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2017年4月17日 (月)

対話とは、相手との距離を無くすことではなく、相手との距離を知ること。痛みを無くすことではなく、痛みを感じること。

 

「東京新聞」2017年4月17日(月) 本音のコラム

精神福祉法改正 宮子あずさ(看護師)

 昨年相模原市の施設で起きた障がい者殺傷事件を受けて、政府は措置入院後の患者の継続支援に警察が関わる、精神保健福祉改正案を国会に提出。医療よりも治安を優先する姿勢に、多くの当事者、医療者から反対意見が表明されている。
 そもそも実行犯の男性の精神状態については不明な点が多い。一方で、障がい者の生存を否定する言動を繰り返し、強い差別意識が確実に存在する。あの事件は障がい者に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)と見るのが妥当であろう。
 にもかかわらず、政府は徹頭徹尾この事実から目を背けてきた。トップに立つ安倍首相は決して実行犯の差別意識を糾弾しない。それどころか精神疾患に原因を矮小化し、新たな差別すら生み出そうとしている。
 しかし、今の政権が好まれるのは、この矮小化のうまさにもあるのだろう。事件の原因を差別意識に求めれば、自らの意識を問わねばならない。誰にも障がいを否定的に捉える価値観はある。それを問い直す作業には痛みを伴う。原因を精神疾患、それも措置入院の問題とすれば、私たちは自らを問わなくて良い。
 常に問題の原因を外部に求め、人のせいにしたい人間の弱さに迎合する。シンゾーとドナルドはそんな政治家の筆頭に挙がる。問題の本質を見誤らないように、私たちは勇気を持たなければならない。

 

「朝日新聞」2017年4月17日(月) 折々のことば(鷲田 清一)

理解し合えるはずだという前提に立つと、少しでも理解し合えないことがあった時に、事態はうまくいかなくなる。
『ラブ&ポップ』 村上龍

 対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるためになされると考えると、いずれかが理解を断念したとき、対話は閉じられる。理解できなくてあたりまえ、むしろ語りあえば語りあうほど相手と自分との違いがより微細に見えてくる。それを対話だと考えれば、理解し合えずとも共にいられる場所は少し広がる。
鷲田清一

 

私は、自分と価値観を異にする者・自分の想いを超える者に対して、警戒感や拒否感を抱いてしまう。
しかし、精神疾患を患っている方は、自身が苦しい思いをされている。他者を傷つけるつもりはない。
にもかかわらず、奇異の目で見てしまう(見られてしまう)。
価値観を異にする者・自分の想いを超える者に対処するには、遠ざけておいたり、強い権力で縛り付けてしまえばいい。そんな解決法を選んでしまう。相手から見れば、私こそ価値観を異にする者であり、自分の想いとは違うところで生きている者なのに。
自分を見つめることには苦痛を伴う。相手を非難してやりすごせば、痛みは伴わない。そんな私の姿を背景に、精神保健福祉改正案が提出され、数の力で通ってしまうだろう。
「他者(ひと)のせいにするのではなく、私を問い直す」。そんな当たり前のことを、よく表現してくださいました。と、「東京新聞」で宮子さんのコラムを読んだ後、「朝日新聞」を読んでいたら、鷲田先生のコラム(折々のことば)に村上龍さんの文章が。
人と人は、理解し合って関係を築くのではなく、理解し合えないところに立って関係を築いていくものではないだろうか。

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