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2017年4月28日 (金)

「生まれ出でよう」という願いは、根本の願い。本願である。

ある新聞の人生相談に、妊婦さんの相談(というか愚痴・怒り)が載っていました。
ご法事に参列した折り、親戚からお腹の子に向かって、「おじいちゃんの生まれ変わりかも」と言われたり、手を合わせて拝まれたりした。無事出産できるかどうかで神経を使っている中、無神経な親類の態度に気持ちの持って行きようがないとのこと。親類とは普段から良いお付き合いをされているそうで、冗談でやったことだというのは分かっているんだけど、それにしても嫌な気分にさせられたとのことです。

私が相談されたわけではないので、私が何かしら答えるのもおかしい話ですが、ちょっとひと言。
「お腹の中の子に手を合わされた・お経を読まれた」らしく、それが腹が立ったそうです。世間的な表現をすれば、「縁起でもない」と思ったことでしょう。
でも、手を合わせることも、お経を読むことも、お経そのものの、死者・亡き人の供養のためのものではありません。どちらかといえば、迷いを生きている私自身に向けてのものです。教えに出遇えよと、お腹の中の子が、母に、父に、親戚に訴えているのでしょう。その子がいることによって、親戚は手を合わせたのですから。

お釈迦さまが、お母様のお腹の中にいるとき、両親は仙人に頼みました。「この子は将来どのような子になるであろう?どうかそれを教えておくれ」と。
すると仙人は、涙をこぼし始めました。驚いた父王が涙の理由を尋ねると、「この子は将来、修行者となり、さとりを得て、人びとを救いに導くお方となります。しかし、その頃には私の寿命は尽きていて、教えを聞くことができません。それゆえに泣いているのです」と答えました。
息子に王位を譲りたい父王・お妃としては、息子に出家されては困ってしまいます。それゆえ、修行者になろうなどという気を起こさせないように、すべてに満ち足りた生活を用意するわけです・・・。

お腹の中の子を通して、母も、父も、周りの人びとも将来を思い描きます。夢を託すというのは親の都合だけど、
どうかこの子が生きる世の中は平穏な世の中であってほしいと願います。そのためには、努力をしなければいけません。子を通して感じる他力に包まれ、先を生きる私は自力を思い切り尽くせます。「生きる」ことと向き合います。お釈迦さまという特定・特別の子のお話しではなく、子を通して、真面目に「いのち」と向き合います。
手を合わせるのは、お子さんからの願いだったのでしょう。お子さんもまた、「生まれ出でたい!!」という願いがあって、両親の出会いと重なったからこそ、「いのち」をいただきました。
お子さんを通して、私たちは呼び声を聞くご縁をいただきました。
「縁起でもない」ことではなくて、「縁起あればこそ」です。
南無阿弥陀仏

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