« 実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。 | トップページ | 2017年3月のことば »

2017年2月28日 (火)

「衆生(しゅじょう)よ!」・・・すべての生きとし生けるものよ!

昨日の投稿のタイトルに「実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。」と書きました。
昨夏、相模原の施設で起きた出来事を、事件を起こした彼だけの問題と捉えたくなかったからです。事件を起こした理由とされている「重度障害者は、周りに迷惑をかけるだけ。誰もやれないから、俺がやった」ということばに対し、「人を殺すことは良くないことだけど、理由は理解できる」という意見もありました。その意見も、私のこころの片隅にこびりついていて、それもあって、昨日のタイトルを付けました。ただ、相模原の事件だけを指してのことではなく、私たちは、自分にとって気にくわない人・気が合わない人には、嫌悪感を抱きます。「一緒はいやだな」「どっか行ってくれないかな」「死ね」など。そんなことを考えることも、人の存在を認められないという意味において、その人を殺していることと同じだと思うのです。「死」とか「殺」という字が出ると、極端な物言いをしているように受けとめられるかもしれませんが。
そのように、実際に手を汚さなくても、私たちは想いの中で他者(ひと)を認めていない部分があります。仏陀のさとりは、「人間が内面に思ったこともすべて、実行したことと同じ重さの罪である」というところにあります。親鸞聖人が「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が往生できるのだから、悪人が往生できるのは言うまでもないことです)」と仰ったのも、世の中には善人と悪人とがいるわけではなく、誰もが悪人である(つまり、誰もが阿弥陀の救いの対象である)という確信があってのことだと受けとめています。

だから、「実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。」って、一般の方々が聞けば納得できない、受けとめがたいことばだと思いますが、私としては、「あぁ、これが仏陀の教えであり、その教えに救われた親鸞聖人の教えの根っこにあるんだ」と、親鸞聖人の教えを聞き続けていこうと根性の座った真理なのです。

前置きが長くなりました(前置きなの!?)。
昨日の投稿を読んでくれた妻から、「最初タイトルを読んだとき、“共謀罪”について書いているのかと想った」と言われました。
共謀罪が成立し施行されると、実際にテロ行為を起こさなくても、話し合った段階で逮捕されます。つまり、「頭の中で考えた者も、罪としては同じ」なのです。それゆえに、タイトルを読んで「共謀罪」について書いたのかな?と妻は想ってくれたのでしょう。
たまたま数日前に「共謀罪」について書きましたが、政府は「一般人は対象としない」などと初めは言ってましたが、「一般人も含まれる」旨述べ始めました。それもそうです。結果的にテロ行為を犯してしまっても、誰もが一般人・民衆なのですから。線引きなどできないのです。善人と悪人とが分けられないように、テロリストと一般人も、生活において分けられないのです。今は不平不満なく生活していても、ひとつ事があれば、ひとつ気にくわないことが起れば、たちまち不平不満やいかりいらだちに包まれる私です。
事件を起こした人、テロを起こした人は特殊な人間で、何もしなかった人は普通の人間。ってことはないのです。何もしなくっても、頭の中で何か考えなかった? うん、いろいろ思うところはあるよね。うん、それもさ、同じ罪として受けとめることも大切じゃないかな。

相模原の事件を、特殊な人間が起こした、特殊な事件。というところに留めたくなかったのです。

« 実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。 | トップページ | 2017年3月のことば »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。 | トップページ | 2017年3月のことば »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ