« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »

2017年5月

2017年5月31日 (水)

できることが減ったとき

できることが減ったとき
「ありがとう」って言えるか言えないかで、人生はガラリと変わります

2017年5月30日 (火)

暑くなって、身体が対応できない時期です。ご無理ありませんように。

プロゴルフの宮里藍選手が引退を発表しました。
無責任な第三者からすると、「まだできるのでは?」などと思ってしまいます。
しかし、引退会見で「モチべーションの維持が難しくなったというのが決め手」と語られたように、第一線で活躍される方々にとって、「ある程度できる」というレベルでは許せないのですね。
フィギュアスケートの浅田真央さんも引退されましたね。
世界で活躍するだけでも、そこに到るまでの努力は並大抵ではない。更にその上となると、何を見て、何を感じてプレーされていたのでしょう。想像を絶します。

大相撲2017年5月場所で、横綱 白鵬関が一年ぶりの優勝を飾りました。
優勝インタビューで、
「大鵬関の(優勝)32回から何か目標を失った気持ちがあったが、やはり大台40回、1047勝がモチベーションになっています」
と語られました。

モチベーション(「やる気」「動機付け」)って、一流の選手にとっても大切なもの、欠かすことのできないものなのですね。モチベーションの新規設定・積み重ねが、より上のレベルへと導くのかもしれません。

テニスの伊達公子選手のように、再び戦いの場に戻ってくることもあるかもしれません。
指導者としてのモチベーションを見いだすかもしれません。
まったく違う畑での生き方に出会うかもしれません。

力を、元気をくれたみんなに、感謝です。
いただいた元気が、モチベーションを生み出してくれることもあります。
ありがとうございます

2017年5月29日 (月)

人間って…(あぁ、“わたし”はどこにいるのでしょう!?)

どんなに素晴らしいことを行なっても

どんなに正論を述べても

その人が喫煙者だというだけで、

その人が性的マイノリティーというだけで、

その人が仲の悪い国の生まれというだけで、

その人が過去に過ちを犯していたというだけで、

その人がいかがわしいお店に出入りしていたというだけで、

行なった行動のすべてが否定され

発言したことのすべてが一笑にふされてしまう。

その積み重ねによって失うものは

あまりに大きい。

 pencil

どんなにメチャクチャな行動をしても

どんなにつじつまの合わない回答しか得られなかったとしても

権力を手にしているだけで、

行動が正当化され

議論は尽くしたと見なされてしまう。

その積み重ねによって失うものも

果てしなく大きく、恐ろしい。

 pencil

自分の考え方・意見とは合わないんだけど、

相手が地位や名声や権力を手に入れたり、

社会的貢献をされて誉め讃えられたりしたら、

「良いこと言うねぇ」

と賛同してしまう。

自分の考え方・意見と似通っているのに、

相手が罪を犯したり、

理解できない行動をしたりしたら、

「あの人の言っていることはねぇ・・・」

と蔑む。

あぁ、わたしはどこに立っているのだろう?

2017年5月28日 (日)

人間って…(大事なことはいつだって 別れて初めて気がついた♪)

健康の有り難さを強く感じるのは、

病気になってから。

病気が治ったら、

規則正しい生活をして、

食生活を整えて、

アルコールを適度にして・・・

なんて誓うんだけど、

まず守れたためしがない。

健康・お金・家族

日本人が大切だと考えるものって、

失ってから気が付く

2017年5月27日 (土)

人間って…(子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの)

子どもが小さくて手がかかるときは

早く大きくならないかなぁ

自分のことは自分でできるようにならないかなぁ

なんて望んでしまうけれどangry

子どもが大きくなると

小さいときはかわいかったなぁ

親の言うことなんて聞いてもくれない

なんて淋しくなってしまうweep

 cafe

上記は、親から見た子どもへの目線

子どもから見た親への目線について書こうとしたら、

より淋しいことになってしまいましたcrying

皆様 それぞれに 綴ってみてくださいpencil

2017年5月26日 (金)

人間って…(「僕はずっと山に登りたいと思っている。でも明日にしよう」 おそらくあなたは永遠に登らないでしょう。)

仕事を退職したら、あれをやろう これをやろうhappy01

時間が出来たら、あそこに行こう ここに行こうhappy01

でも、実際に時間が出来ると 考えていたように動けないcoldsweats01

動けない? 動かない?


もう少し自分で学んでから 習い事に実を運びたいと思いますhappy01

もう少し習熟してから 活動に参加したいと思いますhappy01

でも、自分でやってても、なかなか身につかないものcoldsweats01

それほど習熟しないものcoldsweats01

やる気があるのか? ないのか?


二の足を踏んでいるうちに逃している事って、たくさんあって

そのうち そのうちと言っていて、時を失す

もし今健康で身体が動くのなら、まさに今のうち

maple

「僕はずっと山に登りたいと思っている。…でも明日にしよう」
おそらくあなたは永遠に登らないでしょう。
レオ・ブスカリア(アメリカの教育学者・『葉っぱのフレディ』の作者)

2017年5月25日 (木)

人間って・・・(めぐるめぐるよ 時代はめぐる 喜び悲しみくり返し♪)

暑い夏

汗をかきかきsweat01

冬の寒さを思う

あぁ、こんなに汗をかかなくて済むのに・・・

寒い冬

身体ブルブルッpenguin

夏の暑さを思う

あぁ、あったかいところがいいなぁ・・・

季節は巡る その繰り返しcoldsweats01

2017年5月24日 (水)

一期一会 最高の盃

今、共に生きている朋とは

明日、共に生きるかは分からない

今、共に生きている朋と

別れの盃を交わしたとしても

明日、また盃を交わすかもしれない

明日のことは分からない

だからこそ、今、この場が一期一会

今生で最後の場かもしれない

明日も会えたなら、その場もまた一期一会

今日の盃を置いた後

たとえ 会えなくなったとしても

朋は いつまでも朋

多謝

ありがとうbottle

2017年5月23日 (火)

ふしぎ

 

ふしぎ  金子みすゞ

 わたしは ふしぎで たまらない
 黒い 雲から ふる雨が
 銀に ひかって いることが

 わたしは ふしぎで たまらない
 青い くわの葉 たべている
 かいこが 白く なることが

 わたしは ふしぎで たまらない
 たれも いじらぬ 夕顔が
 ひとりで ぱらりと 開くのが

 わたしは ふしぎで たまらない
 たれに きいても わらってて
 あたりまえだと いうことが

 pencil

久しぶりの金子みすゞさん こころがホッとします
生きていると、ふしぎなこと わからないことの方がたくさんあるのに、
どうして知ったかぶりをするのでしょう?


わたしは ふしぎで たまらない
ひとり ひとりは やさしいのに
人びとは きょうぼうに なることが

みなさんも ふしぎを 思い返してみては?

2017年5月22日 (月)

誰もが、仏さまから願いをかけられている

昨日のブログで、伊藤元先生のお話を書いたので、あらためて『ご法事を縁として 亡き人からの願いに生きん』(東本願寺出版 伝道ブックス78)を読み返しました。

 book

仏さまから願いをかけられているという点では、みんな平等なのです。

本来は人を能力で比べることはできませんし、能力で人を見るというのは見ている本人が一番哀(あわ)れです。そういう見方でしか人を見ることができないのは心が貧しい人です。能力で人を上に見たり、下に見たりするところから人間の堕落が始まるのです。人を軽く見るというのはそういうことです。軽く見られた人は堕落しません。軽く見た人が人間性を失っていくのです。そういうことを私は聞法する中で学びました。

 book

差別的発言のニュースが続き、鬱々としていたところ、また伊藤先生に教えていただきました。
差別心というものは、誰にもあるものだと思います。その根っこが、比較心にある。比較するということは、自分が一番でありたいという想いがあるのでしょう。でも、みんな平等なのです。
無神論者を標榜する、宗教は危険だと主張する、仏などいるものかと思っている、そういう方もいることでしょう。でも、人間を超えた、人知を超えた、大いなるものに包まれている、そういうものに私たちは見られている。そういう感覚は、大切なことだと思います。
無神論者を標榜するのをやめて真宗門徒になりませんか?なんて勧誘しているのではありません。ただ、阿弥陀(大いなるもの)に願いをかけられている(守られている)という視座があるだけで、生き方が、いのちの見方が変わると思います。人間第一主義では、人が人を傷つけるだけの人生になってしまいます。

2017年5月21日 (日)

人と生まれた悲しみを知らないものは

2017年5月21日(日) 今日出遇ったことば

Dsc_0450

人と生まれた悲しみを知らないものは
人と生まれた喜びを知らない

 pencil

このことばに向かい合って、
伊藤元先生(真宗大谷派德蓮寺前住職)のご法話を思い出しました。


この世に苦と楽があると思っているけれど、そうではありません。
お釈迦さまは「一切皆苦」と仰いました。
「この世は“苦”ですよ」と。
その苦の中に、苦と楽があるんです。
つぶれるか、乗り越えるか、です。
日々の暮しの中で、出遇いがなかったら、人生は災いになってしまう。
人生は暗くなってしまう。
けれど、もし10年前に死んでいたら出遇えなかった人、本、ことばなどに出遇えました。救われました。
生きてて、出遇えてよかった。

2017年5月20日 (土)

謙遜なのか、私以外のなにかを貶めているのか…

「はした金」という言い方があるけれど、お金に はした(端…中途半端)なお金など無いのでは。大切なお金。
お金や経済にに振り回されてしまう私の方にはした(中途半端・どっちつかず)な姿が!!

「愚妻」なんて言い方があるけれど、私も「愚夫」なわけで。
他者(妻)のことを「愚妻」などと言うのなら、「愚かな私と一緒になってくれた妻」という気持ちを伝えなければ。
あるいは、「私と一緒になるという愚かな選択をさせてしまって申し訳なかった。最愛の妻よ!」とsign01

「拙寺では」なんて表現する住職がいるけれど、
門徒さん(檀家さん)が一生懸命守ってきたお寺を、預からせていただいている身分の者が、「拙寺」だなんて、侮辱も甚だしいのでは。
自分が切り開いて、運営して、上手くいっている職場を「拙社では」と言うのなら、ただの謙遜でしょうが、
お寺は、代々大切に守られてきた場。そのことを想えば、とても「拙寺」なんて表現は出ないでしょう。
「私がこのお寺で、これだけのことをやってきた! やっている!! すごいでしょ!!!」という思いが、「拙寺」と言わしめているのかもしれない。
「住職、あなた このお寺を守ってくれているようにはとても見えないから、出て行ってください」なんて(門徒さん・檀家さんの何%かは忘れましたが)言われたら、出て行くしかない私(住職)なのに。

親鸞聖人がご自身のことを「愚禿(ぐとく)」と名告られたことを想います。

2017年5月19日 (金)

周囲の人を、怪しいと思いながら生きる世の中って…

2017年5月19日(金)
共謀罪法案が、衆議院の法務委員会で可決されてしまいました。
自民党の議員さんは、審議は尽くしたと胸を張っています。しかし、審議不足というよりも、それ以前に説明の体をなしていないと感じている人が多いのではないでしょうか。
自民党が下野しているときの民主党が、
仮に一党で過半数を獲得した公明党が、
万が一政権に就いてしまった維新の党が、
今の自民党とまったく同じような委員会の運営、法務大臣の答弁をしたとして、
自民党の議員さんは、「納得まではしてないけど、審議は尽くしたし仕方ない」などと言えるでしょうか。おそらく怒ることでしょう。
他者がやったら怒ることを、自分たちの場合には胸を張るということは、やめた方がよろしいかと思います。

2017年5月18日 (木)

いもむしさんや虫が苦手な方は、ご覧にならないほうが…

2017年5月8日(だったかな?)に、キャベツの中に「はらぺこあおむし」さんを発見した妻と娘たちが、あおむしさんを飼い始めました。専用の容器など無いので、ザルにキャベツを敷いてラップでフタをして。

 apple

すると、翌日には場所を固定してジッとし始めました。
翌日、翌々日と、更にサナギっぽく変態していきました。

 banana

5月18日 朝起きて、ザルを覗くと、まだサナギのままでした。
10分ほどして、ふとザルが目に入ったら、中にモンシロチョウがいるではありませんかsign03
10分ほどの間に、サナギボディから出て来て羽化してました。そんなに早く出てくるのですね。

まだ寝ていた娘たちを起こし、観察していました。
だんだんと体や羽が大きくなり、動き始めました。

残念ながら、途中で娘たちは登園登校

もう飛べるかなって頃に、ベランダに出て、様子を見ていました。

しばらくして、日射しを感じるような頃に、飛び立っていきました。元気でねぇpaper

残念ながら、しばらく飛ばないだろうと判断して家の中に入ってしまった私は、見送ることができませんでした。
その様子を見ていたのは妻だけでした。飛びたち、前のお寺の新緑と交わるモンシロチョウの姿に感動していましたgood

Dsc_0396
サナギ化するために、居心地の良い場所でジッとし始めるあおむしさん

Dsc_0400_2
サナギっぽくなってきました

Dsc_0439
ふと気づいたら、ザルの中にモンシロチョウが!!

Dsc_0445
外に出してあげました 飛び立つ前のモンシロチョウ

Dsc_0444_2_2
抜け殻
下の赤い塊は、「蛹便(ようべん)」というものだそうです。サナギ中、体の作り変えの時に発生する不要物だそうです。知らなかった。

2017年5月17日 (水)

何を見ているの?

昨日、自動車の高齢者教習を受けた門徒さんから教えていただきました。
若いときの視野は、180度を越えるらしい。
70を越えると160度ほど。自然なことながら視野は狭まる。
で、小学生に上がるくらいまでの子どもは、自分の真正面しか見えないとのこと。
だ、そうです。
視野も狭いし、背も低い。ほんの少しのエリアしか見えていないんですね。
子どもが飛び出したり、コップのジュースをこぼしたり、人や物にぶつかったときに、「どこ見てるの!」と怒ってしまうけれど、子どもたちは見える範囲を懸命に見て生きている。
どこ見てるの!なに見てるの!は、自分自身に返すべきことばです‼️

2017年5月16日 (火)

人間が人間のいのちを自分とおなじように大事に思う

2017年5月16日(火)「東京新聞」朝刊 「本音のコラム」より

 家族の惨事   鎌田慧(かまた・さとし ルポライター)

 今週末の2日間、岡山でハンセン病市民学会の大会が開かれ、熊本地裁に提訴されている「ハンセン病家族訴訟」の支援が大きなテーマになる。
 恐るべき伝染力、執拗な遺伝性、不治の業病として、ハンセン病が世間から恐怖されていたのは政府が警察を使って強制収容、隔離、死ぬまで解放しなかったからだ。が、実際には、伝染力は弱く遺伝性はなかった。
 「世にライ家族程、秘密を保ちつづけて、苦しみ、悩むものはない」と書いたのは、林力原告団長(92)の父親・山中捨五郎さんである(『父からの手紙』)。20年ほど前、林さんが勤めていた北九州の大学へ講演に呼ばれてその本を頂き、初めてハンセン病家族に対する国の責任を知った。
 ハンセン病患者は、家族に迷惑をかけないために偽名を使うのだが、山中捨五郎(なんと悲惨な名前だろうか)さんは、家族の被害を「惨事」と書いていた。発見された患者は、犯罪者のように警察に引き立てられ、家は消毒され、村八分に遭った。林さん自身、長い間、父親のことを隠し続けていた。しかし、部落解放運動のなかで自分の出自を宣言する人たちに出会って『「癩者」の息子として』を上梓した。勇気の要る行動だった。
 人間が人間のいのちを自分とおなじように大事に思う。差別をなくすために、国もハンセン病家族の訴えを率直に認めてほしい。

 pencil

認めるところからすべては始まる。
過去を学ばない、認めない者は、過去と同じ過ちを繰り返す。

『同朋新聞』 2017年5月号 「時問自問う」に文章を載せていただいています。
昨年4月、「第10回 真宗大谷派 ハンセン病問題全国交流集会」に参加させていただいたときのことを書いています。
第9回集会(2013年開催)の際、上記「東京新聞」コラム執筆の鎌田慧さんから講演いただきました。あれから4年。ハンセン病元患者さんやそのご家族を襲った惨事の傷は、未だ癒えていません。小泉首相が謝罪して、あれで謝罪は終わったというような言い方をする人もいます。けれど、謝罪して終わるのではなく、謝罪してから始まることもあるのではないでしょうか。それから築かれる関係がある。
そういえば、集会に参加させていただけたおかげで出遇えた方々がいます。国も、人間に、いのちに出遇うためにも、訴えに耳を傾け、認めてほしい。
ハンセン病に関することだけでなく、世の差別は「人間が人間のいのちを自分とおなじように大事に思う」ことの欠如から来ているように感じます。その欠如の根っこは、自分が自分自身を大事に思えないところにあるのかな…

2017年5月15日 (月)

未来を受け継ぐ者たちのために みな夫々自分でできる何かをしておくのだ

2017年5月15日(月)
沖縄が、アメリカから日本に返還されて45年が経ちました。

NHK「あさイチ」にて
レギュラーである柳澤秀夫さん(35年前 NHK沖縄局の記者をされていました)のコメント
「私たちは沖縄の基地問題と言ってしまいますが、違うのではないでしょうか。日本全体の問題であると考えなければ、現実を捉えられないのではないでしょうか!」
(朝の掃除を終えて戻ってきたら、柳澤さんと篠山さんの沖縄レポートが終わった直後でした。妻から番組の内容と、柳澤さんのコメントを聞きました。あぁ、放送内容を知っていれば、見てからお掃除に取りかかかったのにweep

日本にある米軍基地の面積の74%が沖縄にあります。
沖縄本島の18%を米軍基地が占めています。
米軍基地の問題を「沖縄の基地問題」と称して報道されたり、会話に上りますが、柳澤さんが仰るように、“沖縄の”ではなく、“日本の”あるいは“日米の”基地問題です。
「〇〇問題」と、あたかも そのことを懸命に考えているよとアピールしているかのように言いますが、かえって問題の中心・主題を誤魔化してしまう・薄れさせてしまうことがあります。何が問題なのか、どこが問題なのか、掘り下げて考えなければいけないと思います。

 pencil

ネット上で、真言宗御室派僧侶 中嶌哲演さんのお話に出会いました。
1968年、福井県小浜市に原発建設の計画が持ち上がったことを機に、「原発設置反対小浜市民の会」を結成され、活動を続けておられます。
「関西には原発が1基もないのに、なぜ若狭湾(福井県)には15基もあるのか。そのことの意味から考えてほしい」
ということばが胸に突き刺さります。
過疎化が進む町・行政が貧困でインフラ整備が遅れている町に、原発建設の話は、甘い蜜と共にやってきます。

 pencil

本当に安全なものならば、身近に置いておくと思います。大都市・行政の手元に置いておきたいでしょう。しかし、必要ではあるけれど、危険も伴うものだから、つかず離れずのところに置いておくのでしょう。
「必要」と言ったって、防衛のため、電力の安定供給のために必要なのではない。アメリカの言いなりであるため、機嫌を損ねないために「必要」なのでしょう。
自分の利益(ムラ人の利益)のために、国民に危険を押し付けています。
あぁ、これを「何問題」と言って考えればいいのだろう。
・・・「人間の問題」ですね。この世のすべての出来事は「人間の問題」に通じている。他者ではない、自分の問題。

 pencil

先に紹介した中蔦哲演住職が、坂村真民さんの詩を紹介されています。
あとからくる者のために、私には何ができるでしょう。

あとからくる者のために(坂村真民『詩集・詩国』より)

あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は 詩を書いておくのだ
あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ
あとからくる者のために
みんなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしておくのだ

2017年5月14日 (日)

「母」を想う

Img381

2017年5月14日(日)母の日
親鸞聖人の書かれる「母」の字の中には「子」がいます。
母から子へ その子が母や父となり つぎの世代へ
いのちのつながりを表しています。
聖人が書かれる「母」は、「南無阿弥陀仏」なのですね。

2017年5月13日 (土)

あめ あめ ふれ ふれ♪

今日(2017年5月13日)は一日中しっかりとした雨が降っていましたrain
昨日お呼ばれした披露宴。晴れて良かったねhappy01と思いました。

用事や行事があるときは、晴れであることを願うものです。
雨の必要なことは、誰もが分かっていることですが。
にもかかわらず、「この日は晴れてsign03」なんて、自分の都合で願ってしまう。
降り過ぎもまた水害やダムの決壊を引き起こし、恐ろしいものです。
大切さの尺度が、自分の許容範囲でしかありませんね。

昨年、水不足が心配されていたことが記憶の片隅にあるらしく、長女は「雨が降ってよかったぁ」とホッとしています(*^.^*)

(娘)「雨がいっぱい降ってよかったね」
(私)「そうだね、雨が降らなかったら、飲み水もないし、お風呂やプールにも入れなくなっちゃうね」
なんて、目に見える表面的な心配を口にする私に対して、
(娘)「うん。それにお米やお花も育たないしね」
と、自然の循環を含めての心配をしていました。あぁ恥ずかしい(/ー\*)


さて、
タイトルを「あめ あめ ふれ ふれ♪」と書きましたが、
童謡の「あめ あめ ふれ ふれ」を口ずさみましたか?
八代亜紀さんの「あめ あめ ふれ ふれ」を口ずさみましたか?happy01

2017年5月12日 (金)

遠く宿縁を慶べ

遠く宿縁を慶べ

結婚披露宴にお招きいただきました🌼

新郎新婦の出逢いのみならず、様々なご縁を通して、人と人は出遇い、私となりました。
ふたりに乾杯✨🍻🎶

2017年5月11日 (木)

先往く人がいて、今の私がある

2017年5月11日(木)
西蓮寺が所属する東京5組の追弔会(ついちょうえ)。
東京5組20ヵ寺の歴代住職・坊守の法名が、ひとつの軸(法名軸)に列記されています。
総勢何人になるでしょうか。100名近い先達の名があり、そのうち直接面と向かった方々はほんの少し(20名ほどかな)。でも、直接知り合った方々とばかり縁を結んだかといえば、先立つ方々がいて、知っている方々がいて、私が在る。そして、後の方々との縁が結ばれていく。
法名軸の前に座ると、いつも身が引き締まります。
人は、肉体は滅んだとしても、キチンと後に伝わっていくものがある。
人は死んでも、想いは死なない。
南無阿弥陀仏

2017年5月10日 (水)

どんな記憶も ことばにして・・・

たまたま手にした雑誌に、作家 江國香織さんのインタビュー記事が。
「人が最後まで個人所有できるものは、記憶と誇りだけ」
その記憶には、「いい記憶も嫌な記憶も」ふくまれていて、「等価値」。だからこそ覚えておきたいという言葉に惹かれました。
一時期、江國さんのエッセイを読みふけっていたなぁということを思い出しました。いい記憶も嫌な記憶も含めて。

(インタビュアー) 年を取るにつれて自由になっていく一方で、「死へのおそれは身近になる」と江國さんは言います。そんな日常を生きる支えになるものとは?

(江國香織さん)
 東日本大震災があったとき、最後まで個人所有できるものは、記憶と誇りだけだなと思ったんです。どんな人も、若い人もですけど、いつ何が起こるかわからないし、いつかは死んでしまう。そのとにきお金とか物とか何を所有していても、墓場まで持っていくことはできない。だけど、自分は愛した、愛された、とにかく生き抜いたということでも何でもいいんです。その記憶と誇りだけは、誰にも奪えないし、最後までその人のものだと思ったんですね。
 ということは、その2つがあるからこそ人は生きられるのかもしれない。だから、いい記憶も嫌な記憶もどっちも覚えておきたいし、余計に何でも言葉にしておきたいと私は思ってしまう。どんな記憶も、言葉に閉じ込めて物語にすれば、あるいは過去にすれば、安らかに思えるから。その意味では、いい記憶も嫌な記憶も等価値で大事なものだと私は思っているんです。
〔雑誌『ハルメク』(株式会社ハルメク発行)2017年3月号より〕


2017年5月 9日 (火)

話し上手は聞き上手

帰宅途中 「白山さん!」と声をかけられる。
久しぶりに会う友人でした。
決して話がうまく噛み合う友ではないのだけれど、ありきたりな挨拶をして「さようなら」では淋しいなと思い、
「一軒行こうか?」と誘い、ショットバーへ。

「今日は相手の言うことを否定したり、疑問を投げかけるのではなく、きちんと受けとめよう!!」と自分に確認して、友と向き合う。

 beerかんぱ~いbeer

あれ? 友の言うことがスルスルッと耳に入ってくる。不思議な感覚でした。
すると、友も私のことばをちゃんと聞いてから受け応えしてくれる。恐らく、今までは自分でも知らないうちに生えていた ことば の刃が、生えていなかったのでしょう。ことばを発しながら、自分でも感じました。やわらかいな(自分の口にもこころにも優しいな)って。

頭ごなしに、お説教口調で話をするのではなくて、
相手の言うことを吸収する、頷きながら聞くところに
会話が成り立つのだなと、今更ながら想いました。

友よ、楽しい夜をありがとうbar

2017年5月 8日 (月)

怒り

昨晩、何の番組かも分からず少しだけテレビを見ていました。
60歳以上の人生の先輩方が、今怒っていること・腹が立つことについて、カメラの前でぼやいて(つぶやいて、怒って)いました。

そのほとんどが、「自分を認めてもらえないこと」「自分の意に反すること」「自分には納得できないこと」でお怒りなのだなぁと思いながら見ていました。
自分なりの正論を述べていらっしゃるのですが、それも相手や周りの人間からしてみれば「納得できないこと」かもしれません。

「年寄りが自分勝手なことで怒ってるんじゃない!!」なんて言うつもりはありませんよsweat01
“怒り”というのは、「自分が正しい!!」というところに立ってるんだなぁと感じました。年齢に関係なく。

たとえば、私が年少者のことを怒ったとします。
でも、私が怒ってる内容って、年長者が私や私世代に対して怒ってた内容と同じなんですよね。
その年長者も、更に年長者から怒られていたわけで・・・
面白いのは、私の怒りの対象である年少者もまた、更に年少者に対して怒る訳です。自分が怒られたのと同じような内容で。

“怒り”というのは、自分を見えなくしてしまいますね。
私もかつては“瞬間湯沸かし器”と言われていたので、その頃はさぞ恥ずかしい姿をさらしていたことでしょうshock 今もその名残りはあるので、気をつけなければ・・・

喜怒哀楽という感情は、生きていく上で必然的な感情です。“怒”を無くそう、“哀”はいらないというものではありません。だから、「怒らないように生きよう」と思っても、それは不自然なことです。それに、“怒”があるから“喜”も湧いてくるし、“哀”を知るからこそ“楽”を感じられる。独立した感情ではなく、みんな影響し合っているから、いろんな感情を持ち得るのです。
ただ、怒りにまかせて他者(ひと)を傷つてしまうと、自分も傷つきます。相手を傷つけ、自分をも傷付けたことに気が付けば良いけれど・・・

2017年5月 7日 (日)

人間は、ひとりじゃ何も出来ないんだなぁ・・・

「面倒臭いもの(こと) イコール いらないもの(こと)」になっている風潮がないだろうか。
でも、本当にいらない物事であろうか?
一度無くした物事を、また復活させるのは、やめる以上に体力・労力を使うものです。
面倒臭いから いらない!とした結果、余計面倒臭いことが押し寄せることはよくある話で・・・
今までその物事があった背景を、物事によって生み出された物事を見つめることも大切かと。面倒くさがらずに。

 bud

べつに、何か特定の物事があって投稿したわけではありません。
ふと そう感じたものですからgood

 sign03

(追記)
と、ふと思ったことを書いた後で、教区同朋大会の記念品として配布された『Sein(ザイン)』(真宗大谷派 真宗会館発行)を読んでいたら、次のような文章が載っていて、ビックリしました。
内容は、第11回目の「親鸞フォーラム  格差社会×仏教 -人間の闇と欲望」
浜矩子さんと湯浅誠さんと木越康さん、コーディネーター鶴見晃さんによるパネルディスカッションです。

(湯浅さん) 最近、よく民主主義について考えているのですが、親戚づきあいでもなんでも一緒なのだなと思います。親戚づきあいというのは、とかく面倒なものですが、その面倒くささと、一緒にいることで出る力は背中合わせで、切り離せないのです。1人でやった方が早いこともあります。しかし1人ではできないこともあって、そのときは2人、3人でやった方が、より大きな力が出る。けれども、それは面倒くさいのです。面倒くさいけど、1人でできることはごく限られている。そういう中で、その面倒くささを引き受けていくしかない。家族でも、地域でも、社会でも同じです。それが人の中で生きるということなのだろうと、ここ5年くらいは割り切って考えています。

(浜さん)
私も面倒くさい、うっとうしい存在というのは、非常に重要なものだと思っています。自分にとって、面倒くさい、うっとうしい、違和感ありというものを排除しようとすると、それは間違いなく格差が深まることにつながっていきます。違和感があるものを排除することは本当に楽な世界ですが、やはりそれをやってはいけないのです。(中略)
事ほどさように、格差が出現することを許さない社会であるためには、やはり異分子を抱き止めることができるというところが非常に重要だと思うのです。

(湯浅さん)
まさにそうだと思います。私の友人で、九州でホームレス支援をやっている奥田知志さんという方が、「絆(きずな)という字には、傷(きず)という言葉が入っている」と言っていました。やはり面倒くささと、つながりはセットで、どちらかだけを切り捨てるというのはできない。抱擁という話がありましたが、彼のNPOは「抱樸(ほうぼく)」という名前になりました。「樸(ぼく)」というのは生木の意味で、要するに生木を抱きかかえると自分も傷つく。だけど、それを抱きかかえていきましょうという意味なのです。人と一緒に何かやるというのは、自分も傷つくことだったり、面倒くさかったりするのですが、そこで排除したらおしまいなのだなということを私も思います。

あぁ、私に見せるために、『Sein』が私の手元に来たのだなと思いました。
教区同朋大会にご参加の皆様も、「南御堂」 中島岳志先生の文章と共にお読みください!! 

2017年5月 6日 (土)

あぁ むじょう

昨晩、「レ・ミゼラブル」をテレビで放送していました。懐かしいなぁと想いました。
というのも、中学生の時、英語の先生が授業時間中に「レ・ミゼラブル」を見せてくれていたからです。あの長編を!!
昨晩放送されていたものは2012年の作品なので、私が見せてもらっていたものではありませんでした。1957年の作品だったのかなぁ。

中学の英語の先生は、「レ・ミゼラブル」を見せてくれてました。
小学校の時の担任は、星空観察が好きな人で、冬休みの夜中に、希望者を集めて星空観測会を開いてくれました。「飯盒炊さん会をやろう!」と言って、やったこともあります。
高校3年時の担任は、日本史担当だったので、受験生のために夏休み中に日本史勉強のための合宿(2泊3日だったかな・・・)を開いてくれました。

現代(いま)、学校の先生が、自分の独断でこういうことをできるのでしょうか? 無理なのでしょうね。 
先生自身が忙しいという問題もありますが、そういう意味で無理なのではなくて、
学校が、教育委員会が、保護者が、こういうことを許してくれるのでしょうか?おそらく許可されないでしょう。
(高校の担任は、他のクラスの保護者から「不公平だ」という指摘を受けて、処分を受けました。これって処分を受けるようなことなのか? 不公平なことなのか? と、当時感じました)

指導方法に正解などないし、私が子どもの頃と今とでは教育環境も指導内容もまるで違うので、昔は良かった的なことをいうつもりはないけれど、先生と生徒も人間と人間の関係。年を重ねてから、あんな先生いたなぁ、あんな授業受けたなぁって、思い返せるような先生・授業との出会いがあればいいですね。

あぁ無情 ではなく、 あぁ無常

2017年5月 5日 (金)

私も子どもだったの日

2017年4月の寺報より

Img367_2

 chick chick chick

この絵を見るなり、妻から間違いを指摘されました。
さて、どこがおかしいのでしょうか?coldsweats01

(5月6日追記)
絵の間違いは・・・
縄跳びをしている姿です!!
縄がトップにあれとき、足は地に着いているはずだし、
飛んでいるときは、縄は下を通過中。
縄がトップにあるうえに、次女は宙に浮いている!!
何の疑問もなく描いていましたが、絵を見た瞬間、妻に指摘されました。よく気づくなぁcoldsweats01

2017年5月 4日 (木)

学ぶことに窮する国に、未来はあるのでしょうか?

安倍首相が、自民党が、憲法改正して「教育無償化」を訴え始めたけれど、それは改憲しなくても法整備でできること。「2020年には」なんて先延ばしの話ではなく、今努めること。耳障りの良いことを言って、改憲のハードルを下げようとしています。自民党は以前、民進党(民主党)が「教育無償化」を訴えた際、「選挙目当てのばらまきだ! 財源はどうするんだ?」なんて批判していたような記憶がありますが。

2017年5月 3日 (水)

憲法記念日・・・ことばの奥にある願い

現行の日本国憲法は、1946年(昭和21年)11月3日に公布され、その6か月後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。そのため、日本国憲法施行の5月3日が憲法記念日として制定されました。
日本国憲法は、GHQが作成した「GHQ草案」が元になっていますが、それに先立ち、日本の民間人が作成した「憲法研究会 憲法草案要綱」が、GHQに影響を与えたと言われています。高野岩三郎氏(元東京大学経済学部教授)が提起して、7名ほどの民間人で発足した「憲法研究会」。「国民主権」を訴え、人間が人間らしく生きる権利、生存権を主張しました。現行憲法第25条 第1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」が最たるものです。
GHQの草案作成に関わったベアテ・シロタ氏(1923~2012)。彼女は、「人権」に関する条項の作成に携わり、女性の権利の確立を願いました。少女時代を戦前の日本で過ごし、日本人の友人を持ち、日本女性の地位の低さを知っていた彼女の願いは、憲法第24条 第1項「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」に表われています。婚姻の自由を謳うだけではなく、家からの解放、女性の自立を表現した、アメリカの憲法にも条文化されていない画期的なものです。
現行憲法制定から70年。「国民主権」や「男女平等」など、現在の感覚では当然のことのように思われるかもしれません。しかし、それらが夢物語だった時代がありました。そのような時代に、未来を見据え、未来を生きる人びとのことを想い作成された日本国憲法。「みんな自由に平和に生きたい。争いから自由や平和は生れない。もう戦争はしたくない」という普遍的願いが込められています。

2017年5月 2日 (火)

多謝

多謝
東京教区同朋大会
無事お勤めできました。
ご参加くださった皆様、中島岳志先生、鼎談いただいた光林さん・旦保さん、スタッフの皆様、教務所の皆様、ありがとうございます。
何か会を開くとき、いつも思います。ひとりでは何もできないけれど、たくさん集まれば大きなことをできるってことを。そんなことを、身をもって私に感じさせてくださった同朋大会です。
素敵な同朋大会でした‼️
3年間支えてくれてありがとう。
同朋大会チーフ 白山勝久拝

2017年5月 1日 (月)

2017年5月のことば

Dsc_0139
人間の脳の中には、
絶対に祈りの回路があると思うんです。
                   柳澤 桂子

SWITCHインタビュー
4月22日(土)NHK「SWITCHインタビュー達人達(たち)」を視聴。
福島智さんと柳澤桂子さんの対談でした。
 
NHK HP〈番組内容〉より
障害者を取り巻く問題を当事者として研究する東大教授の福島智。
難病と闘い、思索と執筆を続ける生命科学者の柳澤桂子。
自らの体験を交え「生きるとは何か」を語り合う。

9歳で視力を、18歳で聴力を失った福島。指点字という方法で周りとコミュニケーションをとりながら勉強を続け、バリアフリー研究者となった。一方、柳澤は女性の大学進学がまだ珍しかった時代に米国留学、最先端の遺伝子研究に取り組むが31歳で突然、原因不明の難病に襲われた。以来、 病と闘いながら生命科学について思索をめぐらせている。番組では福島が2日間にわたって柳澤の自宅を訪ね、命と存在をめぐる対話を重ねる。
(以上)

心の真ん中に置いておくべきこと
昨年7月の相模原障害者施設殺傷事件。事件の容疑者は、「障害者は、周りの人間を不幸にする」「施設に入っている障害者のせいで税金が使われる」「障害者がいなくなれば世界は平和になる」などと語っていたと報道されています。この言い分に対し、当時ネット上では「犯人(容疑者)がやったことは許せることではないが、理由は理解できる」旨のコメントが多数見られました。
いつの頃からでしょう、頭の良い人間・仕事の出来る人間・経済生産性のある人間に価値があると、人間を価値の有無で見るようになってしまいました。そのような社会では、障害のある方・年老いて体が動かなくなった方を、生きる意味の無い者という目で見てしまいます。
福島智さんは、そんな社会状況を見つめ、語られます。「この事件は、容疑者の人格だけの問題ではなく、社会全体の価値観の問題です。人間は、すべて同じく生きる意味がある。大切ないのちをいただいている。そのことを子どもたちに伝えなければいけない。社会全体が、最強度の努力で生きることを守らねばならない」と。

いわゆる健常者と言われる者は、障害を持って生きる方を、憐れみの眼で見てしまいます。私にも、そういう想いがありました。しかし、福島さんは言います。
「障害を持って生まれてきてよかったと言う人は、けっこういるんですよ。当人よりも、親がショックを受け、心配します。それは、障害を持っていてもいきいきと生きる者が多くいて、施設も制度もある。その情報量がかなり少ないことに問題があります。本当は幸せに生きられるのに、それを知らない。幸せに生きられるんだよということを、障害を持った方が子どもの時に伝えてあげたい」と。
その話を聞いて、柳澤さんは「頭の片隅に置いておいておかなければいけませんね」と頷き、福島さんは「心の真ん中に置いておくべきことです」と応えます。そのやりとりが印象的でした。

当事者として生きる
福島さんは視力と聴力を失い、そのような身になったからこそ、自分にしか伝えられないことがあると語られます。「障害について、健常者が著わしたものは多々ありますが、障害を持った人(当事者)が書いたものがない。当事者でないと書けないことがある。だから、私も研究をし、発表をしているのです」
柳澤さんも、31歳のときに発病し、やがて寝たきりになります。50年に亘る闘病生活の中で、50冊以上の本を著わされました。「文章を書くことが苦手だった私が、何冊も本を書いてきたのは、好きだったから」と語られています。
おふたりとも、自分だからこそ伝えられることがある、と語られます。当事者として。

自然と手が合わさる
当事者として、身を粉にして思索研究に努め、世の中に伝えていくなかで、人間の力を超えた大いなるもの・自然に対する畏敬の念を感じると語られます。
(福島さん)「私は、目も見えないし、耳も聞こえない。でも、太陽は、その日射しを受けて熱を感じることができます。」
(柳澤さん)「科学で証明できないものは、無いのではなくて、有るのかもしれないし無いのかもしれない。否定してしまってはいけない。私は神を信じていないけれど、いないとは思っていません。
人間の脳の中には、絶対に祈りの回路があると思うんです。
DNAの中に、本能として書き込まれているんです。」

共感し合い、敬い合う
柳澤さんの体調から察するに、あまり時間をかけたインタビューや対談は行なわないのではないでしょうか。でも、窓の外の日の動きを見ていると、かなりの時間を費やしているようでした。 にもかかわらず、柳澤さんも福島さんも、笑顔があふれています。柳澤さんは、血色が良くなっているようにも見えました。
話をしているうちに興味・感心が深まり、共感し合い、敬い合っているかのようでした。
自分を包む大いなる世界・自然に対する畏敬の念と、自分の内側に流れるいのちの歴史への感謝。それら二人の奥底にあるものが通じ合っているように感じられました。
いつ再放送されるか分かりませんが、その節はぜひご試聴(「視聴」の誤りです。申し訳ありません)ください!(番組の宣伝みたいですねcoldsweats01

 bud bud bud

掲示板の人形
Dsc_0140

« 2017年4月 | トップページ | 2017年6月 »

フォト
2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ