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2017年1月24日 (火)

平穏なときって、ことばが響かないものです。ことばが響くときって、苦しいときです。そう想うと、苦しみはことば響かせる種なのですね。

お坊さんが悩みに答えてくれるサイトが好評とのこと。
13年ブログを書き続けているものだから、仲間内からは、「悩みに答えるサイトにも興味があるんじゃない?」「関わってるんじゃない?」というようなことを聞かれることがあります。申し訳ありませんが、まったく関わっていません。
悩みに答えられている僧侶の方々は凄いなぁと感心していますし、敬意をもっています。でも、私の性格上、無理です。ネット上でやりとりをする、メールでやりとりをするということが苦手なのです。どうしても、相手の言っていることが受けとめられなかったり、私の言っていることの内容が上手く伝わらなかったりするため、悩み事相談に踏み込むことはしていません。
ただ、ネット上やメールでのやりとりに不安があるだけではなく、相談者は耳障りのいいこと・表現の優しい人の声を頼りとしてしまうので、そこへの不安感・申し訳なさもあります。

お釈迦さまも、生きとし生けるものの悩みを聞いてきました。お釈迦さまの教えのスタイルは「対機説法(たいきせっぽう)」といわれます。人(機)に対して説法をされました。そのことを、悩みに答えるべく、教えを説いておられたことと思っていました。しかし、そうではないと考えるようになりました。
お釈迦さまの教えは抽象的です。悩みに対して、「それなら、こうすればいいよ!」「それなら、こう考えてみたらどうだろう?」と答えるのではなく、あくまで教え(真理)を説かれます。もしかしたら、周りで聞いている人は、話が噛み合ってないように聞こえたかもしれません。しかし、お釈迦さまのことばを聞いて、相談者は自分の中で考え、自分なりの答を導き出したのではないでしょうか。それが、お経の最初に書かれている「如是我聞(我聞如是)・・・私は、このように聞きました」ということばと重なって聞こえてきます。

現代、相談をされる方は、直接の答を求めておられます。「早く楽になりたい」「私の味方を見つけたい」「どうすればいいのか知りたい」。その気持ちは分ります。
しかし、楽の先がずっと楽とは限りません。楽と思った道が苦の場合もあります。
味方がみつかれば、その味方を手放したくないという独占欲と、味方に裏切られたくないという心配が芽生えます。そのように、また悩みが生じます。
どうすればいいのか(どう生きればいいのか)知りたいのは、相談を受けた方も同じです。どの道が正解か、なんて、誰にも分りません。そもそも、何が正解で何が間違っているのか、それすらも決まってはいません。
答を求めて、答(のようなもの)を与えられると、自分で考えるということができなくなります。自分に都合の悪い意見や、都合の悪い意見を言う人は相手にせず、自分にとって耳障りのいいアドバイスだけを受け入れていては、上記のことば(「しかし、楽の先がずっと楽とは限りません。~)も何を言っているの?という感じではないでしょうか。
今調べたら、当ブログで1500ちょっとの投稿をしてきました。誰かの悩みに答えようと思って書いたことはありません(誰かのことを想い浮かべながら書いたことはありますが)。しかし、想うまま感じるままに書き綴ってきたのは、たまたま当ブログに立ち寄った人が、「ふぅん、そんな考え方もあるかなぁ」「おもしろいことを言う人だなぁ」と、ちょっとでも立ち止まって、自分で考える際、選択肢や考え方がひとつ増えればいいなという程度の想いでかいています。あ、書くことによって、自分自身の中で整理をしていることもあります。
(あ、書いていて思い出しました。“ブログ”なるものの存在を知り、始めたのが13年前。その頃ブログをやる人は、あくまで自分の想いを、恥ずかしげに書いているだけだったような気がします。「こんなことがありました。私はこう感じました」って雰囲気で。ネットが日常環境にあり、直接罵詈雑言を浴びせることはできなくても匿名で鬱憤を晴らす手段としてブログやSNSを使う人が増え、ネット上のことばも、かなり濁ってきてしまった気がします。)

悩みをかわしてくれる「ひらりマント」(byドラえもん)のような道具(ことば・解決法)があればいいけれど、そんなものありません。
(現実世界での悩みをネットで吐露していたものが、いつの頃からかネットを使って他者を貶めるようになり、ネット社会で生じた悩みによって、現実世界を生きる私を苦しめる世の中になりました。たとえ便利な道具であっても、結局は使いこなせないのが人間の姿。ドラえもんに出てくるのび太君は、実は私たちの姿を投影してくれているのです。)
悩みの元となる出来事があり、そのことについて悩んでいるけれど、本当の意味で悩む(考える)ということが希薄になってしまいました。
悩み事に応えてくださっている方(サイトで応えてくださっている僧侶だけでなく)に対し、自分の意に添わない答だと相手をののしり、「早く答をください」と催促し、「あなたは分ってない!」と説教したり^^・・・。
あ、長々と書きすぎました。どうしてこのようなことを書いているのかというと、相談者の方のことを想って応えている方が、SNS上で悩んでいるのを見ることがあったからです。悩みに応える以外のところで書かれている文章が、明らかに今までのような輝きを失い、その方自身迷っているのが読み取れる文章になっていることがあったからです(あくまで、私がそう感じただけですが)。
悩みを受け止めてくれる、気持ちの強そうな友人だって、坊さんだって、みんなみんな同じ人間なんです。誰だって悩みを持って生きています。そこに想いを馳せることがないならば、たとえ悩み事に応えてもらってスッキリできたとしても、周りの大切な人を傷つけていることに気付くこともできないでしょう。それは、今の悩み以上につらいことかもしれません。

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