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2017年1月29日 (日)

私が持っているサベツのこころ 阿弥陀の不簡の慈悲

真宗大谷派 東京教区 報恩講2017 (2017年1月26日~28日)
テーマ 今、いのちがあなたを生きているー分ける心を覗く(のぞく)・サベツー
ご法話:三明智彰先生(九州大谷短期大学学長)

上記テーマをいただき、「報恩謝徳」という題をつけさせていただきました。
「恩」とは「恵み」ということ。「恵み」とは、「人として生まれた」ということ。
人として生まれるということは、稀なご縁をいただいて生まれるということ。
人身(にんじん)を受けるということは、有り難い出来事。しかし、そこで感謝に、報恩謝徳に徹しきれない私。不平不満や愚痴が出ます。報恩謝徳ではなく、背く心であり、分ける心です。
人として生まれ、人間として生きるようになる。
「なぜ生まれたのか?」「なぜ生きるのか?」そういう問いが生じてくるものです。そのことが大事なんです。そういう問いを持って生きるということが、人(ホモサピエンス)として生まれた私が、人間として生きるようになるということ。関係性を持って生きるということ。

念仏は、「ナムアミダブツ」と声に出して、仏を忘れずに想い続けることです。阿弥陀仏の本願他力に対して感謝の心を表する明るい言葉です。
「他力」とは、他人の力を当てにするとか、自分が怠けて功績だけを得ようとするだらしないことではなく、我々の持つエゴイズムや自我意識を超越して、我々一切のものを生かしている大いなるはたらきのことです。
「自力優勝」なんて言葉がありますが、おかしな言葉です。勝つも負けるも、“相手がいてくれる”からこそ出来ることです。自分の力で勝つ、何かが出来るなんてことはありません。
私は、好きだ嫌いだ選びますが、阿弥陀は不簡(ふけん)です。簡(えら)びません。老いも若いも善いも悪いも簡びません。大いなる慈悲のめぐみを生きている私です。私たちは、簡ばない、分け隔てをしない慈悲をいただいています。人間関係を築いていくうえで、不簡の慈悲をかけられたひとり一人であることを忘れてはいけません。
南無阿弥陀仏は感謝のお念仏です。
南無阿弥陀仏
(以上、私のノートより)

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