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2017年1月 7日 (土)

「納得」とは、自己納得ではないだろうか。それが本当のこととは限らない。

昨日、報道の内容について書きました。けれど、プライバシーを侵害するような内容に踏み込んでまで報道が為されるのは、求める人がいるから。
どうして? なぜ? を求めるのは、「納得」をしたいから。

でも、この世の中で、「納得」し得ていることって、果たしてあるでしょうか。
気にかかることでなければ、「納得させてよ!」というほどまでに、しつこく求めないでしょう。
気にかかることは、しつこく探ります。
「納得するまで話し合いましょう」「納得するまで話してください」と、会話を持ちかけても、納得ってできないのでは? 自分は納得できたとしても、相手はしてないということもあります(会話をすること自体は、良いことだけど)。
私たちは、「納得」ではなく、「妥協」しながら生きているのではないでしょうか。「妥協」というと、あまり良い響きではないけれど。「妥協」しあえるから、次に進める。「納得」しなきゃ次に進めなかったら、誰も進めなくなってしまう。

「納得」してスッキリしたい気持ちは分かるけれど、それならば、私の気持ちを相手に伝えるのって難しくありませんか? 相手が「納得」できるほど、私は物事を語っているだろうか。想いを伝えているだろうか。
それに、相手が「納得」を求めるほど「キチンと話してください」という内容って、実は私の胸の内に収めておきたいことではありませんか?
だから、私が「納得」できないときって、相手の中に言いたくないことがある。胸の内にしまっていることがある。そういうことだと「想像」する力が必要では。

愛されつつ解散されたSMAP。感謝の気持ちを伝えるタイプの人と、「解散の理由を結局ハッキリとは言ってない。納得できない!!」というタイプの人がいるという記事を見て、上記のことを思いました。
私の中に収めておきたいことがある。で、本人が語ってないんだから、周りが詮索する必要もない。茶飲み話・酒の肴として、その場にいる人が勝手にしゃべって盛り上がるのは自由だけど、結局のところ想像でしかないことを、「○○が悪い」とか「○○が孤立している」とか「○○が□□を憎んでいる」とか言いふらすことはない。(あ、SMAPに限った話をしているのではなく、私たちの日常の話)。そういうのって淋しい。「勘ぐられたくないなら、本当のことを話せ!!」って論調になるのだろうけれど。

想像を言いふらすのは、SNS内では多々アップされている。だから、本当のことなのか、嘘なのか見極めなければならない。あるいは「面白い話だなぁ」程度の話として受けとめなければいけないのに、マスコミや政治家までも、真偽をたしかめずにネット上の情報を何の疑いもなく本当のことと受けとめ、他者(ひと)を傷つけている。
恐ろしい世の中になっている。

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コメント

「たとえば人ありて念仏の行をたてて毎日に一万遍をとなえて、そのほかは、ひめもすにあそびくらし、よもすがらねぶりおらんと、またおなじく一万をもうして、そののち経をもよみ余仏をも念ぜんと、いずれかすぐれたるべき. . .」

称名念佛だけやって、あとは、遊んで暮らしている人、毎日、一万遍の称名念佛し、更に、お経はばんばん毎日読んでしまうし、南無十方仏 南無十方法 南無十方僧 南無本師釈迦牟尼仏 南無大慈大悲救苦観世音菩薩 南無啓経阿難尊者…諸行こなしてしまう人、どちらが優れているか?

普通に考えると後者の人が偉い。しかし、実は、後者は、念佛では不足と思っているからなので、佛智疑惑であり、信仰が純粋ではない…

と、いうときに、案外、人間というもの、自分を、優れている方に入れているものですよね。無意識に。

考えたら、実は、人間、自分をエリート、選民の方に入れている。が、そういうことなのか? 実は違うのではないのか…。わたしたちはわかっているから、えとですね、佛のこころわかっている、しっている、価値がわかる、量れる…、だから、価値あるものを買う、投資する、そういう交換なのか?

で、あいつらは、馬鹿だから、諸行やってる…(またはお浄めの塩、または先祖代々の墓、または位牌、または院号……)と、自分は優れている、あいつらは馬鹿という、その分割でいいのか?

そういう自分の認識の枠組み(有限性)ってのがどうなのか?

すると、

佛智疑惑でないものが、いない。

専修念佛できないものでないものが、いない。

おれは専修念佛っていうのが、その俺ってのが、おかしい。

(「何の不足もない六字」、というのは、名号の属性であって、こと、こちら側、わたしってのは、念佛だけでは不足という、佛智疑惑野郎。)

お金も礼拝しているし、ブランド商品も礼拝しているし、学歴も、名声も、地位も、礼拝している。iPhoneだって礼拝している。偽の佛を1年365日、1日24時間、礼拝してやまない、死ぬまでやまない、そういう、わたしたちである。

(ということと、名号の側が、「何の不足もない六字」であるということとは別のことでは、ない。)

☆筆硯独語さんへ
私の「納得」に関するつぶやきから、こんなにも展開してくださって、ありがとうございます。
驚きました

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