« あぁ むじょう | トップページ | 怒り »

2017年5月 7日 (日)

人間は、ひとりじゃ何も出来ないんだなぁ・・・

「面倒臭いもの(こと) イコール いらないもの(こと)」になっている風潮がないだろうか。
でも、本当にいらない物事であろうか?
一度無くした物事を、また復活させるのは、やめる以上に体力・労力を使うものです。
面倒臭いから いらない!とした結果、余計面倒臭いことが押し寄せることはよくある話で・・・
今までその物事があった背景を、物事によって生み出された物事を見つめることも大切かと。面倒くさがらずに。

 

べつに、何か特定の物事があって投稿したわけではありません。
ふと そう感じたものですから

 

(追記)
と、ふと思ったことを書いた後で、教区同朋大会の記念品として配布された『Sein(ザイン)』(真宗大谷派 真宗会館発行)を読んでいたら、次のような文章が載っていて、ビックリしました。
内容は、第11回目の「親鸞フォーラム  格差社会×仏教 -人間の闇と欲望」
浜矩子さんと湯浅誠さんと木越康さん、コーディネーター鶴見晃さんによるパネルディスカッションです。

(湯浅さん) 最近、よく民主主義について考えているのですが、親戚づきあいでもなんでも一緒なのだなと思います。親戚づきあいというのは、とかく面倒なものですが、その面倒くささと、一緒にいることで出る力は背中合わせで、切り離せないのです。1人でやった方が早いこともあります。しかし1人ではできないこともあって、そのときは2人、3人でやった方が、より大きな力が出る。けれども、それは面倒くさいのです。面倒くさいけど、1人でできることはごく限られている。そういう中で、その面倒くささを引き受けていくしかない。家族でも、地域でも、社会でも同じです。それが人の中で生きるということなのだろうと、ここ5年くらいは割り切って考えています。

(浜さん)
私も面倒くさい、うっとうしい存在というのは、非常に重要なものだと思っています。自分にとって、面倒くさい、うっとうしい、違和感ありというものを排除しようとすると、それは間違いなく格差が深まることにつながっていきます。違和感があるものを排除することは本当に楽な世界ですが、やはりそれをやってはいけないのです。(中略)
事ほどさように、格差が出現することを許さない社会であるためには、やはり異分子を抱き止めることができるというところが非常に重要だと思うのです。

(湯浅さん)
まさにそうだと思います。私の友人で、九州でホームレス支援をやっている奥田知志さんという方が、「絆(きずな)という字には、傷(きず)という言葉が入っている」と言っていました。やはり面倒くささと、つながりはセットで、どちらかだけを切り捨てるというのはできない。抱擁という話がありましたが、彼のNPOは「抱樸(ほうぼく)」という名前になりました。「樸(ぼく)」というのは生木の意味で、要するに生木を抱きかかえると自分も傷つく。だけど、それを抱きかかえていきましょうという意味なのです。人と一緒に何かやるというのは、自分も傷つくことだったり、面倒くさかったりするのですが、そこで排除したらおしまいなのだなということを私も思います。

あぁ、私に見せるために、『Sein』が私の手元に来たのだなと思いました。
教区同朋大会にご参加の皆様も、「南御堂」 中島岳志先生の文章と共にお読みください!! 

« あぁ むじょう | トップページ | 怒り »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« あぁ むじょう | トップページ | 怒り »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ