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2017年2月

2017年2月28日 (火)

「衆生(しゅじょう)よ!」・・・すべての生きとし生けるものよ!

昨日の投稿のタイトルに「実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。」と書きました。
昨夏、相模原の施設で起きた出来事を、事件を起こした彼だけの問題と捉えたくなかったからです。事件を起こした理由とされている「重度障害者は、周りに迷惑をかけるだけ。誰もやれないから、俺がやった」ということばに対し、「人を殺すことは良くないことだけど、理由は理解できる」という意見もありました。その意見も、私のこころの片隅にこびりついていて、それもあって、昨日のタイトルを付けました。ただ、相模原の事件だけを指してのことではなく、私たちは、自分にとって気にくわない人・気が合わない人には、嫌悪感を抱きます。「一緒はいやだな」「どっか行ってくれないかな」「死ね」など。そんなことを考えることも、人の存在を認められないという意味において、その人を殺していることと同じだと思うのです。「死」とか「殺」という字が出ると、極端な物言いをしているように受けとめられるかもしれませんが。
そのように、実際に手を汚さなくても、私たちは想いの中で他者(ひと)を認めていない部分があります。仏陀のさとりは、「人間が内面に思ったこともすべて、実行したことと同じ重さの罪である」というところにあります。親鸞聖人が「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が往生できるのだから、悪人が往生できるのは言うまでもないことです)」と仰ったのも、世の中には善人と悪人とがいるわけではなく、誰もが悪人である(つまり、誰もが阿弥陀の救いの対象である)という確信があってのことだと受けとめています。

だから、「実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。」って、一般の方々が聞けば納得できない、受けとめがたいことばだと思いますが、私としては、「あぁ、これが仏陀の教えであり、その教えに救われた親鸞聖人の教えの根っこにあるんだ」と、親鸞聖人の教えを聞き続けていこうと根性の座った真理なのです。

前置きが長くなりました(前置きなの!?)。
昨日の投稿を読んでくれた妻から、「最初タイトルを読んだとき、“共謀罪”について書いているのかと想った」と言われました。
共謀罪が成立し施行されると、実際にテロ行為を起こさなくても、話し合った段階で逮捕されます。つまり、「頭の中で考えた者も、罪としては同じ」なのです。それゆえに、タイトルを読んで「共謀罪」について書いたのかな?と妻は想ってくれたのでしょう。
たまたま数日前に「共謀罪」について書きましたが、政府は「一般人は対象としない」などと初めは言ってましたが、「一般人も含まれる」旨述べ始めました。それもそうです。結果的にテロ行為を犯してしまっても、誰もが一般人・民衆なのですから。線引きなどできないのです。善人と悪人とが分けられないように、テロリストと一般人も、生活において分けられないのです。今は不平不満なく生活していても、ひとつ事があれば、ひとつ気にくわないことが起れば、たちまち不平不満やいかりいらだちに包まれる私です。
事件を起こした人、テロを起こした人は特殊な人間で、何もしなかった人は普通の人間。ってことはないのです。何もしなくっても、頭の中で何か考えなかった? うん、いろいろ思うところはあるよね。うん、それもさ、同じ罪として受けとめることも大切じゃないかな。

相模原の事件を、特殊な人間が起こした、特殊な事件。というところに留めたくなかったのです。

2017年2月27日 (月)

実際に罪を犯した者も、頭の中で考えた者も、罪としては同じなのだと想います。そういう重さを背負って生きています。

海老原宏美さんの寄稿を読んで、(2月25日)朝から感動していました。
障害をもった方が、どうして差別され、「生きる価値がない」「迷惑をかける」という目で見られるのか。
障害をもった方に限らず、どうしてこうも排他的な世の中なのか。
海老原さんの寄稿にある
「ただそこに静かに存在するだけの人間にその尊厳を見いだすことも、人間だからこそできるはずだ。」
そういう尊厳を見いだす感覚が、今、希薄なのかもしれない。
また、
「貢献度の低い重度障害者を切り捨てれば、次は高齢者が貢献していない存在になる。」
とも語られている。
内容はどうあれ、価値の有無で人間を見ると、優れた者とそうでない者、必要がある者とそうでない者などを生み出してしまう。分かっているのだ。自分より下位の存在が必要であるということは。下位に位置付けられる者は排除される、自分はそうはなりたくないという想像力ばかりが膨らみ、排除される者への想像力は欠如している。それゆえ、ヘイトスピーチが声高に叫ばれるのではないだろうか。
海老原宏美さんの寄稿を、ひとりでも多くの方に読んでもらいたくて、投稿します。本当はよくないことなのかもしれませんが、私の選びで抜粋するのも失礼だと思い、「東京新聞」に掲載された全文を投稿させていただきます。


障害者の自立を支える 海老原宏美さん寄稿

 事件を知った時、被害に遭われた方々の恐怖と無念を思えばどこまでも気持ちが沈んだ。けれど、事件が起きたことに対して大きな衝撃は感じなかった。
 障害者は生まれた瞬間から差別されている。「社会に必要ない」「周りに迷惑をかけるだけ」「生きていてもかわいそう」と、常に排除、隔離、区別されていると思うからだ。
 働いて税金を納める。そんな「健全な」人間を産み育てられるような「生産性」こそが社会貢献だとする。そして、より貢献している人間に、より分配されるべきだという「分配原則」。それらが障害者差別の社会的価値観を作る。
 貢献度の低い重度障害者を切り捨てれば、次は高齢者が貢献していない存在になる。高齢者を切り捨てれば次は病弱者・・・。どんなに切り捨てても、また新たな社会的弱者が生まれる。
 切り捨てた側の人間も、「次は自分が切り捨てられるのでは?」と、おびえる。常に社会の顔色ばかり気にして、自分らしさを出せずにどんどん追い詰められていくに違いない。
 人の価値というのはどのように決まるのか。
 私は、「価値のある人間と価値のない人間」という区別や優劣があるとは思っていない。ただの木にすぎない縄文杉を見て感動できるのは、人の心が価値を創り出しているからだ。
 価値を創り出すという能力は、唯一、人間にのみ与えられている。そう考えるとき、ただそこに静かに存在するだけの人間にその尊厳を見いだすことも、人間だからこそできるはずだ。それができなくなった時、相模原であったような悲惨な事件が起ってしまうのではないだろうか。
 存在するだけで社会に「価値とは何か」を問い続ける。そんな重度障害者は、存在しているだけで社会に大きく貢献しているとは言えないだろうか。
 やまゆり園の事件の被告が、十九人の尊い命を奪った罪は大きい。しかし、これを「特殊な人間が起こした特殊な事件」「えたいのしれない人間は隔離するべきだ」と片付けてしまっては、社会が重度障害者に何の価値をも見いだそうとせず、施設や病院に押しやってしまっているのと同じではないだろうか。
 (新出生前診断で染色体の異常が確定した)障害胎児の95%近い中絶率を容認する現状は、被告の主張とも共通する価値観から来ていないだろうか。今こそ自分たちの価値観と向き合い、この事件を自分事として引き受ける必要があると思う。

海老原 宏美(えびはら ひろみ)さん
1977年、神奈川県出身。脊髄性筋萎縮症で人工呼吸器を24時間使って自立生活を送る。NPO法人「自立生活センター東大和」で障害者の権利擁護活動に励む。映画「風は生きよという」(2015年製作)に出演。人工呼吸器で命をつなぎ、地域の障害者の自立を支える活動が評価され、本年度の都女性活躍推進大賞を受賞。 
-〔「東京新聞」 2017年2月25日(土)朝刊より〕-


2017年2月26日 (日)

人知れず 表現し続ける

2017年2月25日(土) Eテレにて 23:00~0:00 放送
ETV特集「人知れず 表現しつづける者たち」視聴

正規の美術教育を受けていない人々が創る独創的な美術作品=アール・ブリュット。日本各地の作家たちの暮らしと創作の現場に分け入り、作品がもつ圧倒的な力の秘密に迫る。

「アール・ブリュット(生の芸術)」正規の美術教育を受けた経験のない人々が創る、何ものにもとらわれない独創的な美術作品のことで、近年世界的に注目が集まっている。担い手の中には知的障害や精神障害のある人も多く、作品はなかなか世に出てこないが、圧倒的な迫力に満ちている。誰のためでもなく、黙々と表現し続ける人たちが放つ凄(すご)み日本各地の作家たちの暮らしと創作の現場に分け入り、作品がもつ力の源泉に迫る
(NHKホームページより)

表現したものは、「評価されたい!」「誰かのこころに響かせたい!!」などという想いが湧いてしまう。
けれど、彼らは違った。表現したいから表現しているのだ!!
あれ?私も、表現したいから表現していただけのはずなのに。自分の中のひっかかりは、反応を求めていた故なのだろうか。
テレビに映っていた作品と、和かな彼らの表情が、なんとも言えず、いいなぁ・・・
「人知れず 表現しつづける者たち」というタイトルにも、惹きつけられました。
 

2017年2月25日 (土)

ネコの手も借りたい(いえ、借りている)

宅配便大手のクロネコヤマト運輸が、宅配便の扱い量を抑えることを検討されています。
ネット通販の拡大により、取扱量が増えたためです。昨年(2016年)度は、前年比8%増の18億7000万個の荷物を運んで下さったそうです。その数も膨大ですが、不在の場合何度も配達に伺っていることを考えたら、配達量はさらに増えます。
クロネコさんに限らず、宅配をされている方々の姿を見ると「ありがとうございます」と、こころの中でつぶやいています。
数日前、通販大手のアスクルの倉庫で火災が発生しましたが、あそこでも、「明日来る」ように注文の品を振り分け出荷してくださっている方々がいます。
ネットのおかげで、買い物が楽になりました。しかし、その背景には、宅配業の方々、ネット通販の品々を振り分け発送してくださる方々が、一生懸命働いてくださっています。
便利の背景には、汗水垂らして働いてくださっている方々の御苦労があることを痛感します。
せめて、荷物の重みを感じられる私でありたい。

2017年2月24日 (金)

誰もが対象

「共謀罪」と同じ趣旨で創設を目指す「テロ等準備罪」について、政府は「一般人は対象外」と答弁するけれど、
テロを起こす人も、「共謀罪」を作って政府に抗う者を捕まえようと考える政治家も、結果的にテロリストになったり政治家になったりするだけであって、元々は誰もが一般人。
「一般人は対象外」な線引きができる事柄ではない。
誰もが皆一般人であることを忘れてはならない。

「テロ等準備罪」(「共謀罪」)に対する危惧もあるけれど、日本に死刑制度があることの恐ろしさがある。
死刑制度の廃止を訴えると、「家族を、身内を殺された者の気持ちが分からないのか!」という論調で批判される。しかし、死刑廃止論者が、「たとえ身内を殺されても、罪を犯した者を許せる」と言っているのではない。死刑廃止論者だって、やりきれない想いを背負って、それでも尚死刑は廃止すべきだと訴えているのです。
しかし、死刑廃止・存続の、こんにちに至るまでの議論は、自分が誰かを殺す(自分が誰かに殺される)という当事者としての感覚は欠如していると思います。もちろん、当事者感覚を持って考え、主張している方もいますが。

何が言いたいのか・・・「テロ等準備罪」(「共謀罪」)が成立すれば、あらぬ疑いをかけられて、誰もが捕まる可能性を生み出します。権力者にとって気にくわない者、やっかいな者を。そして、どのような刑に処されるのか。その選択肢として、死刑があります。
幸徳秋水らが処された大逆事件のようなことが、また起こってしまうのではないかと危惧しています。
決して他人事ではないことが、今進んでいるのです。

2017年2月23日 (木)

バトンタッチ

金沢へは、西蓮寺が所属する真宗大谷派東京教区東京五組副住職の旅行会で出かけました。
金沢のお寺さんから、東京五組内のお寺にお婿さんに来てくだった方がいます。せっかくご縁をいただいたのたからと、彼が生まれ育ったお寺にお邪魔させていただきました。
副住職の旅行会を卒業する人もいて、その人の卒業旅行も兼ねての金沢旅行でした。
年齢的に、私の卒業も間もなくです。でも、若い僧侶たちが、教えに出会い、教えを伝えていこうと、それぞれの場において頑張っています。頼もしく想っています。時代は、確実に移り変わります。
「私がいなければ、どうなるか分からない!」なんて言う人もいますが、大丈夫。そう言う人がいなくても、現場に身を置く人は、ちゃんと頑張りますから。
ホッとした旅行会でした。
さようなら、金沢👋

2017年2月22日 (水)

養楽寺さま参拝

津幡町 養楽寺さま参拝
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本堂に貼ってあった、平野修先生の法語

悲しいことに
善いことをしていると思うだけで
口が大きくなって
 ひとを呑み込んでしまう

2017年2月21日 (火)

金沢探訪

【真宗大谷派 金沢別院】
正面の三角形は、屋根から落ちてくる雪よけです。
お参りさせていただいたときは、雪は積もっていませんでしたが、雪が積もっているときは、屋根から落ちてくる雪をよけるため、この三角形の下を通ります。
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【兼六園】
学生時代にも訪れましたが、40も半ばになって訪れると、感じ方も違います。
きれいな庭園です。
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【のとじま水族館】
水槽の前に、コタツを用意してくださっていました。
ゆっくりと見学できます。
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【曹洞宗 總持寺祖院】
總持寺のご本山は、1911年に横浜鶴見に遷るまでは、石川県の輪島にありました。
きらびやかな本堂でした。
2007年に発生した能登半島地震で被害を受け、現在も修復中でした。
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【輪島 朝市】
辿り着いたのが遅めだったので、ほとんどの市が店じまいをしていました。
でも、雰囲気を味わうことはできました。
金沢は、食べ物が美味しいですね
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2017年2月20日 (月)

真実(阿弥陀)

「Alternative facts」(もうひとつの事実)
トランプ大統領の就任式の際、過去最低の観衆だったという報道。それに対し、アメリカ合衆国大統領顧問ケリーアン・コンウェイが、「過去最高の観衆だった」と報告。その際、「Alternative facts」(「もうひとつの事実」がある)と発言。
自分たちの不利になる報道・発言・情勢に対し、そういうものの見方をする人もいるかもしれないが、「Alternative facts(もうひとつの事実)!」があると、別の視野での報告をする。
ケリーアン・コンウェイ氏の発言に対し、マスコミは「それは事実ではなく、虚偽だ!」と問いただし、ネット上でも多くの人々が、「Alternative facts(もうひとつの事実)」発言を嘲笑している。
トランプ大統領の就任式は、確かに観衆が少なかったかもしれない。しかし、それは現場にいる人しか分からない。現代(いま)、ちょっと勉強して身につければ、誰もが写真を加工したり、映像を入れ替えたりすることができる。トランプ大統領就任式の写真とオバマ氏のそれとが比較されたが、ハッキリ言って、それらが正しい写真なのか否か、そこに写真を用意した人間にしか分からない。写真に観衆を足したり引いたりすることもできる。写真をいじくってなくても、ふたつの写真を入れ替えることもできる。
数年前までは、ネット上では正しいことを載せなければ。伝えなければ、という雰囲気があったように感じている。
丁寧にネットでいくつかの情報を拾い上げれば、ホントかウソか、すぐ分かった気がする。しかし、今はそうではない。今は、自分の主張を通すために平気で嘘を書き、画像・映像を修正する。しかも、それを本当のことと受けとめ信じ、シェア拡散する人もいる。虚偽の内容に陶酔し、ヘイトスピーチが氾濫してもいる。そこまでくると、嘘か事実化は関係ないのだろう。自分が嫌だと感じるものに対しては、虚偽内容であっても、自分の事実をかぶせる。(自分が好きなものに対しても同じか)。嘘が広まるのに、時間はかからない。

今は、あからさまな虚偽に対して「Alternative facts(もうひとつの事実)発言だ。見え見えのウソをついて、バカだなぁ」happy01と言って笑い話で済むかもしれない。しかし、これからは何が事実で何が虚偽か分からないときがくるだろう。そのような情報に、人々は流され、信じ込み、人と人とが傷つけあってしまう。
あぁ、そう想うと、武器を使うまでもなく、人と人とは分断させられてしまう。

事実は、ひとの想いや見方で変わる。
変わらない真実がある。
真実によって、私たちは守られている。
事実か もうひとつの事実かで争っている私たちを、真実は悲しみ 守りたいと誓い願っています。南無阿弥陀仏

2017年2月19日 (日)

戦争の卵

愛国心という卵から、戦争が孵化する
モーパッサン

人類から愛国心を叩き出してしまわないかぎり、あなたがたは決して平穏な世界を持たないだろう。
バーナード・ショー

2017年2月18日 (土)

想いや愛情は、消えない

ミッフィーの生みの親、ディック・ブルーナさんが、2月16日に亡くなられた。
子どもたちも好きだし、私も子供の頃は、あのハッキリした色彩の絵本を見ていました。
東日本大震災の際、涙を流したミッフィーの絵と共に、メッセージを送ってくださった人柄に、子どもたちへの愛情を感じます。

テレビでは、ブルーナさんが亡くなられた報道が目立ちますが、
新聞を読んでいると、2月9日に、佐藤さとるさんが亡くなれた記事も載っています。
小人の世界を描いた「コロボックル物語」のシリーズを書かれた方です。

子どもたちのことを想いながら作品を描かれた方々が旅だって往かれます。
淋しいですが、想いや愛情そのものが消えるわけではありません。
これからも、ミッフィーやコロボックルと一緒です。
ありがとうございます

2017年2月17日 (金)

生きている証

傷ついたのは、生きたからである。
                 高見 順(小説家)

「傷ついた」と、気持ちが沈んでいる私

しかし、私が誰かを「傷つけた」ということをこころに留めることは、ない

私が「傷ついた」と、あの人は気付いてもいないだろう

誰かを「傷つけた」と、私は思ってもいないだろう

2017年2月16日 (木)

初めての体験

13日(月)は皮膚科
14日(火)は整骨院・眼科・内科
15日(水)は歯科
私(副住職)、年相応に老化していますhappy01

和田稠(しげし)先生のことばが思い出されます。
「年をとると、足が曲がらなくなってね、耳が遠くなってね、おもしろいねぇ!」

“おもしろい”ことですか? と、突っ込みが入りそうですが、先生は仰いました。

「はじめての体験だからねぇ。足が曲がらなくなると、こんな生活になるのか。耳が遠くなると、こういう思いをするものなのか。はじめて分かりました。日々新しい体験をさせてもらっています。おもしろいねぇ!」

いのちの自然を感じてのおことばだったのだと思います。
先生のことばを、今、噛みしめていますconfident

2017年2月15日 (水)

上から目線の教育

2月14日、文部科学省が次期学習指導要領の改定案を公表した。
小中学校の国語で語彙の指導の充実が明記された。
pencil
語彙の指導・・・語彙は、身につけていくもので、指導するという感覚が気持ち悪い。
読書離れが進んでいると言われて久しいけれど、読書するべき読み物は巷に溢れている。SNS環境の充実は、自分の想いを表現する場に広がりがあることを示している。決して、人が他者(ひと)を誹謗中傷する場ではない。
読み物があり、発信する場がある。語彙を身につけるためには、恵まれた環境にあると思う。
指導の押しつけは、嫌悪感の押し付けになりかねない。
そもそも、語彙を美しく使える大人が少ないのだから、子どもが、語彙(ことば)の美しさに感動し、たくさんの語彙(ことば)を覚えたいと思うはずがない。
国の防衛を司る責務にある人が「戦闘」を「武力衝突」に置き換えようと腐心したり、国の法務に携わる人が、「共謀罪」の説明に右往左往している姿をみて・・・あ、だから語彙の指導を充実させようと文部科学省は考えたのだろうか!
まぁ、語彙を巧みに使い操り、ことば巧みに国民を騙すよりはいいか。

本を読む時間を大切にしたり、本の紹介をしたり、それだけでも充分語彙を学ぶきっかけになると思います。

2017年2月14日 (火)

大地にふれる 他力にふれる、大地に立つ 自力の限界に立つ

「月刊 同朋」2017年1月号(真宗大谷派宗務所発行)より

巻頭インタビュー 菅原文子さん(辺野古基金共同代表) 農業をやってきてよかったと思うのは、命と自然に対して謙虚になれたこと。人は自由に生きられるけど、自然だけは人間の勝手にはなりません。そして、地面に膝をついて農作業をすることで、人は自然に対する謙虚さを学ぶのです。大地にひざまずき天を仰ぐことは、祈りの原点じゃないかしら。その姿勢を忘れたことが、日本人を変えてしまったのかな、と思います。

book

特別企画「仏教ってなんだろう?」 古田和弘先生(九州大谷短期大学名誉学長) 人間は、もともと自然の一部として生きているはずですよね。ところがいつの間にか自分を自然から切り離して「人間対自然」という関係をつくってしまい、自然を利用しようとか、都合のいいように改良しようとか、不都合なものはなくしてしまえとか、厚かましいことを考え始めたわけです。 (中略) 自分の思いを超えた世界に対する畏敬の念が欠如しているために、現代は混乱が大きくなっていると思うのです。

上記の「月刊 同朋」や「真宗」など、複数の人の執筆やインタビューが掲載されているものを読んでいると、その一冊の中で、内容がリンクして聞こえてくることがよくあります。
違う人が語っていても、見出しやテーマは異なっていても、不思議と大切なところが重なります。そんなことを感じると、全編がひとつの小説のように読むことが出来ます。
「月刊 同朋」2017年1月号も、ワクワクした読み応えがありました。

2017年2月13日 (月)

ウキウキというよりドキドキ

2017年2月13日(月)
朝、テレビをつけたら、TBSテレビ「あさチャン!」で長崎の眼鏡橋のことを特集していました。
眼鏡橋のことというより、眼鏡橋護岸の石壁に、ハート型の石(ハートストーン)が埋め込まれているとの情報でした。
heart
1982年(昭和57年)7月23日に長崎大水害が発生し、中島川の石橋群も被害を受けました。その修繕の際に埋め込まれたとのこと。昭和57年すぎの頃に、そんな洒落たことを考えてくださる方がいたのですね。
その水害を経験したもので、水害から復興の様子を、小学校の夏休みの自由研究で2年に亘って追いましたが、ハートストーンのことは知りませんでした。有名なスポットだそうですね。
heart
「あさチャン!」の後、NHK[あさイチ」をつけたら、「老いた親の恋愛・結婚」がテーマでした。

いくつになっても、さまざまな経験を積んできても、いろいろな人を見てきても、恋に陥ると理性や常識を失うものなのですね。恋をするならば、恋するふたりだけの話ではないので、周りの人のことも考えて恋をしましょうgood
heart
ふたつの番組、ハート ネタでした。
常々思っているのですが、「heart」の形って、立体デザイン的にかなり不自然な形ではないでしょうか。
頭ふたつの膨らみが重すぎて、落ちてしまいそうです・・・heart03
ハートがこんな形heartなのは、恋や愛って、それだけ負荷がかかるものだということを表わしているのではないかsign01

朝からそんなこと考えてましたhappy01

2017年2月12日 (日)

「それはいけないことですよ」という勇気

未成年者にお酒を提供すると、お店は罰せられるし、一緒に吞んでいる人(呑ませた人)も罰せられる。
車の運転をする人が飲酒していることを知っていて同乗した場合、飲酒運転手も同乗者も罰せられる。

それならば・・・
あるタレントが、未成年の女性との交友関係のことで写真週刊誌にスクープされ、現在芸能活動を自粛している。未成年の女性との交友関係にあることを知っていて、スクープ写真を撮るために待ち構えていたのであれば、そのことも罰せられる行為ではないだろうか?
写真を撮らずに、「あなた、今いけないことをしていますよ」「今はまだ年齢に達していませんよ」と声をかけなければ、制止しなければいけなかったのではないだろうか?

そんなことを思いました。

2017年2月11日 (土)

おふたりに遇えて良かった^^

あるご門徒の13回忌法要をお勤め致しました。
13回忌・・・もう12年経つのかぁ

寺に入って間もない若造の私にさえも、背筋を伸ばして、挨拶してくれて、お話をしてくださいました。
お育てをいただいているなぁと感じたものです。

ある年の、暑いお盆の時期
お中元でいただいたお茶やジュースやビールを冷やして、大きな洗面器に氷柱と一緒にいれておきました。お盆のお墓参りにみえた方々に、「ご自由にお飲み下さい」と書いて。
楽しそうな声がするので、テントを見てみると、その門徒さんと、もうひとり別の門徒さんが、ふたりで仲良くビールを飲んでいました。
もうひとりの、その門徒さんも、いつも私に声をかけてくださったなぁ・・・
おふたりは意気投合して、楽しそうに話をしていました。聞くと、初めて会ったとのこと。同じ境内墓地にお墓があっても、そこで出会うこと、挨拶を交わすこと、お話をすることは、稀のまた稀です。そんな中で、ふたり気が合い、話が盛り上がる。そのときの光景が、目に焼き付いています。

不思議なことに、数年後、同じ年におふたりは阿弥陀さまのお浄土に還られました。
あぁ、ということは、○○さんの13回忌も間もなくなのですね。

人と人とが出会うことが どんなに稀なことで、どんなに大切なことか、あの夏の暑い一日のことをたまに思い出します。ほんの数年前の出来事のように。
お供え物であがった日本酒を、今晩いただきます。
おふたりのことを思い出しながら。南無阿弥陀仏 

2017年2月10日 (金)

大海の一滴

大海の一滴の水は、自ら意識することはありませんが、母体の広大さに参与しているのです。
ところが一滴の水が、大海を離れて存在を主張しはじめると、たちまちにして蒸発してしまいます。

(『獄中からの手紙』 ガンディー)

私は、すべての生きとし生けるものの中の、ほんの一滴にすぎません。
一滴一滴がより集まって、いのちを形成しています。
いらない一滴 不必要な一滴 敵となる一滴など、本来いません。
一滴の私でありながら、私は大海でもあるのですから。

気にくわない一滴の排除は、やがては自分自身の排除にもつながります。
そして、ひとりぼっちになってから気付くものです。
あぁ、私はひとりで生きていたんじゃないんだ・・・。

大海原の水が蒸発しきってしまうことはありませんが、一滴の水はたちまちに蒸発してしまいます

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NHK Eテレ「100分de名著」
2月の名著は「獄中からの手紙」(マハトマ・ガンディー著)です。
お話 中島岳志先生(東京工業大学教授) 
 第1回 2月6日放送 政治と宗教をつなぐもの
 第2回 2月13日放送 人間は欲望に打ち勝てるのか
 第3回 2月20日放送 非暴力と赦し
 第4回 2月27日放送 よいものはカタツムリのように進む
  NHK Eテレにて毎回午後10時25分~50分放送

2017年2月 9日 (木)

ご家庭にひとつ手を合わせる場所を、一日のうちほんの数秒でいいから手を合わせる時間を

昨日、「西蓮寺聞法会」を開催致しました。
真宗の荘厳(お飾り)に則ったお内仏(お仏壇)を前にして、お内仏についてのお話。
すぐに話し終えてしまうかな、残りの時間は何を話そうかな?と考えていましたが杞憂でした。
皆さん関心があり、というか、お内仏についての疑問を聞ける人も場もないので、「お内仏の荘厳」のお話は興味深かったようです。聞法会の時間いっぱい、お内仏のお話で終わりました。

お話をしながらも、福井ご出身の門徒さんの、お内仏を大事にしている姿・想いに触れさせていただきました。
想いに触れさせていただきながら、かつて中越地震が発生したとき、ボランティアで炊き出しに行ったときのことを思い出しました。初日は炊き出しだけでしたが、翌日は、被災された方のお宅の、大きな家具の片付け・移動をお手伝いさせていただきました。
「うちに来ていただけますか?」と声をかけられ、その方のお宅にお邪魔すると、大きな揺れの影響で食器棚から飛び出した食器や、タンスから落ちてきたものなどで、家の中は物が散乱し、足の踏み場もありませんでした。視覚的に揺れの大きさを感じたものです。ところが、仏間に通されると、畳一畳分くらいの床の間に安置してあるお内仏の荘厳が、きれいに整えられていました。その美しさに目を奪われました。金箔や漆の塗りがきれいだったという話ではありません。大きな揺れによって家の中がひっちゃかめっちゃかな状態にあるにもかかわらず、先ず片付けられたのがお内仏であった。お内仏を、お念仏を、人生を大切にされているお姿に感動したことを覚えています。先ずお内仏を整えることによって、落ち着いて今何を為すべきか考えられていたことと思います。ご自身が大変な状況にあるのに、「来てくれてありがとう」と声をかけていただきました。素敵な笑顔の方でした。お元気でいらっしゃいますか?

家庭にひとつ、手を合わせる場があることの幸せよ。
北陸のご門徒のお姿から、そんなことを想います。南無阿弥陀仏

お内仏がない! お内仏を置くスペースがない! という方へ。
ご本山(東本願寺)のHP
-すべての人に、すべてのご家庭に御本尊のある生活を-

2017年2月 8日 (水)

平和を願っているつもりが、争いを、他者を貶める行動をしているかもしれない

「沖縄ヘイト」言説を問う〈4〉
親川 志奈子さん(沖縄大非常勤講師)
〔「東京新聞」2017年2月7日(火)朝刊より〕


抑圧者と被抑圧者というポジションを確認したうえで対話していく必要がある。例えば平和運動に取り組む県外の人は、翁長さんが知事選に勝って喜んだが、基地の県外移設論は黙殺する。基地反対運動に対峙する沖縄県警の機動隊員たちを「恥ずかしくないのか」とののしる。
その意味では左翼であろうと、右翼であろうと、沖縄へのまなざしは抑圧的と感じる。あからさまにぶつけられる沖縄ヘイトもあるし、平和運動の中でも沖縄の声がきちんと聞かれないという沖縄差別がある。

(引用以上)

親川さんの文章を読んでいて、武田泰淳さんのことばを思い出していました。

平和運動は大事だ。平和運動は非常に大事だ。大事だけれども、平和運動をやる人間が忘れてはならないことばのひとつに、「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人を殺すこともあるべし」(『歎異抄』第13章 親鸞聖人のことば)ということばを肝に銘じて平和運動をやらなければ、ほんとうの平和運動にならない。

私だって、出会うご縁によっては、何を考え、何をしでかすか分かりません。
「そんな私です」ということを忘れて「平和」を訴えても、あるいは「基地が必要です」ということを訴えるにしても、意に添わない結果を生んでしまうということが多々あるものです。
平和を願い、共に行動する者どうしでも、いさかいは起る。否、共に行動しているがために、いさかいも起こり得るのかもしれない。そしてダメージは、想いを異にする者から受けるものよりも大きい。
左翼とか右翼とか、現代(いま)はそんな思想性を込めて活動をする人もいないのではないか。自分とは意見を異にする者に対して、あるいは、目立った活動をする者に対して、あるいは、自分の憂さ晴らしのために、他者を貶めようとするものがいる。

「平和」は、すべての人々、すべてのいのちのことを願っている。基地を推進する者・沖縄に基地を押し付ける者は平和の対象外・・・な、わけはない。それでは、排外主義・自国第一主義(自分さえよければいい)と同じになってしまう。
基地を推進する人の中にも、「平和のために必要」と思っている人もいることでしょう(中には経済のためなんて人もいることでしょうが)。
同じ願いを持っている者どうしが手を取り合うこともあれば、同じ願いを持ちながらもまったく正反対の方向を向いていることもある。
抑圧されている人の、声なき声に耳を澄ませないと、平和を願う者が争いを起こしてしまうかもしれない。他者を排除しながら大きな声で叫んでいる人とまったく同じ結果を導いてしまうかもしれない。
それでいいわけはない。
もしかしたら、すでに そうしているかもしれない。

「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人を殺すこともあるべし」
(「私のこころが正しくて殺さないのではない。反対に、殺す気はなくても、100人1000人殺してしまうこともあるかもしれない」)
忘れてはいけない。

2017年2月 7日 (火)

「私は嘘をついたことがありません」という嘘。「私は差別をしたことがありません」という差別。

真宗大谷派発行「月刊 同朋」2016年12月号を、今更ながら読んでいます(積ん読状態なもので・・・)。
対談は玉木幸則さんと難波教行さん。テーマは「差別を悲しむ」です。

(難波 教行さん) 今回のテーマは「差別を悲しむ」ということですが、それは誰が悲しんでいるのか。もちろん私自身が悲しむということもありますが、逆に私自身が悲しまれているということもあると思うんですね。私もまた人を差別しておきながら、それに気が付かないことがあります。そのことを、仏さまに悲しまれている。「差別を悲しむ」というテーマはそういう意味だと思っています。 (玉木さん) 「障害者差別解消法」についての講演などで、会場の人に訊くと、「私は差別したことがありません」という人がたまにおられますが、それは自分が差別していることに気づいていないだけだと思います。ですから講演でよくお話するのは、“僕らが意識していようがいまいが、差別という事象は常に起きている可能性がある”ということですね。自分では差別していないと思っていても、肝心なことは相手がどう感じているか、ということですから。だから、「差別はあかん」ということを重々認識しておくと同時に、そう思っていても僕らは結果的に差別してしまうこともあるということを、忘れてはいけないと思うんです。その意識がないと、差別のことは他人ごとになってしまうんです。

難波さんは7歳で難病ジストニアを発症されました。20歳のときに、全身性ジストニア患者として日本で初となる脳深部刺激療法(脳に電極を埋め込み、症状を軽減する治療法)の手術を受けられました。大谷大学大学院博士後期課程満期退学。現在、真宗大谷派教学研究所助手。大谷大学非常勤講師。真宗大谷派大阪教区淨圓寺衆徒。著書『たとえば、人は空を飛びたいと思うー難病ジストニア、奇跡の克服』
難波さんがかつて取材を受けられていた「同朋新聞」の記事を今でも覚えています。手術によって、日常生活に支障のないぐらいまで回復した喜びと、いつまた発症してしまうかもしれないという恐さについてお話し下さっていました。
玉木幸則さんに関しては、当ブログで玉木さんのことばを取り上げているんですよね(2017年1月18日)。にもかかわらず、『月刊 同朋』で対談をされている玉木さんと、ブログで取り上げた玉木さんが、私の頭の中でリンクしていませんでした。恥ずかしい話です。ことばばかりを見て、「人」を見ていなかったことになります。申し訳ありません。
難波さんも、玉木さんも、障害を持っておられるゆえの差別を受けてこられた方々だと思います。にもかかわらず、自身の中にある差別性について語られています。そのことは大変な告白だといただいています。差別の感情を他人ごととせず、自分の中にあるものだという認識・・・悲しみを持つことによって、「仏さまに悲しまれている」ことを感知できるのだと思います。

2017年2月 6日 (月)

真宗大谷派 東京教区 同朋大会2017

真宗大谷派 東京教区 同朋大会 2017 お知らせ
 【と き】 2017年5月2日(火)
 【ところ】 文京シビックホール
 【講 演】 中島岳志先生(東京工業大学教授)
 【講 題】 となりの親鸞
 【開 場】 12:00
 【開 会】 13:00
 【参加費】 1,000円
只今、同朋大会に向けて準備を進めております。ポスター・チラシも作成中です。
例年6月に開催される同朋大会ですが、本年は5月2日に開催致します。今からご予定下さい。

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ご講演いただく中島岳志先生が、NHK「100分de名著」に出演されます。
2月の名著は「獄中からの手紙」(マハトマ・ガンディー著)です。
 第1回 2月6日放送 政治と宗教をつなぐもの
 第2回 2月13日放送 人間は欲望に打ち勝てるのか
 第3回 2月20日放送 非暴力と赦し
 第4回 2月27日放送 よいものはカタツムリのように進む
  NHK Eテレにて毎回午後10時25分~50分放送

2017年2月 5日 (日)

「する」よりも「ある」

考える広場 論説委員が聞く
相模原事件からみる「養育」
評論家 芹沢俊介さん
〔「東京新聞」2017年1月28日(土)より〕

(芹沢俊介さん)相模原事件の容疑者の特徴は、自我の根底を支える「ある」という感覚の希薄さです。 (佐藤論説委員)「ある」とはどのような感覚ですか? (芹沢さん)自分が安心して自分でいられる存在感覚です。それは乳幼児期から自分のためにのみ存在する人から「受けとめられた」という体験があって育まれる。 (佐藤論説委員)親たちは子育てに悩んでいます。相模原事件でも直感的にわが身に引きつけて不安になった人は少なくないはずです。経済的な格差が広がり、生活不安から安定しきれない。子育ては過酷さを増しています。 (芹沢さん)今まで以上に親たちが将来の安定のために教育的なことを先行するようになります。子どもに「ある」を提供するよりも「する」「できる」を求めてしまう。 親はただ子どものそばで自分を差し出す存在であってほしいのですが。(中略) 最近は、2、3歳児の親から「子どもとの関係がよくない」と相談される。優先順位が逆なんですね。子どもが呼んでいるのにスマホを見ていませんか。これって親がいるのに受けとめ手がいない不安な状態。(中略) 子どもは不安になると親の足元に寄ってくる。受けとめ手と一緒に作られる「ある」という感覚は信頼や対人関係の基盤になる。養育の課題は不安を退け、「ある」という感覚を育てることに尽きると思う。 (佐藤論説委員)失敗するとダメな人間で、何かができてはじめて自分の存在が認められるような価値観に私も影響を受けています。(中略) 「する」「できる」に偏る価値観が優生思想の土壌に吸収されたということですか? (芹沢さん)私たちの内なる敵は「する」が「ある」に先行した人間観や考え方です。これを転換させることなしに事件の再発は防げない。 ところで、私たちの養育論は無力ですが高齢者介護にも生かせますよ。 年を取るとできなくなることが増えますね。社会や家族の片隅に追いやられ孤独になったとき、その孤独を受けとめてくれる受けとめ手がいれば、それだけでうれしい。安心して「ある」の感覚が生まれるから。自分に対する「存在への敬意」を感じられたら人は生きられる。モノなんていらない。

芹沢俊介さんには、真宗大谷派東京教区もお世話になり、お話をいただいています。
芹沢さんのお話の根底には、「する」ではなく「ある」ことの大切さを感じて欲しい、という想いがあります。
現代の感覚では、物事をうまく出来てあたりまえ、出来ない人は落ちこぼれて、出来る人ほど恵まれていく、という価値観に覆われています。「する」が貴重なことになっています。
しかし、私たちは存在そのものが尊い。「ある」ことが、つまり私そのものが既にに大切なこと。
「する」の価値観に覆われ、「ある」ことの尊さが見えなくなっている現代社会。
「ある」ことに安心できず、「する」こと、できることを求めてしまう(できない私に落ち込んでしまう)。
「ある」感覚よりも「する」感覚が先行したとき、存在の不安定さが、いろいろな形で露出してしまう。そのことは、実際に犯罪を犯した人のみに発露することではなくて、誰にも起こり得ること。
スマホは子どもが寝た後で。「ある」ことの大切さを、伝えてあげたい。その役割があることに気づければ、私(親)もまた自身の「ある」が嬉しいこととなる。

2017年2月 4日 (土)

鬼はうち(私)

節分…真宗の行事ではありませんが、大切なことを教えていただける行事です。
「鬼は外、福は内」というけれど、外に出ていった鬼は、どこに行くのでしょう? 自分の福は内のために、鬼は外を叫ぶ私。考えてもみれば、恐ろしい。
「私の頭につのがあった。つきあたって、折れてわかった」という法語があります。
自分の頭につのがあるなんて、誰も思いもしないことでしょう。でも、みんな つのを持っている。つの→鬼をイメージすると、怒りの表情をイメージする。誰もが怒りん坊鬼さん?
いえいえ、鬼もいろいろな鬼がいる。泣き虫鬼さん、欲張り鬼さん、威張りんぼ鬼さん、食いしん坊鬼さん…。私の中にも、たくさんの鬼さんがいる。
では、鏡を見ながら「鬼は外、福は内」? 鬼が出ていった私は、まるで私じゃなくなりますね。鬼を含みながらも私。で、少しでも福が入ってきてくれたら(他者への福こころが芽生えれば)いいですね。

「真宗では豆まきなんて、しない!」と突っぱねるのではなく、お孫さんと上記のようなお話ができるといいですね👹

2017年2月 3日 (金)

君の名は?

中学生の頃からお世話になっている床屋さん。
昨日、今年に入って初めて床屋さんに行きました。
が、ずっとお世話になっていた店員さんが、昨年いっぱいで辞めてしまっていました。

今では見る影もありませんが、私の前髪は天然パーマでクルックルッ。後ろ髪は、上から下に生えているのは普通ですが、下から上に向いて生えているところもあって、かなりのくせ者です。しかも頭の形がボコボコで、私の頭は床屋さん泣かせです。
京都で学生生活を過ごしていたときも、何件か床屋さんを訪ねましたが、私の髪を手に負える方はいませんでした。なので、帰京の度に、そのお店に通っていました。

店長の腕もいいので、昨日は店長がカットしてくれました。でも、その店員さんが辞めてしまい、明らかに疲労の色が店長の顔に表われています(長いこと店長とその店員さんでお店を守っていました)。

それだけよくしていただいた店員さんなのに、名前も連絡先も知りません。
御礼を言いたいし、もし同じお仕事を続けているのなら、またお世話になることもあるかも(店長は、多くを語りたくなさそうだったので、あえて尋ねませんでした)。
長いことお世話になりました。ありがとうございます。

皆さんも、仲良しの店員さんとか、毎朝挨拶を交わす方とかいませんか? でも、連絡先までは知らない。もしそういう方がいるなら、連絡先のやりとりをしておいてはいかがでしょうか? 
いつまでも、いてくれると思いがちだけど、お別れのときは不意に訪れますnight

2017年2月 2日 (木)

「これから」が「これまで」を決める

共にその先へ 相模原殺傷事件・半年 (上)
相模原の障害者施設殺傷事件が、「共生」を掲げる社会に与えた衝撃は大きい。事件は私たちに何を問い掛けるのか。私たちは事件から何を学ぶべきなのか。
インタビュー 作家・高村薫さん
〔「東京新聞」2017年1月27日(金)より〕

元来、人間は手前勝手で多くの負の感情を持つ存在だ。それを意志の力で抑え込む「良識」によって秩序を保ってきた。だが今はヘイトスピーチのように、一昔前ならば絶対に許されないことが公然と語られている。そして政治家の問題発言も見過ごされる。たがが外れ「赤信号もみんなで渡れば怖くない」という状況だ。社会の底が“完全に”抜けてしまった。
資本主義に基づくシステムがうまくいかなくなったと痛感する。代替策がない以上、格差も貧困も広がり続ける。世界中で同じ現象が起きており、明るい兆しはない。時代は“完全に”変わった。そのことをしっかりと認識する必要がある。

上記引用中 “ ” は私が付けました。
“完全に”と言わなくても、文章は通じます。けれど、“完全に”が付けられています。文章を、ことばを大切にされる高村薫さんです。“完全に”と言い切れるためには、そこに完全性が必要なことを、彼女はよ~く知っているはず。つまり、“完全に”などと簡単に書けることではないことを、誰よりも知っていることでしょう。にもかかわらず“完全に”と言われることに、重たい響きがあります。
「現代が、今までと変わりつつある」のではなく、「完全に変わってしまった」のです。
「今まではこうだった(良かった)」ではなく、完全に変わってしまったところに立って、「これから」を考えないといけない世の中なのですね。

2017年2月 1日 (水)

2017年2月のことば

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人を人とすることによって、自分も人になる
                         安田理深

成人するということ
1月には成人式があります。20歳を迎えた若人が、成人としての歩みを始めます。「成人式」・・・「人と成る式」には、どのような願いが込められていることでしょう?
「人」は、「人間」という言い方もあります。「人間」の「間」には、「関係性を生きている」という意味があります。目の前の人を、人として敬い、人として接し、人として関係を築きながら生きていく。関係性を大切にしながら生きることが「人と成る」ということではないでしょうか。

停滞した水は腐る
アメリカのトランプ新大統領は、関係性を生きているという認識が薄弱のようです。アメリカに不利益を及ぼす(と、考えている)難民・不法移民の入国を拒否する、壁を作る。そのことは、より多くの難民を生み出し、アメリカへの憎悪を増幅し、結果としてアメリカへの不利益が生じることとなります。
水が、停滞すると腐ってしまうように、人の動きを規制するということは、腐敗につながりはしないでしょうか。

物事を、違う角度で見てみる
難民・不法移民の問題は、その人々自身に問題があるわけではなく、経済格差の拡大に原因があります。特定の国や特定の人のみが潤い、生活もままならない人が増えています。
1月15日、貧困撲滅に取り組む 「オックスファム」という国際NGOは、世界で最も裕福な8人が保有する資産が、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じだとする報告書を発表しました。
トランプ大統領は「再びアメリカを偉大にする」と豪語しているのですから、経済の発展を目指すことでしょう。富の集中がより加速し、難民を生み出すこととなります。

人が人であることの本質
「人のために泣ける人。人の痛みがわかる人。人に共感できる人。これが、人が人であることの本質だ」と語った人がいます。アダム・スミスです。アダム・スミスは、近代経済学の父とも言われています。哲学者としても有名な方ですが、経済に精通した方がこのように語られていることが興味深いです。経済(お金)を見ながら、その奥底に「人」を見ておられたのですね。
人のために泣けず、人の痛みが分からず、人に共感できない人が経済の舵取りを任されたとしたら、果たしてどうなることでしょう?

トランプ大統領だけではなく
昨年7月に起きた相模原障害者施設殺傷事件を覚えていますか? 事件の容疑者は、「重度障害者の安楽死が認められていないから、私が殺した。重度障害者は、家族を不幸にする。不幸を減らすために、自分がやった」と、理由を語っていると聞きます。恐ろしい理由ですが、当時ネット上では「人を殺すことは良くないことだけど、容疑者が言っていることは分かる」という声も聞こえ、驚きを感じました。
昨年の「保育園落ちた日本死ね!」という叫びをきっかけとして、国は重い腰を上げ、待機児童問題に取り組み、保育士の給料を上げることを考え始めました。その件に対して、「なぜ特定の職種に対して国がお金を出すのか?」という声を聞きます。あるいは、刑務所で服役者に税金を使うことに納得がいかないと憤る人、生活保護を受けている人たちに対して「甘えるな」という声を浴びせる人もいます。公共の福祉に税金が使われることは当然のことだと思うのですが、障害を持つ人・法を犯した人・なんらかの事情で保護を受けなければならない人に対して、私たちの目線は厳しい。まるで「自分はそうはならない」 つもりでいるかのように。
自分の頑張りが、自分に返ってくると実感しづらい現代。税金が、自分より頑張っていないと見える人に使われることが許せない気持ちが湧いてくるのでしょう。自分の頑張りが認めてもらえない社会は、つらく切なく、やる気を失います。しかし、その想いが爆発して、他者の存在が認められなくなり、他者への攻撃性として表われることは、よりつらく悲しいことです。
トランプ大統領を非難することは簡単ですが、果たして私は「人のために泣ける人。人の痛みがわかる人。人に共感できる人。」でしょうか。

鬼の正体は?
2月には節分があります。「鬼は外、福は内」が決まり文句ですが、果たして鬼は、どこにいるのでしょう?
今月のことばの主、安田理深先生(真宗大谷派僧侶)に、「自分を狂わせ迷わせる敵は内にある」ということばがあります。
自分を迷わせる敵を想いながら「鬼は外」と言うのでしょうが、その敵は、外にいるのではなく、内にいる。つまり自分自身です。人を人と見られない自分は、人の顔をした鬼のようです。
自分が人と成るには、人を人として敬うこと。相手を人と感じられるからこそ、自分も人として存在できます。

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