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2017年3月13日 (月)

「ただ在る」ことの大切さ

関西学院大学准教授の貴戸理恵先生の文章に惹かれました。

子ども・若者の生活に、さまざまなことをする「ための」場所が増えている。 一つの例は、保育園や学童保育だ。もともと勤務中の保育の確保」という親のニーズから始まり、「親のいない昼間、子どもが無事に生活する」だけで意味があった。ところが近年では、市場化の流れにより、「指導員が英語で話しかける」など付加価値をアピールするものが増えている。 もうひとつ例をあげれば、私の勤務先でもある大学だ。授業では飽き足らず「もっと学びたい」という学生のために「課外の学びの場」が用意されている。留学やボランティア活動、さまざまな自覚取得などのサポートも充実している。何かやりたいと思えば、その「ための」受け皿は多様にある。一方で、「何かしなければ」という焦燥に、学生たちはさらされているように見える。 「何かのためにする」ことばかりが称揚されて、「ただ在る」ことがその価値をおとしめられるなら、息苦しくはないか。 子ども・若者には「何の目的もなくただそこに居て、話に耳を傾けてもらい、目的や能力にかかわらず存在を認めてもらう」場所が必要だ。なぜなら、多くの子ども・若者は「私はこれがしたい」という目的・ニーズを、あらかじめはっきり持っているわけではないからだ。そしてそのような個人の目的・ニーズは、「ただ在る」場や関係のなかで、ふとしたきっかけや偶然の積み重ねによって、形成されていくものだからだ。 明確な目的を持って人生に取り組むことも大切だが「ただ在る」という目的の「空白」も、同じくらいかそれ以上に大切だ。 しかし、「ただ在る」ことの重要性は認められなくなってきている。例えば、学校の保健室はこれまで「保健室登校」という言葉があるように、不登校の子どもでも行ける学校の中で唯一「ただ在る」ことが認められる空間だった。しかし近年では「病気でないなら、居てはだめ」と、目的外利用を規制する学校も少なくない。これでは、生きづらさを感じる若い人の一つの居場所を奪ってしまう。 常に何かの「ため」に動いている状況は、疲れる。効率や便利さばかり求めるのではなく、「ただ在る」ことの意義をもう一度見つめなおしたい。 〔「東京新聞」 時代を読む 2017年3月12日(日)朝刊より抄出〕

真宗大谷派でも、お寺という場所の持つ意味を問い直しています。これからの時代、お寺はどうあるべきか。何をするべきか。
いろいろな施策・歩みを考え、すでに実行されているお寺(住職・門徒)もあります。
お寺という場の試行錯誤に結論や結果はありません。常に考え続けることが大切なことだと思います。それは、人と共に在り続けるということなのでしょう。
ただ、貴戸先生ご指摘のように、「ための」場作りに意識が行きすぎてはいないだろうか? そんなことを思いました。「ただ在る」ことの大切さが、寺があることの根本ではないだろうか。

引用させていただいた文章の最後に、保健室の例が挙げられていました。そこを読んでいて、
仮病は、この世でいちばん重い病気だよ。
という『ブラックジャック』(手塚治虫)のことばを思い出しました。

生きている意味とか、役に立てる人間か否かが問われる現代、
何かの「ために」いられない私は、生きている意味がないのではないだろうか
と、考えてしまいます。
そのことは、私を追い詰めてしまいます。
そのときに辿り着く場が「保健室」であり、こころを支えるよりどころです。
見た目病状はなくても、「保健室」にやってくる生徒は、こころの病を抱えています。
受け入れてくれる場があるだけで、人は生きていけます。
「保健室」は選択肢として思い浮かんでも、「寺」は思い浮かびませんね。
私を支えてくれる場、その選択肢の中に「寺」も加えていただけるように・・・

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