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2017年1月30日 (月)

推進員として生きる・・・聞法の生活

真宗大谷派では、「推進員養成講座」という講座があります。親鸞聖人の教えを聞き、聞いた喜びを胸に生きていく人になろう!という願いの元に開かれる講座です。
西蓮寺が所属する東京五組でも、かつて1997年と2007年に推進員養成講座を開催しました。その後、五組の聞法会は毎年開催し、お話を聞き続ける場はあるのですが、共に推進員養成講座を受けた朋が集まる場がありませんでした(五組の聞法会で一堂に会してはいますが)。
推進心養成講座を受講された方に呼びかけて、推進員研修会を開催しました。
以下、私の聞き書きです。

   

真宗大谷派 東京教区 東京五組 推進員研修会(2017年1月29日)
お話:海 法龍先生(横須賀 長願寺住職)

聞法を通して、友が出来ます。友を朋と書き、同朋ともいいます。教えを聞く仲間です。
一般的には「寺の檀家」という言い方をします。「檀家」とは「ダーナパティ」というインドの言葉に、中国で「檀家」と音写された言葉です。意味は、「布施者」「庇護者」を意味します。寺や、僧侶を庇護する者という意味です。「檀家」とは、お寺の維持のためにお金を出してくれる人、寺を護ることに努める人という意味が込められています。
真宗寺院では、「檀家」とは言わずに「門徒」といいます。寺の維持のためには、お布施をいただかなければ、とても寺を護っていけません。そういう意味では、真宗寺院でも、「ご門徒」からお布施をいただかなければ護持できないことに変わりはありませんが、「門徒」と表現してきた背景には、教えに出遇った者が集り、教えを聞いていく者となろうという願いがあります。ですから、親鸞聖人の教えを聞く「一門の生徒」・・・「門徒」と言います。寺の本堂に集まり、本尊の前でお話を聴聞する。そういう仲間を「同朋」と言います。
教えを聞く者となる、推進員となる、とは、教えを聞いて生きたいと思える私となること。その生きざまは、周りの人へも伝わります。聞法をするとは、人と出遇うということ。友が、同朋ができるということは、生きる力をもらえる、人生を推進していく力となります。
推進員になったからといって、「仲間を増やそう」と気構える必要はありません。私自身が教えに出遇えたのは、教えの方から私自身を押し出してくださったから。自分で「教えを聞こう!」と決心して聴聞するのではなく、教えの方から私にきて下さったということ。
私たちの選びは、好き嫌いで人を選びます。しかし、阿弥陀は人を選ばない。この人は○○をしているから、救おう。この人は○○をしていないから救わない。ではありません。分け隔てなく、衆生を救おうと誓っておられます。誰もが、教えに押し出されているのですが、そのことに気づけるのは容易なことではない。この世に生を受け、教えに出遇い、人と出遇って生きていく。そのことが、推進員となった者の生き方です。
教えの場にあつまり、聞法の生活を送りましょう。
南無阿弥陀仏
〔以上、私のノート(記憶)によります〕

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