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2017年5月22日 (月)

誰もが、仏さまから願いをかけられている

昨日のブログで、伊藤元先生のお話を書いたので、あらためて『ご法事を縁として 亡き人からの願いに生きん』(東本願寺出版 伝道ブックス78)を読み返しました。

 

仏さまから願いをかけられているという点では、みんな平等なのです。

本来は人を能力で比べることはできませんし、能力で人を見るというのは見ている本人が一番哀(あわ)れです。そういう見方でしか人を見ることができないのは心が貧しい人です。能力で人を上に見たり、下に見たりするところから人間の堕落が始まるのです。人を軽く見るというのはそういうことです。軽く見られた人は堕落しません。軽く見た人が人間性を失っていくのです。そういうことを私は聞法する中で学びました。

 

差別的発言のニュースが続き、鬱々としていたところ、また伊藤先生に教えていただきました。
差別心というものは、誰にもあるものだと思います。その根っこが、比較心にある。比較するということは、自分が一番でありたいという想いがあるのでしょう。でも、みんな平等なのです。
無神論者を標榜する、宗教は危険だと主張する、仏などいるものかと思っている、そういう方もいることでしょう。でも、人間を超えた、人知を超えた、大いなるものに包まれている、そういうものに私たちは見られている。そういう感覚は、大切なことだと思います。
無神論者を標榜するのをやめて真宗門徒になりませんか?なんて勧誘しているのではありません。ただ、阿弥陀(大いなるもの)に願いをかけられている(守られている)という視座があるだけで、生き方が、いのちの見方が変わると思います。人間第一主義では、人が人を傷つけるだけの人生になってしまいます。

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