族みんなで祖母の誕生日をお祝いしました。

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孫に会うことなく、抱くことなく、いのちをまっとうされた祖母。
祖母に会ったことがある門徒さんの話を聞いていると、「会いたかったなぁ」と思います。

私も46歳。祖母が47歳で往ったことを思うと、そろそろだなぁと考えます。
私もいのち生ききったら、阿弥陀さまのお浄土で会えるかなぁ。
って、今現に会っています。
祖母は、阿弥陀さまの元へ還り、更にこの娑婆世界に還って、「教えに出遇ってほしい、念仏申してほしい、阿弥陀さまに出遇ってほしい」と、遺された者に利益をくださっています。
教えに出会い、人生を歩ませていただいているのは、祖母のおかげです。南無阿弥陀仏

2017年6月 8日 (木)

肝苦りさ(ちむぐりさ)

2017年6月8日(木)0:00~ Eテレ ETV特集「沖縄を叫ぶ~彫刻家・金城実~」(再放送)視聴

番組内容(番組HPより)

沖縄や戦争、人間の尊厳をテーマに創作を続けてきた彫刻家・金城実(78歳)。「芸術は解放の武器たりうるか」と自らに問いかけ、差別や貧困の現場に身をおいてきた。70年代には作品をアトリエから持ち出してキャラバンを行い、闘う芸術家として知られるようになる。圧倒的な存在感で迫る彫刻作品。沖縄から東京、大阪、そしてふたたび沖縄へ。人びととの出会いの中で育まれた思想。その型破りな日々と人生を見つめる。

金城さんのことば(私の覚え書きです)
「かわいそう」と「肝苦りさ(ちむぐりさ)」ということばがある。どちらも似ていることばだが、「かわいそう」は上から目線のことば。「「肝苦りさ」は沖縄のことばで、他者(ひと)の痛みを自分の痛みとして感じる」といった意味です。
(以上)

「沖縄の基地問題」と表現されるけれど、基地問題としては、「日本の」であり、「日米の」であるはず。そらが「沖縄の」と表現することは、やはり基地を沖縄に押し付けているということの表われ。それでいて、「沖縄の人たちがかわいそう」という目線は、金城さんが仰るように「上から目線」でした。
沖縄の方々の苦しみは、イコール私たちの苦しみであるはず。そのことに気づかずに、「かわいそう」「なんとかしなければ」というのは、私もまた沖縄の方々を苦しめる者のひとりでした、ということ。
沖縄の方々は、私たちの苦しみを引き受けてくださっている。自分だけの苦しみではない。他者の苦しみも含めて、我がこととされる方々だからこそ、「肝苦りさ」ということばが生まれてきたのだと、金城さんのインタビューを聞いていて感じる。「肝」…内蔵が、こころの底が、「苦しい」ということ。世界全体の苦しみを、我がこととして受けとめていることば。

ご自身の作品に触れながら涙される金城さん。
「作家が自分の作品に泣いているようじゃ落第。でも、思い出すと泣けてくるんや」
それだけ、苦しみを、想いを、願いを込めて作品を作られているのですね。
画面に時折でてくる作品の表情が、人間以上に人間的で、なんども息を呑んで見ました。
本放送を見忘れてしまったのですが、再放送でお目にかかれてよかったです。

2017年6月 7日 (水)

「こうしなければいけない」ってことはないですよ。自然に身が動きますから。

喫茶店にて。隣のご婦人3人の聞くともなく聞こえてくる会話。

「お仏壇のお花、うち造花にしてるわ。だって、本物の花じゃもったいないじゃない」
「あら、造花はダメよ。うちは生花よ。命日の時だけだけど」
「こうでなくちゃダメってことないでしょう。その家 その家のやり方でいいわよねぇ」
「そうよね」
「そうよね」

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お内仏(お仏壇)に「造花」はやめておきましょう。造花にしてしまうと、お花を替えなくなります。つまり、手を合わせることがなくなってしまいます。
お内仏やお墓で、お花は私の方に向けて挿していますよね。亡き人に対してお花を供えているつもりが、自分に対して向けられています。それはつまり、亡き人からいただきものをしているということだと思います。
「有限ないのちを、どのように生きていますか?」という問いかけであったり、
「何か困ったことがあったんじゃないの?」という呼びかけに応える場であったり(お内仏は、愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたり、感謝の想いをそっとつぶやいたりする場所。結局は、自分を見つめる場所。自分に出遇う空間)。
お内仏のお花、造花を挿して満足してしまわずに、たとえ一輪でもいいから生きたお花を挿して、毎朝お水を足してください。すると、自分の居場所が生まれます。愚痴ったり、弱音を吐いたり、感謝したり…誰かに言えなくても、口に出来る場所があるって、大切なことです。お内仏は、亡き人の供養のための箱ではなくて、私と向き合う鏡なのかしれません。
そういうふうに感じられれば、そもそも「造花でいいわよね!」「造花じゃダメなの?」「命日だけでいいわよね!」「毎日あげなくちゃダメなものなの?」「個々のやり方でいいわよね!」「決まりはあるの?」なんて疑問は出てこないことでしょう。

冠婚葬祭の習慣や作法など、気になってネットで調べる人は多いけれど、結局、できること・納得できることは「なるほど!」と受け入れるけれど、できないこと・納得できないこと・面倒くさいことは、「こうでなくちゃダメってことないよね」「個々のやり方でいいよね」「やってられないし」って、自分の都合の方が勝ってしまう。

我が家に手を合わせる場所があることって、落ち着けていいですよhappy01

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箱形のお内仏でなくても、名号があれば充分だと思います。
私は、学生時代、ひとり暮らしをしているとき、母が渡してくれた阿弥陀さまをお飾りして、ときにお花を一輪刺して、毎朝毎晩手を合わせていました。
学生時代、つらいとき、淋しいとき、嬉しいとき、手を合わせる場所があって、こころの寄り所がありました。
もっとも、京都にいたわけですから、時間があればご本山(東本願寺)に行って、阿弥陀さまや親鸞さまの前に座って手を合わせていました。南無阿弥陀仏
幸せな時間(とき)でしたnote

2017年6月 6日 (火)

自己とは何ぞや

6月6日 清沢満之先生のご命日(1903年還浄)
清沢先生のことば「自己とは何ぞやこれ人生の根本的問題なり。」が、最近胸にひっかかっています。
というのも、掲示板今月のことば「人間の愚かさは 何に対しても答えを持っているということです ミラン・クンデラ」に対する文章を書いた際、清沢先生のことばに触れなかったからです。原稿を印刷屋さんに入稿した後で、清沢先生のことばを思い出しました。

人間の愚かさは、何に対しても答えを持っていること。答えではなく、問いを持つということが大切だと思います。
旨、文章を書いたけれど、
その「問いを持つ」ことの内容として、
「自己とは何ぞや これ人生の根本的問題」という視点がなかったような(皆無というわけではないのだけれど)。
「私は何者か?」「私は、私自身と出遇う生き方をしているのか?」という問いを持たずに生きている(動いている)我が身を知らされました。
ちょっと胸に突き刺さって、痛いですcoldsweats01

清沢先生のことばは続きます。
自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、現前の境遇に落在せるものすなわちこれなり
阿弥陀さまにお任せして、我が境遇に実を落ち着かせて生きる者。私とは、この他にありません。

2017年6月 5日 (月)

思いがけない喜び

【僥倖(ぎょうこう)】
①思いがけない幸運。
②幸運を待つこと。

 [E:japanesetea]

将棋の最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)が6月2日、棋王戦予選で勝利し、自身が持つデビュー後の公式戦連勝記録を20に伸ばしました。
そのことにも大変驚きましたが、20連勝を飾った後のインタビューにも驚きました。

「今日も苦しい将棋だった。20連勝は自分の実力からすれば僥倖(ぎょうこう)としかいいようがない。今後も連勝は意識せず、一局一局大切に戦いたい」と。

中学生が「僥倖」ということばを使って、自分の感情を表現するんだ!ただ者じゃない!!
と、驚きました。(←え、そこ?)

2017年6月 4日 (日)

人間が苦悩を生きるという姿は、昔も今も変わらない。そして、これからも

東京新聞 2017年6月4日(日)朝刊 「こちら特報部」のコーナーにお寺の今後について特集されていました。
若い僧侶に経営を指南する「未来の住職塾」のことが丁寧に書かれています。
塾を設立された松本紹圭さん(浄土真宗本願寺派光明寺僧侶)は、「『寺(の現状)は厳しい』とぼやいても始まらない。まず自分の寺にはどんな良い点、悪い点があるか見つめ直し、取り柄をどう生かせばいいのか真剣に考えてほしい。」と語られています。

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社会的に、お寺の現状が露わになったのは、僧侶を35,000円の定額で派遣する「お坊さん便」が、ネットのアマゾンで出品されたあたりではないでしょうか。(もっと前からか)
全日本仏教会が「宗教行為を商品にしている」と、アマゾンに販売中止を求めましたが、布施の不明瞭さに対する不信感からか、全日本仏教会への抗議が殺到しました。
全日本仏教会としては、当然の対応だとお察し致します。「時代の流れで仕方がない」なんて、表明・表現できるわけがありません。
しかし、社会の中で生活を営み、僧侶として生計を立てている一個人からすると、「もはや抗うことはできない」とも感じています。だって、僧侶である私たちも、読みたい本はネットで注文・聴きたい音楽はネットで配信・欲しい物もネットで注文・SNSでつながって深い人間関係はちょっと苦手なんて生活をしているわけです。
本屋さんやレコード店(CD屋さん)、町の商店街の店々は、どんどん姿を消していきます。経営を続けるために、なんとかしなければ、と思った店主さん・そのご家族もいたことでしょう。しかし、万策尽きてお店を畳む、子どもに継がせず自分の代で店を閉じる。そうして、姿を消したお店は多々有ります。
お寺も、既に寺じまいが進んではいます。しかし、町の、近所の店々がお店を畳んだスピードから比べると、まだゆるやかです。だから、「未来の住職塾」で経営や、寺のあり方を学び、それを生かす余裕(?)がまだ残っています。

「諸行無常」…「この世の全てのものは、移ろい、姿を変え、やがて滅び行く。常なるものは、なにもない」と説いていながら、変化を恐れ、変化に驚き、変化に戸惑っているのが、お寺の現状かもしれません。
しかし、何事も表に見えないところの動きはあるものです。「未来の住職塾」の門を叩く方も年々増えています。それぞれのお寺で、お寺がどうあるべきか、何が出来るのか、模索し、行動に移している僧侶もいます。
お寺は姿を変えても、そこにお釈迦さまの教えは流れ続けます。教えを自ら聞き続け、伝えるものとして努める。それが僧侶の役割です。逆に言えば、聞法を抜きにして、お寺の存続だけを考えていては、お釈迦さまの教えが抜け、中味の無い伽藍だけになってしまいます。
もっとも、社会の人々が寺を、風景としての寺 観光対象としての寺として求めるのであれば、中味の無い伽藍だけのお寺でも(お寺をこそ?)受け入れられることでしょう。
そうではなくて、教えを求める人がいる限り、聞法を続ける(教えを大切にする)僧侶が不要となることはありません。
いずれにしても、現代(いま)は過渡期です。

なんて言うと、亡くなった広瀬先生に笑われるだろうな。
「教えの存続が危ぶまれるのは、今に始まったことではありません。それに、親鸞聖人自身が流罪に処されるなど、聖人はいのちがけで教えを守られたのです。聖人がおかれた状況からすれば、今の状況は危機や過渡期だなんて表現出来ませんよ」
師との出遇いは、自分の往くべき道を指し示す。

教えを聞き続けていれば、困難にぶち当たったときに、その大切さが、意味が身にしみてきます。
南無阿弥陀仏

2017年6月 3日 (土)

木を見て森を見ず

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
(『歎異抄』第3章)

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
(『歎異抄』第5章)

親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
(『歎異抄』第6章)

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
(『歎異抄』第13章)

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親鸞聖人のことば
『歎異抄』に載っていて、その解釈がいろいろ成されたり、いろいろと疑問を投げかけられるところ。
自分も、自分なりの解釈・受け止めを書いたことがあるけれど、
「解釈を読んで詳しく知ること」を要点にしてしまうと、
 親鸞聖人が仰っているように生きなければ!
 親鸞聖人の言っているようには生きられません
 親鸞って人が言ってることは難しいね、分からないね、おかしいね
と、出来るか出来ないか、分かるか分からないか、
自分を、人生をより良くするために
といった見方になってしまう。
『歎異抄』全体を通して読んだとき、ひとつ一つの細かな解釈よりも、その根底に
「人は、無量 無数の縁をいただくなかで生まれ、生きている」
ということを仰っているのだなぁと感じられる。

ことばの解釈で足を留めるてしまうのではなくて、「縁を活かされているんだなぁ!」「縁を生きているって、どういうことだろう?」という気持ちも根っこに持って、『歎異抄』を読むと、今までとは違う世界が開かれてきます。と、思います。
南無阿弥陀仏

2017年6月 2日 (金)

2017年6月のことば

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人間の愚かさは
何に対しても答えを持っているということです
ミラン・クンデラ

人間は弱い生き物
人間は、弱い生き物です。
不安定なもの、不確定なこと、原因不明なこと、予測不能の未来などに対して、私のこころを不安や恐怖が覆います。
それゆえ、原因を知りたい、先を知りたい、しっかりしたものが欲しいという衝動に駈られます。
そこで、自分なりの答えを用意します。経験に裏付けられた答えもあることでしょう。希望を込めた答えもあることでしょう。自分なりの答えで身を守り、安心を得、不安を取り除こうとします。
しかし、自分が納得できる、自分に利のある答えでしかありません。普遍性のある答えではありません。

私は正しい 争いの根はここにある
自分なりの答えを持ったものどうしが接すれば衝突が起きます。同じ答えを持った者どうしならば、衝突は起きないんじゃない? と思われるかもしれませんが、同じ答えを持った者の集団と、違う答えを持った者の集団ができ、結局は衝突が起きます。それに、同じ答えを持っていても、衝突は起きるものです。
現代(いま)、世界情勢がかくもきな臭くなっているのは、各国がそれぞれ自分の答えを持ち、自国第一を前面に押し出した姿勢で、対話・交渉・会議に臨んでいるからではないでしょうか。自国優先の妨げとなる答えを持つ国は受け入れられず、自国の答えを否定する国は攻撃の対象になってしまいます。
「答え」とは、その答えを持つ者にとっては「正義」と言い換えられます。「正義」を揺るがす者は、「悪」なのかもしれませんが、それは、私から見れば「悪」なだけで、相手にとっては「正義」です。同様に、他者にとって私は「悪」に見えていることでしょう。私は私の「正義」を掲げているだけなのですが。
争いは、正義と悪の戦いではなく、正義と正義とが引き起こしています。

問いを持つということ
他国の生まれの人を蔑む。性的マイノリティ(社会的少数者)の方に対する無理解・不寛容。自分が、タバコが嫌いだからといって、喫煙者自体を嫌悪する。いかがわしいとされるお店に出入りしていれば、「あの人は信用できない人」と見下す。
自分の答えの範疇からはみ出す他者やマイノリティに対する憎悪感が、激しく噴き出しています。人はなぜ、かくも他者を傷つけるのでしょう。突き詰めれば、誰もが、他者とは代わることのできないいのちを生きています。そういう意味では、人は誰もがマイノリティ。差別される道理のある人なんていません。一人の弱さを隠すために集団を形成し、少数者・弱者を襲う。人は優しいのに、人々になると残酷になってしまいます。

「こういう人は嫌い!苦手!」という自身の感覚のみで他者を見て、識別・差別していては、そこに関係は結ばれません。もしかしたら、自分にとってかけがえのない人であるかもしれないのに。その人のことを知る前に拒否してしまうなんて、もったいないことです。
目の前にいる人に対して、「この人はどういう人だろう?」「どんな考え方をする人だろう?」と関心を持てば、「この人のことをもっと知りたい」と興味が湧いてきます。人と人とが関係を築いていくということは、問いを持つということから始まるのではないでしょうか?
今月のことばに倣うならば、「人間の賢さは、何に対しても問いを持っているということです」と言うことができるのではないでしょうか。

いのちを傷つける答え
 答えなんて そもそも無いのに
 自分なりの
 自分だけの答えで理論武装して
 それで身を守り、他者を傷つけ
 相手を私より下位において
 満足した気になっている。
 でも、それって結局
 取り繕った私で
 私自身をごまかしているだけ。
 「ありのままの自分でいいんだよ」  
 なんて うなづきながら
 うなづけない私がいる。
 差別されている誰かに涙して
 傷つく他者に手を差し伸べる
 そんな優しさを持っているのに、
 誰かを差別して
 他者を傷つけることで
 私を私たらしめようとしている。
 そんなことのための答えなんて
 私はいらない

となりの親鸞
2017年5月2日に開催された「真宗大谷派 東京教区 同朋大会」で、講師の中島岳志先生(東京工業大学教授)が語られた親鸞聖人を感じる眼が優しかったです。

親鸞聖人は、私の横に立って、いつも語りかけてくれる人だと思うんです。 「私は正しい。私に間違いはない」と、正解を、あるいは正しさを所有しようとしたとき、親鸞は「本当にそうなの?」と言ってくる人なんですね。 驕り高ぶって、自力の世界に立ち、 「私は正しい!」と言っている人間に対して、親鸞は厳しい人です。 でも、親鸞は、迷っている人には優しいんです。「私は分からない!」と思っているときに、「私は無力だ!」と思っている人に、親鸞は、「そうだよ、僕もだよ」と言ってくれる人なんです。 「となりの親鸞」は、悩み、もだえ、不安に駆られ、不安感・無力感を持ったときに、優しい手を差し伸べてくれる人。それが親鸞という人の実像ではないのかな、と思います。

※ミラン・クンデラ (1929年4月1日~  88歳)
  チェコ出身でフランスに亡命した作家
  代表作『存在の耐えられない軽さ』

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掲示板の人形
カエルさんと、シンバルを叩く笑顔のピエロさんです。
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2017年6月 1日 (木)

Now Printing

6月になりました。
毎月1日は、「掲示板のことば」を受けての文章をアップしていますが…完成しませんでした。
5月末に体調を崩し、その影響で今もなお右目が腫れ、右目が隠れた状態です。
6月1日、会議に出席。私のといめんに座る方々の視線が、私の右目に突き刺さりましたhappy01
「白山さん、右目、どうしたんですか?」
心配してくれてありがとう。何人の人に尋ねられ、何度答えたことか。

体調不良を言い訳にはできませんが、40半ばを過ぎ、今までの生活ペースで仕事が出来ないことが出て来ました。このままでは、寺報の内容も考え直さなければいけません。何度もマイナーチェンジしてきましたが。

でも、「書けないときは書けないことを書けば良い」

少し、右目が見えてきたので、これから寺報作りに取りかかりますpaper

毎月1日の投稿を楽しみにして下さっている方、申し訳ありません。
これから暑くなったり、じめじめしたり、体調を崩しやすい時期です。お気を付けくださいchick

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