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2017年3月

2017年3月31日 (金)

「たり」が たり ない。

「今日は友だちとボール投げをしたり、縄跳びをして遊んだよ」と娘が言うので、「そっか、良かったねhappy01」と応えるわけですが、
「今日は友だちとボール投げをしたり、縄跳びをしたりして遊んだよ」
というのが正しい表現になります。
「たり」は、繰り返し用いる「並列助詞」というのだそうです。
「願ったり叶ったり」「踏んだり蹴ったり」などと言いますよね。
「~たり~たり」と、続けて用いるのが正しい使い方だそうです。

今、別の原稿を書いていて、最初の娘のセリフのような文章を書いたら、Word君が丁寧にも緑の波線で「おかしいよ、間違ってるよ」と指摘してくれたので、「ん! どこがおかしいんだ?」って調べたら、「~たり~たり」の用法を知りました。ひとつ賢くなりましたclover

2017年3月30日 (木)

記録・資料を残しておけば、こんなにも混沌としなかったのでは・・・(記録・資料はあるのだろうけれど)

木村草太さん(首都大学東京 教授)〔2017年3月24日(金)放送「報道ステーション」より〕

「この事案(森友学園の土地取引問題)の解明が進まないのは政府側が記録は全て無いと言ってるからですよね。だから篭池氏側の証言を崩す為に『嘘ばっかり言う人だ』と人格攻撃をせざるを得なくて歯止めが掛からなくなってる状況があります。仮に篭池氏が清廉潔白な人でないとしても、やはり国家権力が総出で一市民の人格攻撃を行うのは常軌を逸している。問い正すべきは売却価格を決めたり、小学校の認可を出した官僚、政治の側だと思います」

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山口二郎さん(法政大学 教授)〔2017年3月26日(日)『東京新聞』朝刊「本音のコラム」より〕

無責任の王国
森友学園の籠池理事長の証人喚問は真相解明に結び付くものではなかったが、政治、行政の腐敗を明らかにするものではあった。国有地の払い下げや小学校の設立認可をめぐって、贈収賄などの犯罪があったとは思えない。しかし、見方を変えれば、だからこそ今の腐敗は質が悪いということもできるのである。
安倍首相の妻昭恵氏が籠池氏の求めに応じて口利きをしたことはないのかもしれない。しかし、首相や夫人と親密な間柄にあることを誇示すれば、幼稚園長の頼みであっても首相夫人付きの官僚が財務省の高級官僚に事情を問い合わせ、予算措置についても情報を提供してくれる。それだけでも不公平と言える。
財務省は国有地の値引きについて適正な手続きに沿ったと言い張るが、価格算定の課程に関する資料は廃棄したと、以後の説明を拒否する。政治家からの働きかけはなかったのかもしれないが、森友学園に対する売却が前例のない厚遇であったことは明白である。政治家は明示的な指示を出しておらず、官僚は有力政治家の意向をおもんぱかって優遇を与える。そして、意志決定はすべてやぶの中。
法治国家における責任追及は、文書に基づく意志決定を前提としている。以心伝心と資料の廃棄は、法の支配を崩壊させ、誰も責任を取らない専制国家をもたらす。

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行政とのやりとりを行なう際、資料の保存にうるさいのは、行政の方だと感じるのだけれど。
にもかかわらず、土地売却に関する資料がない、廃棄したというのは、勘ぐられても仕方がないのでは。
木村草太さんが言うように、先ず問いただすべきは、記録をなくしてしまったことと、その責任。
記録がないならば、「申し訳ございません」としか言いようがないはずなのに、籠池氏に対する人格攻撃を行なう。あれだけ「一般人の証人喚問には慎重でなければ」と言っていたのに。
法の支配を崩壊させ、誰も責任を取らない国において、「安保法(戦争法)」や「テロ等準備罪(共謀罪)」がまかり通ってしまえば、徒に戦争に突っ込み、一般市民を人格攻撃して、政府に逆らう市民を拘束することでしょう。
法にも問題はあるし、だからこそ反対運動が起きているわけだけれど、自分たちに都合の良い法を稚拙に成立させ、その法と権力で好き勝手するヒトこそが恐ろしい。

2017年3月29日 (水)

とんでもない

「とんでもない」を「とんでもございません」と仰る方がいます。
おそらく強調されているのでしょう。
しかし、「とんでもない」は、「あぶない」「せつない」同様、それでひとつの言葉なのです。切り離せません。
「とんでもない」「あぶない」「せつない」の「ない」は、「ある」の反対の「ない」ではありません。

「とんでもございません」は、「飛んでも」+「ございません」に聞こえるわけです。
「私は飛んでいません」。
えぇ、そうですねhappy01

ちなみに、
「もったいない」は、「もったい(勿体・物体)・・・物のあるべき姿」が「ない」という言葉です。「本来の姿ではない」という意味が派生して、「私には不相応です」「そういう使い方は惜しいと思います」という意味で「もったいない」と言うようになりました。

あ、でも「もったいございません」とは言わないですね。
「とんでもございません」は、丁寧に言っているようでいて、「とんでもない」表現だったのですね。

2017年3月28日 (火)

宝物

この世で、私にとっての宝物って、なんだろう?
宝物たくさん持ってるなぁ😄

歳を経て直面する、知人との別れ、友との別れ、肉親との別れ。そのとき、私にとっての宝物って、宝物たりうるものだろうか?

そして、私自身の死が近づいてきたとき、何を大切に思うだろう?
そこで初めて宝物に出会うのかな?
いや、宝物が宝物ではなかったという気付きに出会えるのだろう。

2017年3月27日 (月)

種から芽が出るように

ドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディー」「ミツバチの羽音と地球の回転」「内部被ばくを生き抜く」「小さき声のカノン」を撮られた鎌仲ひとみさんの寄稿が、『真宗』に載っていました。

寄稿「子どもたちの今」 種から芽が出るように 鎌仲ひとみ(映像作家) (前略) 最近「魂の植民地化」という言葉を知りました。この意味は、子どもたちが自分らしい自我を育てようという時期にその方向を遮り、親や世間がまっったく子どもたちの魂の方向とは違う価値観や考え方を移植してしまう、という現象を表現しています。子どもたちが持つ個性、生きていく上で欠かせない自らの意志の力が、大人たちによって弱められているのではないか、と最近の若者から感じる機会が多々あります。大人が子どもに対して「あなたはどうしたいの」と問いかける事なしに、「こうしなさい」とあらかじめ決めてしまう。子どもが十分に考える前に「答」を提示してしまう。そういう行為がいかに子どもたちの成長を阻んでいることか。親がどう思うか、周りがどう思うかを先読みして自分の中に内面化してしまう習慣がついてしまうと、本来一人の人間が当たり前に持っている自分だけの中心軸が弱まってしまうのではないか、と危惧しています。 子どもたちは一人ひとり、唯一無二の種を身内に持って生まれてくるのだから、その種が芽を出した時、他の子どもと違うのは当たり前。本来の種が持っている個性というものが活かされながら成長できるような教育が、どうしたらできるのか、私たちの大きな課題だと思います。 〔『真宗』(真宗大谷派宗務所発行)2017年4月号より〕

子どもたちは一人ひとり唯一無二の種を持っている。それぞれの種が、それぞれの芽を出し、それぞれの花を咲かせるのだから、一人ひとり違って当たり前。
「子どもたちは一人ひとり~」の“子ども”とは、今の子どもたちだけでなく、大人も含んでいるのではないでしょうか。かつて、誰もが子どもでした。誰もが一人ひとりの種を持ち、芽が出て花が咲いている。そのことに満足できず、他を支配する(魂の植民地化)ことによる優位性でもって、自分を輝かせようと努めてはいないでしょうか。
「こうありたい」「こうあらねばならない」「こうあらねば恥ずかしい」という想いで、自分自身を縛り付けてはいないでしょうか。

鎌仲さんの寄稿の最後、「私たちの大きな課題だと思います」。「私たち」一人ひとりの話です。

2017年3月26日 (日)

被写体は、一人

2017年3月18日 ロックンロールの創始者と言われるチャック・ベリー氏が亡くなられました。
今朝(2017年3月26日)、「サンデーモーニング」で、カメラマンの浅井愼平さんが、チャック・ベリー氏との思い出を語っていました。ライブだかプロモーションの写真撮影をされたときのお話のようです。

(チャック)「写真は何枚必要なんだい?」
(浅井)「8枚です」
(チャック)「で、何枚撮るつもりなんだい?」
(浅井)「3ロール撮らせて欲しい」
(チャック)「なんてクレイジーなことを!! 15枚にしろ!!」
(浅井)「OK(「15枚なら、1ロールくらい撮らせてくれるだろう」と思ったら・・・)」

シャッターを押す度に、「ONE!」「TWO!」と、真剣な眼差しでチャック・ベリーはカウントしたそうです。
「あ、これは(15枚というのは)本気だな」と感じた浅井さんは、15枚で撮影を終えたそうです。

(浅井)『「1枚必要なときに撮るのは1枚なんだな」ということを、彼から教わりました』

と、お話をされていました。
それを聞いて、こんな話を思い出していました。かつて、日本のある俳優さんがインタビューを受けるとき、カメラマンがパシャパシャ写真を撮り続けるものだから、「あなたもプロだったら、一枚で決めなさい!!」と一喝されたそうです。

デジタルカメラのおかげで、枚数を気にすることなく写真を撮れたり、デジタルレコーダーのおかげで、時間を気にすることなく録音ができたり、便利で助かります。けれど、「この一枚にこだわる!」「一言一句聞き逃してはならない!」という意識、つまり、「この一枚こそ、この人のすべてを表わす一枚!」「このセリフこそ、この人の想いを表わすことばだ!」というところを注視・注目する気持ちが薄らいでもしまいます。
写真を撮る相手に、お話を聞く相手に、真向かいになっているか? プロとしての腕前が試されると同時に、心意気が試されてもいます。

2017年3月25日 (土)

記憶が定かではございません

正直に答えるべきところを、「記憶にございません」とか「記憶が定かでなくて」などと答弁されると、「おいおい、ふざけるなよ、ウソつくなよ、正直に答えろよ!」などと憤りを以て思って突っ込んでしまいます。
けれど、記憶って、曖昧あやふやですよね。人間の記憶力なんて、大したことないんだから。

娘たち(8歳&5歳)と神経衰弱をやって、思いっきり負けた夜night

2017年3月24日 (金)

意見が噛み合わないよね

電車内、隣に座っているご婦人方。職場の、とある人物のお話をされています。聞こえてくるところによると、完全自己都合主義で、自分の都合(考え方)に合わないことは やらないらしい。謝ることもないとのこと。
「うん、うん、それは酷い人だね。そんな人いたら、職場の空気も悪いし、困るねぇ」と、こころの中で頷く。
…けれど、向こうもこちらのことを、なんだかんだ評しているかましれません。そちらの話を横で聞いていたら、「うん、うん、」って、頷くかも😄
この方々だけの話ではなく、みんなそんな感じですよね。自分の言い分の方が正しくて、相手がおかしい。そんな中で関係を築いていかなければいけないのだから、厄介ですよね💦

2017年3月23日 (木)

春のお彼岸2017 7日目(最終日)

春のお彼岸も最終日を迎えました。
墓地がお花で埋め尽くされています。
お彼岸の入りにお参りにみえた方のお花は枯れかかっていますが、墓地を見わたして見える花々はとても美しいです。

2017年3月22日 (水)

春のお彼岸2017 6日目

お彼岸5日目の昨日は、一日中雨rain
お参りの方は少なかったですが、お彼岸中に供えられた花々は、雨の潤いに喜んでいるかのようでした。
お彼岸6日目の今日は、一日中強い風が吹いていました。
昨日の雨のおかげで、地面が湿っていたので、強風にも土埃・砂煙が舞わずにすみました。ホッとしています。
木々も、本堂前の「花まつり」ののぼりも、風で揺れていました。

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2017年3月21日 (火)

肥田舜太郞さん ありがとうございます

2017年3月20日(月) 肥田舜太郞(ひだ・しゅんたろう)さんが亡くなられました。

肥田舜太郞さん
1917年広島市生まれ。太平洋戦争の最中、広島市の陸軍病院に軍医として勤める。広島の原爆被爆直後から被爆者の救援・治療にあたり、2009年の引退まで診察を続ける。1975年以降、欧米を中心に計30数カ国で、被爆医師として被爆の実相を語りつつ、核兵器廃絶を訴える。また、アメリカの低線量放射線被曝に関する研究書等を翻訳、普及に努め、内部被曝の脅威を訴え続ける。
2017年3月20日(月)肺炎で逝去。100歳でした。

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20日の晩、肥田舜太郞さんが亡くなられたニュースを聞き、かつて「同朋新聞」に掲載された対談を思い返しました(2012年6月号7月号)。
肥田さんのことばを読み、「あ、肥田さんの話を聞きたいな」と思ったものでした。結局お話しを伺うことはかないませんでした。
被曝者だけでなく内部被曝者にまで想いを寄せて、晩年まで診察・講演をされた肥田さん。福島に生きる人々のことも想われていました。優しさに溢れた目をされた方です。
また一人、戦争を語り続けてくださった方がお浄土に還られました。いつも思います。「ありがとうございます」ということばだけで済ませてはいけない。いただいたものを、次に伝えていかなければ、と。
南無阿弥陀仏

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原爆による放射線の被害をアメリカは隠し続けました。当時の日本の医師に「原爆の被害を受けた患者を診てもいいが、被曝のことをあれこれと詮索、研究してはいけない」と言ったのです。もし違反すれば重罪だと。実はそれが今日まで続いている。だから日本の医科大学で放射線問題をきちんと研究しているところはどこにもない。そして、67年経った今日まで、広島・長崎の人がどのように死んでいったのか、誰も何も聞かされていない。 それに内部被曝は被曝した証拠がわかりにくい。被曝だとケロイドという非常にわかりやすい症状があるわけですが、「私は広島で被曝した」と言っても証拠がない。私が一番苦しかったのは、そういう被曝者が死に際に私の手を握って「私は何に殺されるのですか」という言葉を聞いた時でした。わからないのです。 内部被曝を受けた人たちは外から見ても何ともないから、誰に言っても被曝者と認めてもらえない。医者に診てもらうことすらできない。被曝者と内部被曝者との間にそういう大きな亀裂があることが初めてわかりました。だからその溝をどう埋めるかが大きな宿題になったのです。 いのちが惜しいのはどちらも同じ。死が怖い。だから一人ひとりの悩みの根源にはいのちの問題があるから、そこにふれなければと思い始めたのです。地球の中のたった一人の大事ないのち、その自分のいのちの大切さ、重さにどう気づくか。そういうことを考えようと。「放射線があなたの身体をがんにするわけですから、あなたは自分の身体の主人公になって、“なっちゃ困る”という立場で生きればいいじゃない。そういう生き方を考えたことあるか」って、そういう運動を30年くらいやりました。 明日からどうして生きていけばいいのか、と悩み苦しんでいる福島のお母さん方に「あなたが生きるしかないんだ」と。そう言わなければ誰も納得しないですよ。放射線がないところへ避難しろとか、汚染されていない食べものを選べとか、そんなことができる人なんで限られています。だからそういうことを思い切って話し始めたのです。授かったいのちいっぱい生きるのがあなたの任務だと、勇気を持って生きていこうと励まし合うのが正しい援助です。お金やものをあげるのは大事なことだとは思いますが、人間の生き方を変えていき、尊さを失わずに歩んでいくことが大切なのです。 尊さということ。自分などはつまらない存在だと思いがちなんですが、そうではありません。あなたという人間は世界中探してもここにしかいない。みんなそれぞれ、誰も代わることができない自分のいのちを生きている。だから今日からあなたは、自分のいのちの主人公になりなさい。人に言われて生きるのではなしに、自分が生きるんです。

僧侶の皆さんには、ぜひとも現実の苦悩から生まれた言葉で親鸞さんの教えを表現してほしいと思います。
〔「同朋新聞」(真宗大谷派宗務所発行) 2012年6月号7月号「人間といういのちの相(すがた)」より〕

2017年3月20日 (月)

春の彼岸2017 春分の日 お中日(4日目)

お彼岸中ですが、珍しくお寺にてご葬儀。
お墓参りの方がいらっしゃる中、葬儀屋さんが本堂にてご葬儀の準備をしてくださっています。
「あんなふうに準備してるんだ」「お寺を会場にしてご葬儀が出来るの?」などなど、様子を見ている方が口にしています。
ご葬儀は、先往く人の姿を見て自分の生き方を考える儀式。
先往く人は、お彼岸のお参りにみえた方々に、何かしら考える瞬間(じかん)をくださいました。大きなお仕事を勤められました。南無阿弥陀仏

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お墓参り用のバケツが古くなっていたので、お彼岸入りの前に、新しいバケツを買いに行きました。
にもかかわらず、車に積んだままで忘れてしまってました。
「あ、バケツ!!」と思い出し、お中日を前にして古いバケツと新しいバケツを入れ替えました。
手桶・バケツ置き場に新しいバケツを置いたら、雰囲気が変わった気がします。本日お参りの方、「よし、お墓を綺麗にするぞ!!」って気になったでしょうか?

2017年3月19日 (日)

春のお彼岸2017 3日目

門徒さんから相談を受けました。
「うちのお墓は、長男が継ぐことになっていますが、次男の家族もうちのお墓に入ってもよろしいのでしょうか? お寺さんの許可が出るのであれば、私たちも長男の家族も異存はないんです。ただ、次男が職場の人に、実家のお墓に入ることを話したら、“それはいけないことだから、やめなさい”と言われたんですって。お寺さん、長男の家族が継ぐのに、次男の家族が入ることは、いけないことなのですか?」

結論から言います。まったく問題ありません。そもそも、継がれる家族(今までの日本であれば、ほとんどが長男の家族)だけしか入れないという決まりはどこにもありません。入ったために祟りがあるなんて話も、あるわけがありません。ご家族ご相談のうえ、ご兄弟の家族が入っても、何の問題もありません。

ご兄弟が多ければ、ご家族が多ければ、「いいよ いいよ 一緒にお墓に入ろう」などと、アットホームな話だけでは済まなくなることもあります。そのため、今までは実家のお墓は長男が継ぎ、他の兄弟は、別に墓所を求めたのでしょう。
しかし、現代の日本では、兄弟も少なく、一人っ子も多く、お墓を継ぐということが、あたかも負担でしかないような雰囲気すらあります。
嬉しいことがあれば報告に参り、辛いことが続けば涙流しに参り、お彼岸やお盆は家族や親戚が集まってお参りする。お墓を大切にするご家族は、代々自然とお墓を寄り所とするようになります。お内仏(お仏壇)と共に、感情の発露の場でもあります。その根っこには、信じていようがいまいが、阿弥陀さまに手を合わせることにつながっています。阿弥陀さまの前では、皆きょうだいです。

ご次男さんのご家族も、ご実家のお墓に入られてかまわないのですよ。いけないことではありません。
(注、プライベートなことにも触れますので、相談された方の状況とは、ちょっと違うシチュエーションで、上記投稿を致しました)

何でもネットで調べられる時代。職場の方も、心配をして「よくないよ」と仰ったことと思います。でも、ネットで調べると、「大丈夫!」と言うことよりも、悪い方に考えたことの方が参考意見として重宝されます。その筋の専門の方に、直に相談される方がいいのではないかと思います。もっとも、悪いこと・不安になることを言い連ねる方もいますから、何が正しくて何が間違っているのかなんて、判断が難しいことに変わりはありませんが。
何よりも、迷信に惑わされないことです。

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最近は、今まで見たことがないような色のお花が供えられます。

2017年3月18日 (土)

春のお彼岸2017 2日目

境内で遊んでいる娘たち
娘たちの成長を見て、「もうこんなに大きくなったの!?」と驚かれる、お墓参りにみえた門徒さん。
「子どもの成長は、あっという間よ。将来のことは、子どもたち自身が考えればいいけれど、親としては、自分の生きざまをキチンと見せてあげないとダメよ。今になって思うわ^^」とお話し下さいました。
背中を見せて生きる。いえ、背中を見られて生きている、ですね。

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お彼岸中ですが、寺の前の道路の舗装工事のため、片側通行でした。
お彼岸の連休中は、それでなくても都内渋滞が激しいのに、「やっとお寺の近くまで来た!」と思ったら、片側交互通行。疲れ果てた顔でお寺にきてくださる門徒さんが何人もいらっさいました。お疲れ様です。
工事をされている方々も、納期の迫ったお仕事、ご苦労様です。

2017年3月17日 (金)

春のお彼岸2017 お彼岸入りの日

2017年3月17日(金) 春のお彼岸入りの日です
たくさんの方がお参りにみえました。
ご自身の身体の不調を訴える方がいらっしゃいました。
つらいし、きついですよね。
でも、年を重ねれば、年相応に身体にはガタがくるものです。
痛いのが治らない、怠さが続く。病気の場合は、治療の方法もあることでしょう。けれど、年齢から来る痛みや怠さは、以前のよう(若い頃のよう)には戻らないものです。
「副住職はまだ若いから」などと言われる私も、お彼岸が明けて間もなく46歳になります。だいぶガタが来ています。ギックリ腰をやった後遺症で、少し右足を引きずっています。よく観察していれば、お気づきになると思います。老眼も始まりました。マスクをした跡がなかなか消えません。肌の弾力も失せています。そんなこんなも、年を重ねたからこそ!! 若い人には真似できません!!

お寺にお参りにみえられるだけでも、素晴らしいことじゃないですか!
沈んでないで、明るく参りましょう!!

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お彼岸やお盆など、お墓参りの方が多いときには、自分で火を点けられるように、お線香セットを出してあります。火を点けたお線香は、台に置いてある缶に入れて、お墓までお参り下さい。

2017年3月16日 (木)

口が虚しいと書いて嘘(ウソ)

読売新聞朝刊に連載の4コマ漫画「コボちゃん」。
だいぶ昔の作品が頭の中に残っています。

「ウソをついたら、地獄で閻魔さまに舌を抜かれるんだぞ。」と、ウソはついてはいけないよと孫のコボちゃんに諭すおじいちゃん。
驚いたコボちゃんは「地獄ってどこにあるの?」「どうやって舌を抜くの?」と、おじいちゃんを質問攻めにします。そのたびに、ウソで答えるおじいちゃんsweat01
孫とおじいちゃんの会話を聞いていたおばあちゃんは、「ウソがどんどん大きくなってる」とこころの中でつぶやきます。

というストーリーです。
初めは、孫のことを思って、誰かのためを思っての、小さなウソであっても、
ウソは、雪だるま式にどんどん大きくなっていきます。
ウソは、いつまで言ってても、ウソ。

でも、力を持った者が言い続けると本当になりかねない(押し通されかねない)から恐ろしい。

(追記)
タイトルに「口が虚しいと書いて嘘(ウソ)」と書きましたが、
「口に虚しい」かもしれない。
ウソを言っているその人自身が、虚しい気持ちになってくるのが、嘘(ウソ)。

2017年3月15日 (水)

自分の不調には敏感でも、他者(ひと)の体調にはなかなか気が回らないもので

お葬儀の読経中、咳き込んでしまう。
参列者のひとりが立ち上がり、葬儀屋さんに何か耳打ち。
その方が着座されて程なく、葬儀屋さんがお水を私の元に持ってきてくださいました。
読経後、その方にお礼を言うと、「お寺さん、辛そうだったから😄」と。
お心遣い、感謝申し上げます。

他者(ひと)の体調に気遣える人って、笑顔が素敵です。

先日、仕事の電話をしたときのこと。電話で話すことすらきついほど、身体がしんどかったのだけど、そのことを悟られないように話していました。
すると、電話を切る前に、「身体、大丈夫ですか? とてもしんどそうですよ!」との声が!
電話の相手の不調に気付き、しかも「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる。あぁ、しんどい身体に優しさが染み込みました😊 ありがとうございます

姿を見る、面と向かう、話をするって、そこに温もりが生じることなんだなぁ❤️

2017年3月14日 (火)

腐ったトマト 揃った野菜

集団の中において素行に問題がある人や生徒を指して、「腐ったトマト」という表現がある。
「腐ったトマトを取り除けば問題ない」という意識なのだろうけれど、
でも、問題があるのは、腐ったトマトの方なのだろうか。
サイズも色も味もきちんとそろった野菜棚(それを良しとする方)は、見慣れてしまってはいるが、実は気持ち悪いもの(不自然)ではないだろうか。

2017年3月13日 (月)

「ただ在る」ことの大切さ

関西学院大学准教授の貴戸理恵先生の文章に惹かれました。

子ども・若者の生活に、さまざまなことをする「ための」場所が増えている。 一つの例は、保育園や学童保育だ。もともと勤務中の保育の確保」という親のニーズから始まり、「親のいない昼間、子どもが無事に生活する」だけで意味があった。ところが近年では、市場化の流れにより、「指導員が英語で話しかける」など付加価値をアピールするものが増えている。 もうひとつ例をあげれば、私の勤務先でもある大学だ。授業では飽き足らず「もっと学びたい」という学生のために「課外の学びの場」が用意されている。留学やボランティア活動、さまざまな自覚取得などのサポートも充実している。何かやりたいと思えば、その「ための」受け皿は多様にある。一方で、「何かしなければ」という焦燥に、学生たちはさらされているように見える。 「何かのためにする」ことばかりが称揚されて、「ただ在る」ことがその価値をおとしめられるなら、息苦しくはないか。 子ども・若者には「何の目的もなくただそこに居て、話に耳を傾けてもらい、目的や能力にかかわらず存在を認めてもらう」場所が必要だ。なぜなら、多くの子ども・若者は「私はこれがしたい」という目的・ニーズを、あらかじめはっきり持っているわけではないからだ。そしてそのような個人の目的・ニーズは、「ただ在る」場や関係のなかで、ふとしたきっかけや偶然の積み重ねによって、形成されていくものだからだ。 明確な目的を持って人生に取り組むことも大切だが「ただ在る」という目的の「空白」も、同じくらいかそれ以上に大切だ。 しかし、「ただ在る」ことの重要性は認められなくなってきている。例えば、学校の保健室はこれまで「保健室登校」という言葉があるように、不登校の子どもでも行ける学校の中で唯一「ただ在る」ことが認められる空間だった。しかし近年では「病気でないなら、居てはだめ」と、目的外利用を規制する学校も少なくない。これでは、生きづらさを感じる若い人の一つの居場所を奪ってしまう。 常に何かの「ため」に動いている状況は、疲れる。効率や便利さばかり求めるのではなく、「ただ在る」ことの意義をもう一度見つめなおしたい。 〔「東京新聞」 時代を読む 2017年3月12日(日)朝刊より抄出〕

真宗大谷派でも、お寺という場所の持つ意味を問い直しています。これからの時代、お寺はどうあるべきか。何をするべきか。
いろいろな施策・歩みを考え、すでに実行されているお寺(住職・門徒)もあります。
お寺という場の試行錯誤に結論や結果はありません。常に考え続けることが大切なことだと思います。それは、人と共に在り続けるということなのでしょう。
ただ、貴戸先生ご指摘のように、「ための」場作りに意識が行きすぎてはいないだろうか? そんなことを思いました。「ただ在る」ことの大切さが、寺があることの根本ではないだろうか。

引用させていただいた文章の最後に、保健室の例が挙げられていました。そこを読んでいて、
仮病は、この世でいちばん重い病気だよ。
という『ブラックジャック』(手塚治虫)のことばを思い出しました。

生きている意味とか、役に立てる人間か否かが問われる現代、
何かの「ために」いられない私は、生きている意味がないのではないだろうか
と、考えてしまいます。
そのことは、私を追い詰めてしまいます。
そのときに辿り着く場が「保健室」であり、こころを支えるよりどころです。
見た目病状はなくても、「保健室」にやってくる生徒は、こころの病を抱えています。
受け入れてくれる場があるだけで、人は生きていけます。
「保健室」は選択肢として思い浮かんでも、「寺」は思い浮かびませんね。
私を支えてくれる場、その選択肢の中に「寺」も加えていただけるように・・・

2017年3月12日 (日)

私を認めてくれる存在(はたらき)

雑誌「VERY」(2017年4月号)に、小島慶子さんのエッセイを読んで・・・


題「親バカ子バカ」より抄出
私は真性親バカです。
仮性親バカは、一見我が子を肯定しているようで、実は条件付きだったりします。成績がいいからいい子、とか、イケメンだからいい子、とか。「私は我が子のありのままを素晴らしいと思っているんです!」と言っている人に、ではもしあなたのお子さんが名門幼稚園ではなく、近所の幼稚園のダサい制服を着ていたら?と尋ねても「そんなこと全く気にしません」と答えるでしょうけど、それが本音とは限りません。我が子を高級ブランド品みたいに仕立て上げたい気持ちがひとかけらでも自分にないか、人に言わなくてもいいですから、あなたもよーく考えてみてください。
つまりは「他人の目が気になる」「勝ち組に見られたい」って気持ちです。その気持ちは下品だけど、自然なこと。まずは認めてしまいましょう。あらやだ私、結局他のママ友に差をつけたいだけなのかも。認めちまえよ!みっともないけど人間らしいよ。一緒に楽になろうぜ!
・・・・・・で、ですね。その上で、お風呂上がりに裸んぼのお子さんと鏡の前に立ってみてください。あなたもおっぱいと陰毛丸出しです。どうですか。これはひと様には見せられないですね。でも美しくはないですか? だってあなたとお子さんは、そうやって最初に出会ったじゃないですか。お互いに局部丸出しで、涙と鼻水と、汗と絶叫の中で対面を果たしたんです。血まみれで初めまして、って。
あの時、我が子の胸に立派な校章がついていないとか、顔が整っていないとか、泣き声がバカっぽいとか、気にしましたか? 新生児室に並んだどれもくしゃくしゃの赤ん坊たちの中で、自分の子だけが輝いて見えたはず。うわあすごいビューティフォーって思ったはずです。
その気持ちのまま子育てするのが真性親バカ道。丸裸で出会った瞬間に、子どもはあなたを無条件で信頼してくれました。そんな風にあなたを求めた人が、それまでいたでしょうか。子どもは、私たちの恩人なのです。親が子どもを丸ごと受け入れるのは、恩返しなんですね。
私はよく息子たちに、君がこの世に生れてくるのに私の体を貸せたことがとても嬉しいよ、と言います。人間賛歌です。
そしたら先日、長男と次男がそろって「パパとママは特別な人だと思う。二人が親でラッキーだ」と言いました。まじか、。それはめちゃ嬉しいぞ! それな、子バカだよ。真性の子バカ。私たち、お互いに親バカ子バカの“チーム両思い”なんだな・・・・・・と涙が出たのでした。
よそのうちが気になったら、我が子と全裸でツーショット。比べっこがしんどいあなたは、今夜ぜひやってみてください。あ、もう うちではやってませんよ。中3と小6ですから。

小島慶子さんのエッセイは、「AERA」でも読ませていただいています。誰もが抱える人間の欲望。しかし、誰もがそこを認めたくはありません。でも、小島慶子さんの文章を読んでいると、認められない人間の欲望を認めちまおうぜ!!と、伝えてくださっているのだなって、感じます。人間へのエールです。

真宗大谷派東京教務所「真宗会館」主催の「親鸞フォーラム」が2017年3月19日(日)に丸ビルホール&コンファレンススクエアにて開催されます。第12回目の今回は、小島慶子さんと、齋藤孝さんが登壇されます(すでに申込期限はすぎております。申し訳ありません)。どのようなお話しになるのか、楽しみです。

2017年3月11日 (土)

根っこでつながっている意識が感じられれば、風化なんてしない

ネットが普及し、ホームページ、ブログ、SNSが手軽に扱えるようになりました。自分の想いを発する場ができました。自分の想いを、自分のことばで発することができる。素晴らしいことだな!と、想いました。
しかし現実は、自分の想いを発する際に、自分の価値観とは合わない人間を非難卑下することばが溢れています。「私は、このように考えます(こういう思想の持ち主です)。なので、このように考えます」というような表現をすればいいのに、「私は、このように考えます。だから、○○は許せません」と、名指しで他者(ひと)を貶める。
悲しいです。
で、「ネットの普及によって、他者を傷つける人間が多くなった」というようなコメントに多々出会います。私も、そう感じていました。でも、よく考えてみると、人間の本性って、そう簡単に変わらないと思うのです。それこそ、人類の誕生から連綿と受け継いできたDNA、本性があるはずです。ネットの普及によって、そのことが露骨に現われてしまっただけのことで、ネットのせいではありません。

さて、何を言わんとしているのか。
2017年3月11日、2011年の東日本大震災とそれに伴う原発事故から6年の月日を経ました。7回忌を迎えることとなります。
大震災をきっかけに、人と人とが助け合う活動が現われます。「絆」ということばが大切にされました。阪神淡路大震災の際も、中越地震の際も、熊本を中心とした九州震災の際も、日本国内を越えて、世界中から救済の手が差し伸べられました。人間って、やっぱり優しいんだ!と感じます。で、改めて感じることは、震災や困った出来事をきっかけとして人間は優しく変われるのではなくて、本性として優しいのです。

他者を傷つける本性と優しい本性。それぞれを元々持っている。そんな矛盾した本性を、人間は誰もが背負って生きています。
震災をきっかけに、誰もが優しさを表出するわけではありません。中には、「補助を受けられるのだから、贅沢言うな!」などというようなことを言う人もいます。また、他者の欠点が気になったときに、他者を責めるのではなく、「あぁ、私にも同じような性格があるなぁ」と、自身を見つめ直し、他者を受け入れられるようになる人もいます。

ネットや震災や・・・人の性格が露骨に表われる出来事はあるけれど、そのことによって性格が変わるわけではありません。一人ひとりが、矛盾した本性を持って生きている。そのことは、しんどいし、つらいことでもあります。でも、だからこそ、他者と分かり合える可能性があるのではないでしょうか。一人ひとりが、全くかすることのない本性であるならば、助け合うということも、傷つけあうということもありません。
バラバラの性格・価値観を持っているようであるけれど、本性は一緒。その気付きが、これからも末永く付き合っていける原動力となるのではないかと感じました。

震災から6年。震災の記憶や、悲しみや、他者を想う気持ち(絆)が風化していると、言ってしまうことは簡単ですが、根っこ(本性)でつながっている一人ひとりであるという気持ちを感じられれば、風化するなんてことはないんじゃないかな。と、東日本大震災から6年目を迎えて、感じていることです。
南無阿弥陀仏

2017年3月10日 (金)

スポーツを愛するこころは、相手チームも含めて、選手を敬うこころ

野球の世界一を決めるWBCが始まりました。
日本代表は、早くも2次ラウンド進出を決めました。
1次ラウンド(予選)初戦、日本の山田選手(ヤクルトスワローズ)がホームランを打ちました。
が、外野フェンス際で応援していた少年が、グラブを出してキャッチしたために、二塁打の判定に覆りました。
テレビを見ていた方の誰もが、「なにやってんだよ!」と思われたことと思います。また、例によってネット上では、少年に対するバッシングが響き渡りました。
その少年は、その後フードをかぶり、うつむき、涙ながらに試合を見届けたと伝えられています。
その報道を見て、山田選手は、次の試合でも活躍しました。それは、少年のせいで負けたとか、日本が不利になったと思わせないための活躍です。
山田選手が語ったと聞きます。「野球場にグラブを持ってきて、しかも丸刈りの少年と聞きました。つまり、野球少年なわけです。将来プロ野球選手になって、もしかしたら一緒にプレーすることもあるかもしれない。私は少年に伝えたい。私は何も気にしてないよ。だから野球を嫌いにならず、またグラブを持って応援に来てほしい」と。
そう言い切るためには、自身の活躍がなければいけませんし、それだけにより奮起して実際に活躍をされているわけです。

目の前に、飛びつきたくなるようなラッキーな出来事があったら、誰だって飛びつきませんか?
果たして少年を責められる私ですか?

山田選手のコメントは、少年に対してのものであると同時に、少年をバッシングしたすべての人間へのメッセージであると思います。
日本を、野球そのものの盛り上がりを応援するのであれば、一緒に喜びましょう。たとえ敵チームの勝利やファインプレーであっても、拍手を送れる私でありたいと思います。
そういう気持ちが、贔屓のチームを応援する以前に、スポーツを愛する気持ちだと思います。

2017年3月 9日 (木)

カニな私

 book

人は いつも裁判官
他人は有罪
自分は無罪

 cancer


あいつはキライ これはダメ
あいつは困る こいつはいいと切り続ける
私はどうも ハサミのようだ
 平野修先生

2017年3月 8日 (水)

ため息をつくときは、鈍感になっている

まったく、何の原因もなく、「はぁー」とため息をついた。
「何かあった?」と妻。
「え! 何が?」
「だって、今、ため息ついたから」
「あぁ、ごめん。まったく何もないよ」

うん、ホントに何もなくため息をついていた(のだと思う)。
ごめんね。 ため息って、横で聞いてて、いいものではないよね。

このブログの初期の頃、ため息をつきまくる私(その頃は、ホントにため息をしょっちゅうついてました。いろいろあったもので)に、先輩が「ため息ひとつで、幸せひとつ逃げちゃうよ^^」と声をかけてくれました。ありがたいことばでした。幸せを逃さないで済んだという話ではなく、私のことを見てくれている人がいるのだというありがたさです。

妻からの指摘を受けて、中野聡子さん(日本エレキテル連合)のエッセイを思い出しました。

58回。これは私が一日についたため息の数です。横で聞いていた相方がうんざりしてこっそり数えていました。 (中略) 私は一日に58回も隣にいる人を不快な気持ちにさせていたのです。これは芸人失格です。 (中略) そこで、ため息防止策として、ため息をつくたびに原因を書き留めていくことにしました。 (中略) (原因を)書いていったノートは、次のような単語で埋まっていきました。体重、花粉、汚部屋、茶渋、携帯画面バキバキ、カレー辛すぎ、暑い、寒い、靴擦れ。そうすると、今度はだんだんため息を意識するようになりました。そして、ため息をコントロールできるようになってきたのです。これでため息の数が日に日に減っていき、なんとゼロ回になったのです。 ため息をつかなくなって何が一番変わったかというと、ポジティブに物事を捉えようと試みる意識です。まだまだ全ての物事にそうはいきませんが、嫌なことがあっても自分を成長させるためと思うようになりました。レコーディングため息、おすすめですよ。 〔「東京新聞」 2017年3月4日(土)朝刊 「風向計」より〕

ため息は、横にいる人を不幸にしてしまいます。

2017年3月 7日 (火)

やっぱり誉められたい それなら、他者(ひと)を誉めればいい

物事が上手くいけば、私の手柄
失敗し、責められたら、みんなの責任

他の誰かが称賛されたら、実は私も手伝ったんだ
他の誰かが責任を追及されたら、だから言ったんだ

2017年3月 6日 (月)

腹黒いお腹にたまっているもの

与えた恩は忘れても 受けた恩は忘れるな

受けた恩はすぐに忘れるくせに、自分が「あなたのためを思って!!」してあげたことはいつまでも忘れないなぁ・・・

2017年3月 5日 (日)

聞こえてくる声

昨日の東京五組同朋会。報土寺の朝倉俊住職からお話をいただきました。
五組の教化テーマ「いのちの声を聞く」を講題として。

「生老病死」の「生」を「見」と置き換えて、「見老病死」のお話でした。
「見」とは、「体験する」ということ「感じる」ということ。
自身の老病死を見つめ、感じることを通して、「いのちの声に耳を傾ける」ということを、間もなく80歳になる生涯を振り返られました。そのことはつまり、次代 次次代を生きるいのちへの声なんだ、という想いで拝聴しました。

東京五組同朋会が立ち上がった頃からの歴史に身を添わせて生きてこられた住職。
近頃、五組の先輩たちの訃報や体調不良の話が立て続けにあり、無常なるいのちについて、強く感じておられました。
昨日、報土寺門前に掲示してあった法語をアップしました。
 
 道に出会い
 師に出会い
 友に出会う
 それがいのちに
 出会う人生である

まさにそのような人生であり、人生とは出会いであると、語られました。

お話の終盤に、大好きな詩、良寛さんの五言絶句を紹介してくださいました。

 担薪下翠岑
 翠岑道不平
 時息長松下
 静聞春禽聲

薪(たきぎ)を担いて翠岑(すいしん)を下る
翠岑(すいしん)の道 平かならず
時に息(いこう)う 長松(ちょうしょう)の下
静かに聞く 春禽(しゅんきん)の聲(こえ)

「春禽の聲」とはウグイスの声という意味です。山道を歩いていると、決して平坦な道ではありません。ときに大きな松の根元に座して、一呼吸おいて、また山道を歩む。その道中、ウグイスの声に励まされて、家へ帰ってゆく。「あぁ、今日も一日の仕事が終わった。ありがたいことだなぁ」という詩です。

時間を惜しみつつも、ご生涯のお話をしてくださいました。
生老病死の人生を経験され、見つめなおされ、こころに響いた漢詩。
 平坦ではない道。
 時にはひと休みすることの意義。
 休んだときに聞こえてくるウグイスの声。
それぞれ、人生における大切なことの譬喩なのでしょう。
平坦でない道(人生)で、ちょっと立ち止まったとき、聞こえてくる声は何でしょう? なんと呼びかけてくださっっていることでしょう?

朝倉住職ありがとうございます。南無阿弥陀仏

2017年3月 4日 (土)

東京五組同朋会2017

東京五組同朋会2017
真宗大谷派 東京五組同朋会2017
第一回 赤坂の報土寺にて
今年度の五組同朋会は、会場のご住職にお話をいただきます。
お話・朝倉俊住職
テーマ(五組テーマ)・いのちの声を聞く

2017年3月 3日 (金)

公人と私人

森友学園の問題で、安倍首相の答弁がしどろもどろですが、妻の昭恵さんに関する答弁の中で、「私は公人ですが、妻は私人です。妻をまるで犯罪者扱いするのは極めて不愉快だ」というようなものがあった。

森友学園関係の事実関係や、昭恵さんが公人か私人か、といったところの問題は、今は国会に任せておいて、安倍首相の「私は公人ですが、妻は私人です」云々の発言を聞いたときに憤りに近い違和感を覚えました。
「私人」をかばう気持ちがあるのであれば、どうして世間の人々に対する思いやりがないのだろうと・・・。

かつて自民党のある議員が、母親が生活保護の不正受給を疑われる漫才師を、名前を上げて国会で責め立てたことがありました。世間的に名前が知られているタレントさんといえど、私人でしょう。その私人・個人の名前をあげて、不正受給の疑いがある!って。 その後、その漫才師さんは、しばらく仕事を干されませんでしたっけ? 最近、たまにテレビで見られるようになって良かったと思っていました。
制度の不備を問うことなく、私人の名前を上げて、私人を攻撃して、あたかも自分は議員としての仕事をしている風にしている。

安倍首相が、私人への攻撃を許さないと仰るのなら、某議員さんが私人の名を上げたときに、「ちょっと、名前を上げるのはよくないよ」と、制止してくださらなかったのか。その場にいたかいなかったかは分かりませんが、「あの報告の仕方はよくないと思います」ということを言うこともできたはず。

つまり、私人(「日本国民」というと、また別の意味で恐ろしいことだし、「庶民」も違う気がするので「私人」のままで)を守る気持ちが全くなく、自分の妻・・・のことのようだけど、自分自身が追求されていることにイライラして発したのだろうな、と。

「私は公人ですが、妻は私人です。妻をまるで犯罪者扱いするのは極めて不愉快だ」というセリフを聞いて、ちょっと待ってよ!と感じました。
あ、靖国神社を参拝するときに「私人として玉串料を納めた」というように、公人と私人のことばの使い分けをされるのも、いかがなものかと思います。

2017年3月 2日 (木)

教えられ、育てられる

昨日は、「3月の掲示板のことば」として、娘が幼稚園で歌っている歌の歌詞を掲示しました。
「良い歌ですね」というコメントをいただいたりしました。短く温かい表現で、しかも子どもたちのまっすぐな歌声で歌われたら、感動してしまいます。

で、いろいろと思うところがあります。今、園児たちに教育勅語を暗唱させている幼稚園のことが話題となっています。
園児たちは、自分の判断で「これは良い言葉・歌ですね」「この言葉・歌にはこ賛同できません」などと判断・主張することができません。先生や親が言うがいうがままに、元気よく、まっすぐな気持ちで暗唱・歌唱してくれます。先生や親に誉められると嬉しいな♪って思いながら。
それだけに、先生や親は、子どもに伝えることばに対して熟考しなければいけません。何を伝えるにしても(教育勅語にしても、他のことばにしても)、先生や親、その人自身の主張を伝えることになります。それだけに、多面的に物事をみて、いろいろなことを考え、同時に相手の声に耳を傾けることを心がけなければいけません。それが大人なのかもしれません。(そう考えると、そこまでできる大人って、そうはいないから、だからあのような幼稚園の運営も可能だったのかもしれません)。

保育園も幼稚園も学校も、それぞれの運営方針・教育方針があるはずです。それをハッキリ表に出して、入る側もそれら方針にキチンと目を通し、出来ることなら そこに通う保護者の声・意見も聞けるといいですね。
その上で、そこの方針と合うならば、お世話になればいい。とはいっても、今は保育園・幼稚園を選べる状況ではないですものね。仕方なく通園させている方もいるかもしれませんね。
そういう意味で、「教育勅語」を暗唱させていて、それが入園前から分かっているのなら、選ぶことはできると思いますが。

「教育勅語」は、サラッと読むと、「親孝行しましょう・兄弟仲良くしましょう。夫婦仲良くしましょう。友だちとは仲良くしましょう・・・」と読めます。「なんだ、良いことが書いてあるんじゃないか」と思う保護者もいることでしょう。
しかし、戦前に、国のために国民はあるということを主導しようとしたことばであり、思想統制の背景があることばです。そもそも「勅語」とは「天皇のおことば」です。つまり、「天皇(天皇制)を中心に、国作りのための教育をせよ」という(明治天皇)のことばになります。耳障りの良い言葉が並んだ最後に、教育勅語では「正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう」とあります。天皇のおことばとして、「国のための真心を尽くしましょう」。戦前に教育勅語が学校で朗読されていた。敗戦後にGHQ「連合国軍最高司令官総司令部」が「教育勅語」の朗読と神聖化を禁止したのも頷けます。
現代、問題となっている学園の園長・副園長は、中国・韓国嫌いとして報道されています(教育勅語の中に「広く全ての人に愛の手をさしのべましょう」とあるんですけどね)。中国や韓国は嫌い・天皇勅語を暗唱させる・国のための真心を尽くしましょう・・・愛国心の植え付けをしているのですね。愛国は、他者排斥につながります。

子どもたちをどれだけ大切に想っているのか。子どもたちに何を伝えたいのか。子どもたちと共に生きたいのか。
教育は、私自身が教えられ、育てられていくこと。自分の主義主張を押し付けることではありません。

2017年3月 1日 (水)

2017年3月のことば

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きみとぼくの間に
たんぽぽを咲かせよう

(『きみとぼくの間に』作詞・作曲 柚梨太郎)

次女が通う幼稚園の「ひなまつり会」。園児たちの合唱がありました。幼稚園の園歌と、『きみとぼくの間に』という曲を歌ってくれました。ホール全体に響き渡る元気いっぱいの歌声でした。一生懸命に歌う姿が素敵でした。幼稚園のみんな、ありがとうございます。

人と人とが仲良しでいるためには、間に入る何かが必要です。美しい花や絵や景色を見ると、話が弾みます。食事やお酒があれば、一人で食べるよりももっと美味しくなります。目標や夢や希望が同じなら、たとえ水と油な性格どうしの者でも、相手を認め合うことが出来ます。一人ならサッサと諦めてしまうことでも、子どものためなら共に手を取り合ってがんばれます。病気や怪我で困っている人がいたら、私の中に眠っている優しさが引き起こされて、周りのみんなと協力し合えます。
きみとぼくだけだったら、手を取り合うことはないかもしれない。でも、間を取り持つ何かのおかげで、相手を認め合い、笑顔という花が咲きます。きみとぼくとのつながりから、世界のみんなへと、つながりは広がっていきます。

それなのに、「自分の方が優れている」「自分の方が頑張っているんだから、より良い結果に恵まれて当然」なんて想いが湧いて出て、目の前にいる人を敬うことが出来ません。間を取り持ってくれている何かにケチを付けてしまう始末です。誰であろうとも、どこの人であろうとも、人と人とは出会えるし分かり合えるはずなのに、私自身がそれを許しません。
「誰とでも仲良く」「他者(ひと)を敬いましょう」「みんな同じ人間です」「みんな大切ないのちです」などということを言うと、「現実味がない」「平和ボケしている」「本当にそんなこと言えるのか!」などと揶揄される悲しい時代になってしまいました。でも、子どもたちは、周りにいるみんなを友だちとして受け入れ、誰とでも遊びます。一緒に大きな声で歌えます。大人が端から出来ないと決めつけている物事を、子どもたちはすんなりとやってみせてくれています。子どもたちは、教育してあげる対象ではありません。子どもたちの姿から、大人は学ぶことがたくさんたくさんあります。


きみとぼくの間に (作詞・作曲 柚 梨太郎)

きみとぼくの間に
たんぽぽを咲かせよう
わた毛 吹き飛ばし
だけど たんぽぽだけじゃ
ちょっぴりさみしいから 
もうひとつ咲かせよう
ひまわりの花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に
ひまわりを咲かせよう
おひさまの下で
だけど ひまわりだけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
コスモスの花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に 
コスモスを咲かせよう
おひさまの下で
だけど コスモスだけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
ほほえみの花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に
ほほえみを咲かせよう
おひさまの下で
だけど ほほえみだけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
愛の花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に
愛の花咲かせよう
おひさまの下で
でも 愛の花だけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
もうひとつ咲かせよう

 cherryblossom cherryblossom cherryblossom

掲示板の人形
3月ですね。お雛祭りの人形です。
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