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2017年1月

2017年1月31日 (火)

平和の「平」はフラット(起伏がないこと) 「和」は和(やわら)か

カナダのトルドー首相
「迫害やテロ、そして戦争から逃れようとしている人たちへ。カナダ人は信仰に関係なく、あなたたちを歓迎する。多様性こそわれわれの強さだ。」
(2017年1月28日 Twitterへの投稿より)

フィリピンのある公立高校の校長先生のことば
「教育は最大の安全保障」
積極的に諸外国との交換留学などを進めておられるとのことです。
(堀潤さんが取材された記事より)

2017年1月30日 (月)

推進員として生きる・・・聞法の生活

真宗大谷派では、「推進員養成講座」という講座があります。親鸞聖人の教えを聞き、聞いた喜びを胸に生きていく人になろう!という願いの元に開かれる講座です。
西蓮寺が所属する東京五組でも、かつて1997年と2007年に推進員養成講座を開催しました。その後、五組の聞法会は毎年開催し、お話を聞き続ける場はあるのですが、共に推進員養成講座を受けた朋が集まる場がありませんでした(五組の聞法会で一堂に会してはいますが)。
推進心養成講座を受講された方に呼びかけて、推進員研修会を開催しました。
以下、私の聞き書きです。

   

真宗大谷派 東京教区 東京五組 推進員研修会(2017年1月29日)
お話:海 法龍先生(横須賀 長願寺住職)

聞法を通して、友が出来ます。友を朋と書き、同朋ともいいます。教えを聞く仲間です。
一般的には「寺の檀家」という言い方をします。「檀家」とは「ダーナパティ」というインドの言葉に、中国で「檀家」と音写された言葉です。意味は、「布施者」「庇護者」を意味します。寺や、僧侶を庇護する者という意味です。「檀家」とは、お寺の維持のためにお金を出してくれる人、寺を護ることに努める人という意味が込められています。
真宗寺院では、「檀家」とは言わずに「門徒」といいます。寺の維持のためには、お布施をいただかなければ、とても寺を護っていけません。そういう意味では、真宗寺院でも、「ご門徒」からお布施をいただかなければ護持できないことに変わりはありませんが、「門徒」と表現してきた背景には、教えに出遇った者が集り、教えを聞いていく者となろうという願いがあります。ですから、親鸞聖人の教えを聞く「一門の生徒」・・・「門徒」と言います。寺の本堂に集まり、本尊の前でお話を聴聞する。そういう仲間を「同朋」と言います。
教えを聞く者となる、推進員となる、とは、教えを聞いて生きたいと思える私となること。その生きざまは、周りの人へも伝わります。聞法をするとは、人と出遇うということ。友が、同朋ができるということは、生きる力をもらえる、人生を推進していく力となります。
推進員になったからといって、「仲間を増やそう」と気構える必要はありません。私自身が教えに出遇えたのは、教えの方から私自身を押し出してくださったから。自分で「教えを聞こう!」と決心して聴聞するのではなく、教えの方から私にきて下さったということ。
私たちの選びは、好き嫌いで人を選びます。しかし、阿弥陀は人を選ばない。この人は○○をしているから、救おう。この人は○○をしていないから救わない。ではありません。分け隔てなく、衆生を救おうと誓っておられます。誰もが、教えに押し出されているのですが、そのことに気づけるのは容易なことではない。この世に生を受け、教えに出遇い、人と出遇って生きていく。そのことが、推進員となった者の生き方です。
教えの場にあつまり、聞法の生活を送りましょう。
南無阿弥陀仏
〔以上、私のノート(記憶)によります〕

2017年1月29日 (日)

私が持っているサベツのこころ 阿弥陀の不簡の慈悲

真宗大谷派 東京教区 報恩講2017 (2017年1月26日~28日)
テーマ 今、いのちがあなたを生きているー分ける心を覗く(のぞく)・サベツー
ご法話:三明智彰先生(九州大谷短期大学学長)

上記テーマをいただき、「報恩謝徳」という題をつけさせていただきました。
「恩」とは「恵み」ということ。「恵み」とは、「人として生まれた」ということ。
人として生まれるということは、稀なご縁をいただいて生まれるということ。
人身(にんじん)を受けるということは、有り難い出来事。しかし、そこで感謝に、報恩謝徳に徹しきれない私。不平不満や愚痴が出ます。報恩謝徳ではなく、背く心であり、分ける心です。
人として生まれ、人間として生きるようになる。
「なぜ生まれたのか?」「なぜ生きるのか?」そういう問いが生じてくるものです。そのことが大事なんです。そういう問いを持って生きるということが、人(ホモサピエンス)として生まれた私が、人間として生きるようになるということ。関係性を持って生きるということ。

念仏は、「ナムアミダブツ」と声に出して、仏を忘れずに想い続けることです。阿弥陀仏の本願他力に対して感謝の心を表する明るい言葉です。
「他力」とは、他人の力を当てにするとか、自分が怠けて功績だけを得ようとするだらしないことではなく、我々の持つエゴイズムや自我意識を超越して、我々一切のものを生かしている大いなるはたらきのことです。
「自力優勝」なんて言葉がありますが、おかしな言葉です。勝つも負けるも、“相手がいてくれる”からこそ出来ることです。自分の力で勝つ、何かが出来るなんてことはありません。
私は、好きだ嫌いだ選びますが、阿弥陀は不簡(ふけん)です。簡(えら)びません。老いも若いも善いも悪いも簡びません。大いなる慈悲のめぐみを生きている私です。私たちは、簡ばない、分け隔てをしない慈悲をいただいています。人間関係を築いていくうえで、不簡の慈悲をかけられたひとり一人であることを忘れてはいけません。
南無阿弥陀仏は感謝のお念仏です。
南無阿弥陀仏
(以上、私のノートより)

2017年1月28日 (土)

教えを通しての出遇い

2017年1月26日~28日
真宗大谷派 東京教区 報恩講が開催されています。
本年の報恩講ご講師は、九州大谷短期大学の教授をされている三明智彰先生です。
昨日(27日)、ご法話を拝聴しに行き、その際、先生に挨拶をさせていただきました。
三明先生には、京都大谷大学時代にお世話になりました。私は、江上浄信先生と三明智彰先生から、親鸞聖人の教えをいただきました。おふたりの先生との出遇いがなかったら、今の私はないと、感謝申し上げます。
先生を囲んでの懇親会の後、同じく三明先生から教えを受けた東京教区の仲間たち4人で杯を酌み交わしました。この4人だけで呑んだのは初めてかもしれない。でも、先生を通して親鸞聖人の教えを受けた仲間どうし、ワイワイ語り合いながら楽しい時間を過ごしました。先生とのご縁、もっと言えば親鸞聖人との出遇いを通して出遇った仲間たちです。日常は、個々の人生・家族との生活を営んでいます。日々、個々それぞれが悩みや疑問を抱えながら生きています。にも関わらず、数年ぶりに顔を付き合わせたメンバーで、日常のように会話を交わせる。教えを通して出遇った仲間との再開は、懐かしさを越えた温かさがあるように感じます。なぜならば、そこに親鸞聖人が、南無阿弥陀仏のお念仏があるからだと感じます。南無阿弥陀仏

明日(28日)も真宗会館に行きます。またお目にかかりましょう!! とても楽しみです!!

2017年1月27日 (金)

濁世(じょくせ)

私たちは無垢なものに触れていないと生きてはいけないが、それらを守っているのだろうか。
私たちの方が逆に、草木や小動物や赤ん坊や死者や詩や音楽の、非力な力に守られていると思う。
  井坂洋子『黒猫のひたい』(幻戯書房 2014年)

非力な力に守られているにもかかわらず、
 草木・森林が不用意に伐採され、
 小動物を実験に使い、虐待し、不必要となったら物のように捨て、
 赤ん坊はうるさいと嫌い、自分が通ってきた道を忘れ、
 死者を穢れのように扱い、生活から遠ざけ、弔い(訪い)もせず、自分が通る道を自ら見えなくしてしまい、
 他者を排斥する詩(言葉)や音楽(メロディー)が巷に溢れている。

2017年1月26日 (木)

見えるものの背景ではなく、見えなくされているものの背景に、声なき声があります

「日本出身」・・・あれ?どうして「日本人」って表記じゃないんだろう?疑問・違和感について、昨日書きました。

福島第一原発の事故により、横浜市に自主避難されたご家族のお子さんが、「賠償金もらってんだろ」と、同級生から遊興費として150万円を払わされていた問題。というか、教育委員会から「いじめという結論を導くのは難しい」と判断された問題。行政や学校は、処罰を恐れて「いじめ」とは言えないんですよね。横浜市長が謝罪しましたが、会見の口取りは、「表現の仕方が至らなかった」ことを詫びているように聞こえ、生徒やその親に対する謝罪には聞こえませんでした。どうしても、「いじめ」とは言いたくないのでしょう。「“いじめ”ではなく恐喝であり、立派な犯罪ですという結論に達しました」というのなら分りますが、そうではありません。150万円という金額に対する感覚が、かなり違うようです。

政府は、「共謀罪」を立法しようとしています。しかし、「共謀罪」では通りが悪いので、「テロ等準備罪」と言い換えて、法案の成立を狙っています。テロ行為を企てている組織には、実際に犯行を起こす前、話し合っていることが分っている段階で取り締まることができる、と。「オリンピック開催のためには、共謀罪の新設が必要不可欠」と言っています。でも、そのオリンピック・パラリンピックは、開催されれば東日本大震災の復興にもつながると、「アンダーコントロール」と放射能汚染をコントロールしていると豪語してまで獲得した日本開催の大会です。ということは、東日本大震災からの復興を持ちかけて、「共謀罪」の新設を企てていたかのように思えて仕方ありません。「テロ等準備罪」と言い換えていますが、「等」がくせ者です。「テロ」に対処するためならば「テロ準備罪」で良いのではないですか? まぁ「テロ」も広義なので、いろいろ理由を付けられて、しょっぴくつもりかもしれませんが。
他人事ではありません。何かしら理由を付けて、政府や権力を持つ方々が、気にくわない動きをする人々や組織を取り締まることができてしまいます。恐ろしい法律です。こんなこと書いている私も、捕まるかもしれません。
しかし、「共謀罪」が成立していない現代(いま)でも、政府にとって目の上のたんこぶとなっている人が微罪で捕まっています。現代でもそんなことができてしまうのに、「共謀罪」、いえ「テロ等準備罪」が法案化してしまったら、どれだけの人があらぬ罪で捕まるか分りません。

今日話したいことが見えなくなってしまいました。
現代(いま)、巷で耳にすることばたち・・・
「日本出身」・・・疑問に思うことがなければ誰もが気に留めない表現。でも、その背景には、人々が持つ差別意識・自分第一主義が見え隠れしています。
「いじめ」・・・「いじめ」は良くないことです。人々のその想いが集結して、「いじめ」をなくそうと努力が続いています。行政だって、学校だって、いじめを無くしたい想いがあることだと思います。で、厳しいルールが作られていきます。しかし、「いじめが発生した学校は処罰される」というルールでは、学校や行政は、今まで以上に「いじめ」を隠してしまいます。横浜の一件は、その表われではないでしょうか。「いじめは許さない!! いじめが起きた学校・先生には処罰を!!」と振りかざした正義が、かえって「いじめ」を隠蔽してしまいます。「いじめ」は、人と人とが関係を持てば、どこかで起こり得ることです。その前提で、「起きた場合のこと」を考えないと、無くすことばかりを正義としていると、今まで以上に苦しむ子どもたちを生み出してしまいます。過日、子どもたちの社会で起きていることは、大人社会の投影だと書きました。大人が学校の先生をバカにした会話をしていれば、子どもたちもそういう目で先生を見ます。大人が誰かの悪口を言えば、子どもたちも「あぁ、あの人はそんな人なんだ」と見下します。「いじめ」をなくしたいのならば、先ずは私が他者を見る目を変えなければいけません。ことば封じは、苦しむ人をも見えなくしてしまいます。
「共謀罪」→「テロ等準備罪」・・・ことばを言い換えても、その内実は同じ。でも、「オリンピック・パラリンピックのため」とか「国際社会から置いていかれないため」なんて大義名分を掲げられると、「そうですね、必要ですね、ぜひ作って下さい」なんて想いに刷り込まれていきませんか? ことばの言い換えによって、自分を利するものという意識が刷り込まれてしまいますが、そんなときって、自分は悪いことはしない、悪いことをする者は厳正に処罰されるべきだ!という正義に立ってしまっています。ことばの言い換えによる刃は、私を向いているのかもしれません。

ことばの言い換えや隠蔽。その背景に、見えなくされている「いのち」真実があるようと痛感しています。
新聞やテレビ・ネットのニュースを読み聞きする際、サラッと流してしまうのではなく、ちょっと立ち止まってみてください。「あれ?」「えっ!」と言った発見があります!

2017年1月25日 (水)

自国第一主義

稀勢の里関、横綱昇進おめでとうございます。
新聞の見出しでは「日本出身」という肩書き(?)がつきまといます。「日本出身の横綱は19年ぶり」と。表現に違和感(気持ち悪さ)は感じませんか? どうして「日本人横綱は19年ぶり」と書かないのか?

昨年2016年初場所で琴奨菊関が優勝した際、「“日本出身”力士の優勝は2006年初場所の栃東関以来10年ぶり」と騒がれたものです。やはり「日本人力士の優勝は・・・」ではなく「日本出身力士の・・・」でした。

2012年の5月場所で旭天鵬関が優勝しました。旭天鵬関はモンゴルの出身です。しかし、旭天鵬関は2004年1月に日本国籍の取得を申請し、同年6月22日に日本国籍を取得して日本に帰化されました。法制上は(という言い方も嫌ですが)旭天鵬関は日本人なのです。だから、「日本人力士の優勝」は、栃東関以来6年ぶりに果たされていたのです。しかし、その当時そのような報道の仕方はなかったのではないでしょうか。「彼は日本人ではない」という想いが、日本人のこころの片隅にあるのではないでしょうか。

「日本出身の」という肩書き(?)がつくのは、自分の国・組織・グループ第一優先意識の表われのような気がします。それって、どこかの国の新大統領の意識に似てますね。他を排斥する感情が、私の中にあります。

(注)旭天鵬関の優勝をきっかけに、上記のようなことがなされ始めたわけではありません。ひとつの事例として挙げさせていただきました。いつの頃からそのような報道が為されるようになったのかは分りません。
それにしても、今日でも学業の場でハーフの子がいじめられるというニュースを聞くことがあります。子どもたちの現場で起ることは、大人社会で大人が為していることの投影です。親が、大人が、差別意識丸出しの会話をしているから、それが子どもにしみこんでしまいます。ハーフに対する偏見がありながら、オリンピックでハーフの方や、他国出身でも日本に帰化し日本代表として出場されている方には、「日本人」「日本代表」として大きな声援を送りますよね。そんな態度もにも違和感があります。元々、同じ人間、同じいのち。それなのに、自分を優位におきたい無意識の差別意識があります。

2017年1月24日 (火)

平穏なときって、ことばが響かないものです。ことばが響くときって、苦しいときです。そう想うと、苦しみはことば響かせる種なのですね。

お坊さんが悩みに答えてくれるサイトが好評とのこと。
13年ブログを書き続けているものだから、仲間内からは、「悩みに答えるサイトにも興味があるんじゃない?」「関わってるんじゃない?」というようなことを聞かれることがあります。申し訳ありませんが、まったく関わっていません。
悩みに答えられている僧侶の方々は凄いなぁと感心していますし、敬意をもっています。でも、私の性格上、無理です。ネット上でやりとりをする、メールでやりとりをするということが苦手なのです。どうしても、相手の言っていることが受けとめられなかったり、私の言っていることの内容が上手く伝わらなかったりするため、悩み事相談に踏み込むことはしていません。
ただ、ネット上やメールでのやりとりに不安があるだけではなく、相談者は耳障りのいいこと・表現の優しい人の声を頼りとしてしまうので、そこへの不安感・申し訳なさもあります。

お釈迦さまも、生きとし生けるものの悩みを聞いてきました。お釈迦さまの教えのスタイルは「対機説法(たいきせっぽう)」といわれます。人(機)に対して説法をされました。そのことを、悩みに答えるべく、教えを説いておられたことと思っていました。しかし、そうではないと考えるようになりました。
お釈迦さまの教えは抽象的です。悩みに対して、「それなら、こうすればいいよ!」「それなら、こう考えてみたらどうだろう?」と答えるのではなく、あくまで教え(真理)を説かれます。もしかしたら、周りで聞いている人は、話が噛み合ってないように聞こえたかもしれません。しかし、お釈迦さまのことばを聞いて、相談者は自分の中で考え、自分なりの答を導き出したのではないでしょうか。それが、お経の最初に書かれている「如是我聞(我聞如是)・・・私は、このように聞きました」ということばと重なって聞こえてきます。

現代、相談をされる方は、直接の答を求めておられます。「早く楽になりたい」「私の味方を見つけたい」「どうすればいいのか知りたい」。その気持ちは分ります。
しかし、楽の先がずっと楽とは限りません。楽と思った道が苦の場合もあります。
味方がみつかれば、その味方を手放したくないという独占欲と、味方に裏切られたくないという心配が芽生えます。そのように、また悩みが生じます。
どうすればいいのか(どう生きればいいのか)知りたいのは、相談を受けた方も同じです。どの道が正解か、なんて、誰にも分りません。そもそも、何が正解で何が間違っているのか、それすらも決まってはいません。
答を求めて、答(のようなもの)を与えられると、自分で考えるということができなくなります。自分に都合の悪い意見や、都合の悪い意見を言う人は相手にせず、自分にとって耳障りのいいアドバイスだけを受け入れていては、上記のことば(「しかし、楽の先がずっと楽とは限りません。~)も何を言っているの?という感じではないでしょうか。
今調べたら、当ブログで1500ちょっとの投稿をしてきました。誰かの悩みに答えようと思って書いたことはありません(誰かのことを想い浮かべながら書いたことはありますが)。しかし、想うまま感じるままに書き綴ってきたのは、たまたま当ブログに立ち寄った人が、「ふぅん、そんな考え方もあるかなぁ」「おもしろいことを言う人だなぁ」と、ちょっとでも立ち止まって、自分で考える際、選択肢や考え方がひとつ増えればいいなという程度の想いでかいています。あ、書くことによって、自分自身の中で整理をしていることもあります。
(あ、書いていて思い出しました。“ブログ”なるものの存在を知り、始めたのが13年前。その頃ブログをやる人は、あくまで自分の想いを、恥ずかしげに書いているだけだったような気がします。「こんなことがありました。私はこう感じました」って雰囲気で。ネットが日常環境にあり、直接罵詈雑言を浴びせることはできなくても匿名で鬱憤を晴らす手段としてブログやSNSを使う人が増え、ネット上のことばも、かなり濁ってきてしまった気がします。)

悩みをかわしてくれる「ひらりマント」(byドラえもん)のような道具(ことば・解決法)があればいいけれど、そんなものありません。
(現実世界での悩みをネットで吐露していたものが、いつの頃からかネットを使って他者を貶めるようになり、ネット社会で生じた悩みによって、現実世界を生きる私を苦しめる世の中になりました。たとえ便利な道具であっても、結局は使いこなせないのが人間の姿。ドラえもんに出てくるのび太君は、実は私たちの姿を投影してくれているのです。)
悩みの元となる出来事があり、そのことについて悩んでいるけれど、本当の意味で悩む(考える)ということが希薄になってしまいました。
悩み事に応えてくださっている方(サイトで応えてくださっている僧侶だけでなく)に対し、自分の意に添わない答だと相手をののしり、「早く答をください」と催促し、「あなたは分ってない!」と説教したり^^・・・。
あ、長々と書きすぎました。どうしてこのようなことを書いているのかというと、相談者の方のことを想って応えている方が、SNS上で悩んでいるのを見ることがあったからです。悩みに応える以外のところで書かれている文章が、明らかに今までのような輝きを失い、その方自身迷っているのが読み取れる文章になっていることがあったからです(あくまで、私がそう感じただけですが)。
悩みを受け止めてくれる、気持ちの強そうな友人だって、坊さんだって、みんなみんな同じ人間なんです。誰だって悩みを持って生きています。そこに想いを馳せることがないならば、たとえ悩み事に応えてもらってスッキリできたとしても、周りの大切な人を傷つけていることに気付くこともできないでしょう。それは、今の悩み以上につらいことかもしれません。

2017年1月23日 (月)

余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。(正岡子規『病床六尺』)

青木新門さんからのメッセージ
〔2017年1月22日(日)「読売新聞」朝刊内「安心の設計 生と死を問う」より〕

 健康で若々しい高齢者は増えました。しかし、いつまでも若い頃と同じように飛び続けられるわけがないから、着陸(=死)の準備は、50歳ぐらいで始めなければいけないと感じます。今後、亡くなる高齢者が激増する。私もその1人として、これから10年間、「どう死ぬか」に真剣に取り組むつもりです。  ある中学生が、祖父の死の直前3日間を振り返ってこう書いています。「ドラマで人が死ぬときは大げさだと感じていましたが、亡くなっていくおじいさんのそばにいて涙が止まらず、いのちの本当の大切さがわかりました」  私も、この祖父のような死に姿でありたい。若い人の死生観、人生観を揺さぶるような姿を見せ、子や孫の心を育てることが、われわれ高齢者の大事な役目であり、仕事なのではないでしょうか。  それが超高齢社会の良いところであり、われわれができる、若い世代への贈り物だと思うのです。

青木新門さんは、親鸞聖人のお話をされるとき、とても嬉しそうに語られます。聞いてる私の方も、嬉しい気持ちが湧いてきます。教えに出遇えた喜びを体現されている方だと思います。
高齢者の役割、死に往く者の役割を語ってくださっています。
新門さんのお話を聞きに行きたくなりました。また、聞いた者の責任として、後を生きる方々にお話を説き続けたいと思います。

新門さんのメッセージを読んでいて、ある坊守のメッセージを思い出しました。
30年ほど前に、癌のため41歳で還浄された平野恵子さんです。39歳で癌の告知を受けた平野恵子さんは、3人のお子さんにメッセージを送りつづけられました。

「人生には、無駄なことは、何一つありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。 (略) たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いてください。それが、お母さんの心からの願いなのですから。」 〔『子どもたちよ ありがとう』(法蔵館)より〕

死に向かって生きる姿とは、「死にざま」ではなく、「生きざま」のことでした。

2017年1月22日 (日)

誰もが、こころの弱さを持っているもの

稀勢の里関 大相撲幕内優勝おめでとうございます

それにしても、ここ一番に弱い姿をさして、人様に向かって「小心者」だとか「ノミの心臓」だとか、どうして他者が言えるのだろうと、ずっと思っていました。
大関になって、多くの場所で二桁を勝ち、昨年は年間最多勝。ノミの心臓に、そんなことできません。というか、こころの弱さは誰もが持っているもの。それなのに、他者を揶揄する言葉が痛々しかったです。
優勝して感謝を口にされて、いろいろな方の顔が浮かんできたことでしょう。
おめでとうございます

2017年1月21日 (土)

机上ばかりが学びの場ではなく

昨日、あるお仕事で都内某大学へ。
若人の声、学食の賑わい、研究のにおい…あぁ、学びの場っていいなぁ❤と思いました。
学生の皆さん、今しかできない学びを生き生きと👍

学生生活を終えても、人生、日々学びの場でした!
老いも若きも、立っても臥しても、忙しいときも休んでいるときも😊

2017年1月20日 (金)

監視世界

昨年2016年の刑法犯が、戦後初めて100万人を下回ったとのこと。
その理由の一つとして、防犯カメラの普及が上げられている。
一昨年の夏、寝屋川で中学生の男女が行方不明になった際、防犯カメラの映像によって容疑者逮捕につながった。
今や、防犯カメラがあって当たり前のようになっている。
しかし、防犯カメラを設置するという話が出始めたとき、多くの人が「プライバシーの侵害だ」と、反対の意を示すしていたように記憶している。ほんの数年前のことです。
防犯カメラが市民権を得て、CMでは指名手配されている人を防犯カメラが捉えた際に反応するようになっている機器が開発されていることも流されている。スゴイ進歩だなぁと思う反面、もはやそういうことに誰も反対しない世の中なのだなぁとも思う。
「私は悪さはしない。防犯カメラがあっても、気にすることはない」という前提があるのだろう。

目に見えぬはたらきなど、信じてもらえない世の中。「お天道さまが見ている」という感覚も持ち合わせていないだろう。かつては、たとえ誰もいないところであっても、「お天道さまが見ている」という気持ちがはたらいて、悪さを押しとどめるという自制がはたらいていた。と、思う。
でも今は、お天道さまが防犯カメラに変わっている。しかも、「防犯カメラが見ているから」押しとどめるのではなく、防犯カメラがないことを確認して、悪事をはたらく。お天道さまは自制を促すけれど、防犯カメラは自制までは促さない。

 

お天気は荒れ模様のようです。
みなさまお気をつけて

2017年1月19日 (木)

久寿

神奈川県小田原市で、生活保護受給者の自立支援を担当する職員が、「HOGO NAMENNA」(保護なめんな)や「不正受給はクズだ」という趣旨の英文が書かれてジャンパーを着て、勤務していたことが分かり、市長がお詫びのコメントを出しました。

「ひどい話だ」という声が上がる反面、「不正受給をするほうが悪い」という声も聞こえてきます。
このようなジャンパーを作り着るきっかけになったのは、生活保護の受給資格を失った男性が、市役所で、職員2人をカッターで切りつけることだそうです。きっかけの話を聞くと、「そんなジャンパー作りたくもなるよね」と思う方もいるかもしれません。でも、すべての生活保護受給者が、悪意を持っているわけではなく、生活保護を必要とする環境・背景・理由があるわけです。「不正受給はクズだ」というメッセージを、はじめから全面に押し出すということは(ジャンパーを着るということは)、生活保護受給者・これから受給を必要とする方すべてに対して発しているということになります。
より気になった文は、「私たちは正義だ。不正が発覚したときは追求する」という趣旨の英文です。不正が発覚したのなら、それが本当かどうか調べることは、職員の方々のお仕事でしょう。でも、「追求」は言い過ぎではないでしょうか。
また、生活保護をもらっておきながら、タバコやお酒の嗜好品を求めたり、パチンコなどの遊興費に使うと、バッシングを受けます。それも、不正の内容のひとつかもしれませんが、「生活保護を受けながら、そんなことにお金を使ってんのか!!」と怒れば済む話でもありません。以前、日本にもカジノができるかもしれないというニュースに対し、「依存症」について書きました。嗜好品も遊興費も、その依存から抜け出せないのです。「生活保護をもらっているし、こういうことにお金を使っちゃいけないな」と、思っている方もいることでしょう(思わない方も、もちろんいるかもしれません)。しかし、そう思ったからといって、すぐに止められるのであれば、本人も苦労はないことでしょう。嗜好品や遊興への依存状態にあるがゆえに、生活保護を必要とする状況になってしまった。そういう方もいるのではないでしょうか。生活保護の不正使用や、生活保護を受けることそのものを見下す方もいますが、どうしてそうなったのか?まで見る(考える)人はいません。意志の弱い人が、依存状態に陥るのではありません。誰もが、何かに依存しながら生きているのではないでしょうか。嗜好品や遊興の人もいます。家族や恋人という人もいるのではないでしょうか。でも、関係が上手くいっていれば依存対象のためにがんばろう!という気持ちも湧きますが、関係が崩れると、やはり他の何かに依存し(その場合に嗜好品や遊興でしょうか)、お金の使い方が狂ってしまうのではないでしょうか。「明日は我が身」という意味で言うのではなく、誰もが生活保護を頼りとすることが有り得ると思います。それなのに「不正受給はクズ」という表現は、「自分はそうはならないけどね」という上から目線の気持ちが詰まっています。「私たちは正義だ」という感覚は、目の前の人だけでなく、私自身をも見えなくしてしまいます。

このニュースを受けて、こんなことがありました。
昨年日本中を席巻した「保育園落ちた日本死ね」のことば。
(その表現に嫌悪感を抱く方も多くいましたが、私は、ことばが生まれた背景を想うと、「“死ね”ということばは良くない」というきれい事でかき消してしまうようなことばではないと受けとめました。この「死ね」は、「生きたい」「一緒に生きたい」「一緒に生きよう」という想いの裏返しですから。)
「日本死ね」ということばやその発信者に対し、「そういう言葉遣いは許せない。子どもが保育園に入れないのは、そんなあなたにも原因があります」と言っていた方が、今回の「不正受給はクズだ」に対しては、「それぐらい言って当然です。職員さんは職務を全うしていると思います。」と言っていました。
自分の主張するところに反すれば「人を蔑むことばだ」と罵り、自分の主張と合致すれば「よくぞ言った!」と誉め讃える。ホント、私は自分に依存して生きています。だからこそ、自分が正義でないと困るのですね。

今回の投稿は、ちょっと正義に立ったつもりになってしまったかもしれません。

2017年1月18日 (水)

名前は記号ではない

報道で被害者 加害者の名前が出ることに違和感を持っています。
未成年者が罪を犯したときに、その実名報道が問題視されることはあります。けれど、年齢に関係なく、「被害者 加害者の名前が出ることに違和感がある」と書くと、「なんで?」と思われるかもしれません。

東本願寺真宗会館発行の「サンガ」(№142 2016年7月1日号)で、森達也さんが、実名報道について触れていました。

(前略)つまり匿名報道だ。中国だけではない。韓国やヨーロッパの多くの国においても、このルールは守られている。ほとんどの事件において、固有名詞は報道されない。だから初めて日本に来た外国人の多くは、ニュースで実名が晒されることに驚いたとよく口にする。 なぜなら被害者の名前や顔を知ることに、公共的な利益はまったくない。むしろ遺族や本人を傷つける。さらに加害者の名前も出さない理由は、裁判で有罪と決定するまでは無罪として推定され、そのように扱われねばならないとする無罪推定原則だ。容疑者という言葉が示すように、逮捕や取り調べの段階では、まだ疑いをかけられているレベルなのだ。ならば晒すべきではない。冤罪の可能性は常にある。その場合のダメージは取り戻せない。 無罪推定原則は、近代司法国家では大前提の原則だ。日本ももちろん同様だが、メディアはこれを守らない。なぜなら顔や名前を晒したほうが、視聴率や部数が上がるからだ。 (中略) 事件や災害の固有名詞を晒すことを当たり前としている国は、実は世界でも相当に少数であることくらいは知ったほうがいい。

オウムサリン事件で、被害者の一人が容疑をかけられ、さも犯人である、殺人犯であるという報道がなされたことを覚えていませんか? 結果、その方は犯人ではなく、マスコミも、無罪推定の原則に立つことを、そのときは誓っていたように見えました。しかし、現代(いま)もなお、疑わしくを罰する報道ばかりです。
しかし、名前を晒すのはメディアですが、それを求めているのは私です。実名報道に慣れた(それが当たり前)と思っている私は、実名報道を求め、物事の原因・理由を求める。それに、メディアも乗っかっている一面もあります。

昨年7月の相模原市の障害者施設で19人が殺害された事件の際、犠牲になられた方々の名前が公表されませんでした。そのことについて、「障害者差別だ」、「いえそうではない」などというやりとりがありました。
私は、実名報道そのものに懐疑的だったので、名前が公表されないことは当たり前ではないかと思いながら報道を見ていました。

2017年1月14日(土)「東京新聞」朝刊の「あの人に迫る」というコーナーで、玉木幸則さん(ご自身も脳性麻痺を患い、手足と言語に障害を持ちながら、障害者の自立支援活動を長年続け、NHK Eテレ「バリバラ」に出演されています)をを取材をされていました。
「亡くなった19人の実名が公表されなかったことを、どう考えますか」という質問に、次のように応えられています。

僕は実名報道に意味はないと思っています。障害のない人が殺された時でも、遺族からしたら「言わんとってくれ」「何で名前を出さなあかんの」と思っているはず。でも、そのまま名前が報道されてしまう。ところが、障害者が犠牲になった今回の事件は、遺族が「名前を出さないで」と言ったから報道しないということになっている。名前を出してもいい人、あかん人がいる。そこが差別なんやないですか。

名前を出すのか出さないのかが議論の対象になった感があったけれど、問題はそこではない。事件の被害者が障害者だったので、そこで普段とは違う対応をした。そこに、差別性が潜んでいる、差別性が顔を現した、と仰っているように聞こえます。いわゆる健常者と言われる方々が襲われたのであれば、当たり前のように被害者の実名が報道されていたことでしょう。
「実名報道に違和感がある」といいながら矛盾した物言いになりますが、今の日本ならば、相模原の事件の被害者のお名前も、他の事件と同じように、実名報道されるべきだったのです。でもそれをしなかった。大義名分は「遺族が名前をださないでと言ったから」ということになっていますが。ここに、根深い差別性が表出しています。

森達也さんと玉木幸則さんのことばから、
「名前を知ろうとしながら、人を、いのちを見ていない私」ということを想いました。

2017年1月17日 (火)

生きているということ

2017年1月17日(火)
阪神淡路大震災から22年
あの揺れを、京都で経験しました。
震災の年に生まれた方々が成人し、想いを持ちながら活躍されるときになりました。
記憶は薄れてゆくもの。でも、決して忘れてしまう、記憶がゼロになってしまうわけではなく、どんどん上書きされてゆくゆえに、記憶は薄れるのだと想います。悲しい記憶が土台にあって、こころの中の葛藤、人との出会い、すすみゆく時間などに上書きされ、今を生きている。

今朝「阪神淡路大震災追悼法要」をお勤め致しました。
広報しているわけではないので参拝者はいませんが、本堂の扉を開けてこれからお勤めを始めようとしたとき、おじいちゃんが一人本堂に入ってこられました。

「これから阪神淡路大震災の追悼法要をお勤めするので、一緒にお参りしませんか?」と声をかけると、一緒にお参りをしてくださいました。
お勤めを終え、「せっかくだから、お焼香もなさってください」と声をかけると、「ありがとうございます」と言って、お焼香をして、手を合わされました。

おじいさんは、「よかった、よかった、ありがとう、ありがとう」と言って帰られました。
おじいさんも、何か抱えていらっしゃるのですね。
本堂で共に手を合わせることができて、よかったです。
一緒にお参りしてくださって、ありがとうございます。

2017年1月16日 (月)

分析は分かりやすいかもしれない。けれど、おおいなるものを見失ってしまう

ある雑誌で、「いまの日本人に宗教は必要なのか」という特集で、5人の専門家(?)へのインタビューが載っていた。読んでいると、それぞれに「なるほどなぁ」と思うところはあったけれど、でも、そんなもんかなぁ?とも思った。
専門家らしく、現代日本を捉え、分析しているのだけれど・・・。
「宗教は必要なのか」という問いの立て方が、「宗教なんて必要ない」という、いまの日本人の多くの人の感覚を表わしているように想う。宗教は、人々が必要として生み出されたものでも、必要を感じて選ばれたものでもなく、生きることにおいて必然的に生じたものではないだろうか。だから、人間の側が宗教を必要か否かを考えることに違和感を感じたのだろう。
この世の苦しみに悩み、嬉しいことがあってもまた悩み、いのちの尊さを訴えながらいのちを疎かにする現実に不信感をもち、やがて訪れる死について憂い・・・そのような人生、宗教というバックボーンが既にしてなければ、人間は問いを抱えて生きることはできないだろう。
問いをもって生きることの尊さを言われるが、(答えなき)問いを持って生きることができるのは、人知を超えたはたらきに包まれているからである。つまり、いつの時代を生きる人間も、宗教を生きている。

2017年1月15日 (日)

教えは、ときを超え、人を通して伝わります

喫茶店で、隣の席に座ってたおばちゃまたちの会話。(聞く気はまったくありませんでしたが、声が大きいもので💦)

「散骨したんだけど、いろいろとお金がかかるのよ!お墓買った方が安かったわ!」
「ビルの中のお墓あるじゃない。お骨と戒名が出てくるの。あれ、お掃除しなくていいから楽よね」
「お寺から50回忌の案内きたのよ。なんで知らない人間の法事しなくちゃなんないのよねぇ!」

マシンガントーク炸裂!
でも、教えに触れる機会がなかったら、このおばちゃまたちの考え方が普通(多数派)なんだろな、と思いました。
自分や、目に見えて自分に関わりのある人にしか関心がないと、「無量寿」「無量光」のお話はなかなか伝わらないはずだなぁと感じました。
私も、お寺でないところに生まれていたら、おばちゃまたちと同じようなことを考え、家族と会話していたことでしょう。
教えに出遇えて、いろいろと考える時間をいただきました。感謝です。

2017年1月14日 (土)

わざわざ言うということは…

流行りものに対して、「どこがいいのかわからない」「どこが面白いのかわからない」「どこが楽しいのかわからない」といった声(批判)を聞くことがあります。
嗜好(思考)は、千差万別。ある物事に対し、好きな人がいれば嫌な人がいて当然。流行りものは、気に入った人がちょっと多かっただけのこと。
あえて「どこがいいのかわからない」と言う必要もないのに…と、思うんだけど、「どこが」云々言うためには、一旦は流行りものに触れてみなければ判断がつかない。
本当に嫌なら、ことばにも出さないはず。ということは、実は気に入っているのかも。
「アンチ○○」なんて、わざわざ言わなくていいこと。だから、アンチファンも実はファンのうち。
「どこが」云々言う人も、実ははまっているのかもしれない。

あ、でも認めたくないなぁ(^∇^)

2017年1月13日 (金)

子どもも、ひとりの人間です

子どもの育て方に関して、多くのコメンテーターがいて、多くのHow to 本が販売され、サイト上で質問を投げかける(特に)お母さんがいて、それだけ子育てとは、悩めるものなのだなぁと思います。
同時に、それだけ多くの方が、“ひとり”で抱え込まれているのだなぁと感じます。

何事も、“ひとり”でやろうとしては一側面しか見えないし、多様なことはできないし、限界があります。
それに、世に溢れる情報(子育てに関する「答」と称するもの)は、決して正解であるとは限りません。
ひとりで抱えてしまうから、正解や近道を求めてしまいますが、子どもだってひとりの人間です。私だって、他者(ひと)からのアプローチに対して様々な対応をするように、子どもだって、好きな人には嬉しそうに振る舞い、嫌いな人には嫌な顔をします。同じことを言われても(されても)、自分が好きな人か否かで、私だって態度や顔つきは変わるでしょ。
「良い子に育てるためには、どんな育て方をすればいいの?」・・・悩む気持ちは分かるけれど、答はありません。
優しく育てれば優しい人に育つかといえば、そうなる子もいるし、優しさに鬱陶しさを感じて親から離れる子もいるでしょう。厳しく育てれば他人に迷惑をかけない人に育つかといえば、そうなる子もいるし、厳しさに悲しみを感じて親や他者を責める子もいるでしょう。
そもそも、こういう育て方をすればこういう人に育ちますなんてノウハウや答があれば、とっくに実践されています。でも、そんな答はないし、あったとして、みんなが同じように育つなんて、気持ち悪くありませんか?

複数の人間が子どもに関われば、ある人が怒ったときには、べつの人が優しく抱きしめてあげればいい。子どもの周りにいる人みんながみんな同様に、怒ってしまったり、甘やかしてしまったりしては、それは子どもも逃げ場を見失ってしまいます。様々な人から様々な接し方を受ける中で、子どもは子どもで、安全地帯やはけ口を見つけ出します。

“ひとり”で、“育てる”つもりだと、厳しい。子どもにとっても、あなたにとっても。
できるだけ多くの方人が子どもに接する。そして、子どもは人を知る。

気になったことは、
「このような人間に育てるためには、どう育てれば良いのか?」という考え方をしてしまう、子どもを自分の所有物のように、自分の思い通りにしようとする眼。
でもそれは、ある意味当然の想いでしょう。親不孝な子に育って欲しいなんて思いながら育てる親もいないでしょう。そう考えてしまう背景が、気になります。
上記のような考え方をしてしまうのは、ひとりの人(多くは母親)に、子育てが任されているということ。それゆえに、「良い子に育てなければ」と、気構えてしまいます。余裕やゆとりを無くしてしまいます。複数の人間が、子どもと接する。複数の人と、意見交換する。そうしたなかで、あなたのストレスも、子どものストレスも、分散・霧消していきます。

なんて投稿も、意見のひとつです。

2017年1月12日 (木)

西蓮寺聞法会新年会

昨日は「西蓮寺聞法会・新年会」。
「聞法会」と「コールリンデン(仏教讃歌を歌う会)」と「白骨の会(仏教青年会)」、西蓮寺3つどい合同新年会を開催しました。報恩講と新年会にて、一堂に会します😊
23名の参加。今年もよろしくお願いいたします。
寺のつどいは、全門徒さんにご案内してますが、その中で集まった23人。それだけでも不思議なご縁なのに、坊守と同い年のご婦人が6人(偶然)。なんか盛り上がってんなぁ?と思ったら、そんなわけでした。共通項があると、話も盛り上がりますね。

2017年1月11日 (水)

親子丼の味が、昔と変わらないです

2017年1月7日(土)放送 NHKスペシャル「ばっちゃん 子どもたちが立ち直る居場所」

帰る場所 行く場所がない子は こころがすさんでしまう

家庭の事情で問題行動を起こしてしまう子どもたち。そんな子どもたちに食事を与え、話を聞き続ける“ばっちゃん”がいる。食事を食べるだけでも、多くの子は居場所を見つけることができる。若いときは暴走をしてしまうだろう。でも、ふと落ち着いたとき、そこには“ばっちゃんがいる”。ばっちゃんの元を巣立っていった子どもたちの中には、職に就き、結婚をして、子どもを持つようになった人もいる。そして、ばっちゃんに報告をしにくる。

子どもは語る
「一番つらかったことは、居場所がないこと。精神的な面で」
ばっちゃんの元で食事をしては、飛び立ち・・・そしてまた何かあったとき、戻ってくる場所は、“ばっちゃん”
真っ先に頭に浮かぶ。ばっちゃんが居場所になっている。

非行を防ごうという、仰々しい想いはないと思う。お腹をすかせた子どもたちに、食べさせてあげたい。30年以上、子どもたちに向き合っている。
取材陣は、長年取材を続けているのでしょう。古い映像も時折出てくる。「どうしてこの活動を続けているの? やめたいと思ったことはありませんか?」と、たびたびばっちゃんに問うている。ばっちゃんは言う。「分からん。いつもいつもやめたいとおもっているけど、でも、続けている」と。

非行に走る子どもたちは、みな腹をすかせている。30年以上にわたり手料理を振る舞うなどして、その立ち直りに寄り添ってきた“ばっちゃん”こと中本忠子さんのドキュメント

番組の最後、ナレーションが流れます。
「同じ質問を繰り返す私たちに、ばっちゃんが言いました。「なぜ続ける? 子どもから面と向かって“助けて”と言われたことがない人には分からないんじゃないかな」と。」

2017年1月10日 (火)

「壁」は、外から他者(ひと)が入ってこないけれど、自分から出ていくこともできない

2017年1月8日(日)放送 TBS「サンデーモーニング」より
早稲田大学名誉教授 加藤諦三先生(社会心理学)のことば

得体の知れない不安に突き動かされたとき、人はなぜ「壁」をつくるのでしょう?

心に「壁」をつくるということは、人とのコミュニケーションができなくなったということ
自分の価値が否定されるのが怖いし不安だから
心の「壁」をつくって自分の世界に閉じこもる

現代のリーダー達が、しきりに排他的な言葉を口にするのは?

人間というのは矛盾した存在で
基本的に「成長欲求」と「退行欲求」を持っている
「成長欲求」は、負担を背に成長していこうということ
大変厳しいが、結果として人間にとって幸せがあるということ
「退行欲求」は、その場の満足を求める
負担から逃れたいという、小さな子どものいいとこ取りみたいなこと
昨年(2016年)は、世界は明らかに「成長欲求」を拒否した 「壁」をつくった
去年に流れのまま、それぞれの国が「退行欲求」に従えば
人類が“成長を拒否した”流れが主流になってしまう
非常に危険な状態になる

今世界は、「壁」をつくろうとする、内向きな「退行欲求」の流れの中にある

加藤先生のことばは、社会心理学者としてのことばでもあるけれど、人間そのものを内観していることばのように聞こえてきます。
「成長欲求」とは、経済的成長のみを意味するのではなく、「人とつながっていたい欲求」だと、私は受けとめます。しかしそのためには、鬱陶しいことも多く、一部の仲良し・同じ経済レベルの人間とつるんでいればいいという、“退行した欲求”も生じてきます。
「成長欲求」と「退行欲求」、どちらが良くてどちらがダメで、という話ではなく、加藤先生も「矛盾した欲求を持っている」と仰っるように、どちらも持ち合わせているのが人間。しかし、今はその「退行欲求」の面が、経済的・地位的にトップに立つ人間から溢れ、不満や不安を抱える人々に浸透していっています。そんな時代です。
番組で、出演者の寺島実郞さんが指摘しています。
「世界人口が75億に成ろうとしている時代、60億超の人間が“成長欲求”の中を生きている。途上国や新興国など。“成長欲求”のど真ん中にいます。民主国家において、とんでもない選択が進行している衝撃の中で、リーダー国は、負担があっても世界をまとめていくために一歩前に出ようよという役割を果たしてきていたのに、“退行欲求”の中に引きずり込まれている。羅針盤がなくなってきている。(扇動されるのではなく)自分で考えなければいけない」と。

2017年1月 9日 (月)

成人の日 人としてできることを

どんな時でも自分のできることを粛々と
福島第一原発の事故後、避難指示が出た後も福島県広野町に残り、患者さんの診療を続けた高野病院の院長、高野英男さんのことば。

ところが、昨年末、高野院長は自宅の火災で亡くなられました。
常勤医は高野院長ただひとりでしたが、亡くなられた高野院長の想いを受けとめられたボランティア医師や職員の方々が病院の存続へ尽力されています。

2017年1月 8日 (日)

私たちの目線でみると、ご本尊までも価値判断の眼で見てしまう。ご本尊の眼からは、すべてのいのちが平等です

昨日NHKのニュースで、京都のあるお寺のご本尊(仏像)について報道していました。
そのご本尊は、江戸期の製作と思われていましたが、調査の結果、仏教が日本に伝わった頃に、朝鮮半島で作られたものである可能性が高い、と。

国宝級の発見だそうです。貴重な発見であったため、盗難の心配が出てきました。
お寺では、そっくりの仏像(半跏思惟像)を造り安置し、当の仏像は博物館に保管してもらうそうです。

ニュースでは、新たに作った仏像を檀家さんにお披露目する場面が映し出されていました。
自分の菩提寺のご本尊が、国宝旧の仏像であったことに驚く声とともに、「ご本尊が保管されてしまい、残念です」という感想を述べている方もいました。

そうですね。今まで親しんだご本尊が博物館で保存されるのは淋しい気持ちだとお察しします。
でも、安心してください。お寺に行って、ご本尊の前で手を合わせ、わが身を省みるご縁をいただける。本当に尊いものはなんだろうか?と考えるご縁をいただけるのですから、新しい仏像もまた、皆様にとって「ご本尊」であることに変わりありません。決して今までのご本尊の変わりとしてではなく、そのお寺さまのご本尊として仰ぎ見ていただけたら、淋しさもなくなることと思います。

ご本尊が保管されてしまうことよりも、貴重なものであると分かればご本尊をも骨董品にしてしまう私たちの心根が悲しいですね。(お寺やご本尊の由緒を気にされる方がいますが、「そんなこと聞いて、何がつがうんだろう?」と思っています。手が合わさるはずのない私が、手の合わさるご縁をいただいている。それが寺という場であり、ご本尊からいただいているはたらきなのですから、由緒など気にする必要はないのですが。)
今日も南無阿弥陀仏

2017年1月 7日 (土)

「納得」とは、自己納得ではないだろうか。それが本当のこととは限らない。

昨日、報道の内容について書きました。けれど、プライバシーを侵害するような内容に踏み込んでまで報道が為されるのは、求める人がいるから。
どうして? なぜ? を求めるのは、「納得」をしたいから。

でも、この世の中で、「納得」し得ていることって、果たしてあるでしょうか。
気にかかることでなければ、「納得させてよ!」というほどまでに、しつこく求めないでしょう。
気にかかることは、しつこく探ります。
「納得するまで話し合いましょう」「納得するまで話してください」と、会話を持ちかけても、納得ってできないのでは? 自分は納得できたとしても、相手はしてないということもあります(会話をすること自体は、良いことだけど)。
私たちは、「納得」ではなく、「妥協」しながら生きているのではないでしょうか。「妥協」というと、あまり良い響きではないけれど。「妥協」しあえるから、次に進める。「納得」しなきゃ次に進めなかったら、誰も進めなくなってしまう。

「納得」してスッキリしたい気持ちは分かるけれど、それならば、私の気持ちを相手に伝えるのって難しくありませんか? 相手が「納得」できるほど、私は物事を語っているだろうか。想いを伝えているだろうか。
それに、相手が「納得」を求めるほど「キチンと話してください」という内容って、実は私の胸の内に収めておきたいことではありませんか?
だから、私が「納得」できないときって、相手の中に言いたくないことがある。胸の内にしまっていることがある。そういうことだと「想像」する力が必要では。

愛されつつ解散されたSMAP。感謝の気持ちを伝えるタイプの人と、「解散の理由を結局ハッキリとは言ってない。納得できない!!」というタイプの人がいるという記事を見て、上記のことを思いました。
私の中に収めておきたいことがある。で、本人が語ってないんだから、周りが詮索する必要もない。茶飲み話・酒の肴として、その場にいる人が勝手にしゃべって盛り上がるのは自由だけど、結局のところ想像でしかないことを、「○○が悪い」とか「○○が孤立している」とか「○○が□□を憎んでいる」とか言いふらすことはない。(あ、SMAPに限った話をしているのではなく、私たちの日常の話)。そういうのって淋しい。「勘ぐられたくないなら、本当のことを話せ!!」って論調になるのだろうけれど。

想像を言いふらすのは、SNS内では多々アップされている。だから、本当のことなのか、嘘なのか見極めなければならない。あるいは「面白い話だなぁ」程度の話として受けとめなければいけないのに、マスコミや政治家までも、真偽をたしかめずにネット上の情報を何の疑いもなく本当のことと受けとめ、他者(ひと)を傷つけている。
恐ろしい世の中になっている。

2017年1月 6日 (金)

何を伝えたいのだろう? 何を知りたいのだろう?

フランス留学中の日本人女性が殺害された事件。
容疑者の男性と親しくしている頃の映像が、報道番組で流れる。
容疑者は、まだ容疑がかけられた段階だから、顔は消されている。殺害された彼女の顔は、当然のごとくハッキリ分かるように流されている。
その映像を流す理由は、根拠は、権利はあるのだろうか?

別れたカップルの男性(女性の場合もあるか)が、元カノ(元カレ)の写真・映像・ありもしない情報をSNS上に流すことが行われ、問題となっているけれど、
報道においてプライベート映像を流すのも、似た事象ではないかと思う。

そこは触れてはいけないでしょうという部分がある。
「真実を伝えるのが使命」
「真実を知る権利がある」
などと言うけれど、
どこに真実がある?

興味本意・憂さ晴らし目的のSNS上の情報垂れ流しと、報道が似てきた気がして、気持ちが悪い。

2017年1月 5日 (木)

衆生・・・生きとし生けるもの

2017年1月5日(木)
おはようございます
昨晩、お風呂に入ろうとしたとき、テレビで「ためしてガッテン」(あ、今は番組名「ガッテン!」ていうのか!)が始まりました。
普段ガッテンは見てないのですが、テーマが「尿酸値」だったので、つい見始めました。尿酸値が高いもので。
「尿酸値が高いと通風になりやすい、食べ物・飲み物に気をつけなければ」と一般的に思われています(私も思っていました)が、食べ物が原因で尿酸値が上がるのは2割程度だとか。8割近くの原因が、細胞。つまり、誰もが体内で尿酸を作っていることに変わりはなく、尿酸値の高い人は、体質的にその排泄が上手くできていないのだそうです。
排泄を促すためには、毎日飲むコップ一杯の牛乳が効果的とのこと。「あ、毎朝飲んでてよかった!」と、普段そのような情報を気にも留めないのに、ホッとした自分に苦笑い。でも、尿酸値が高いのに痛風未経験なのは、牛乳とヨーグルトを毎朝摂取していたからかな。

ガッテンが終わってお風呂に入ろうとしたら、番組そのまんまの流れで「探検バクモン」へ。テーマは「築地本願寺」。
つい、見続けてしまいました。

番組冒頭で、ゲストのミッツ・マングローブさんが、「こんな私が、このようなところに来ていいのかしら」というようなセリフを言われてました。
彼は(彼女は、かな)、女装家であり、ドラァグクイーン。そういうところを気にしての発言なのかな、と想いながら聞いていました。「そんなこと、まったく気にしなくていいのに・・・」と思いながら。テレビに出ていた築地本願寺の僧侶の方も、「阿弥陀さまは、すべての生きとし生けるものをお救いくださいます」と言われていたので、「うんうん」と思いながら見ていました。
それでも、ミッツさんは「こんな私が・・・」と何度か口にされました。よほど気にされているんだなぁと感じました。

独特な造りの築地本願寺。設計者の伊東忠太氏は、真宗門徒のためだけに限った建物にするのではなく、すべての人々を受け入れる想いで、教会風でもあり、モスク風でもあり、インド建築風でもある、この築地本願寺を設計したのではないか、とのことでした。
番組撮影中も、築地本願寺本堂内には、様々な国の人々、様々な宗教の人々が立ち入られていました。容姿も、生まれも育ちも、性別も、宗教も、考え方も違えど、阿弥陀さまから見れば、みんな同じ救うべきいのちです。
「こんな私」なんて思う必要もないし、「こういう人間はダメだ!」なんて言われる人はいません。

途中のやりとり
(僧侶)「生きとし生けるものをすくいます」
(ミッツ)「便利な言葉ですね」
私も、“生きとし生けるもの~”の表現をよく使うので、「う~ん、便利な言葉かぁ。便利に使ってしまっていたかもなぁ」と、考えました。

それにしても、トランプ氏が大統領選を制するに至るに、白人至上主義者の力も一旦だったことを思うと、私たちは、自分と同じもの(同じ種類と言っていいのだろうか、いや、あまり良い表現じゃないなぁ)を贔屓しますよね。優れたものとして判断します。人種に限ったことではなく。
それならば、自分と同じ性をこそ好きになる方が本来のあり方ではないですか? それなのに、好きになる対象は、多くは異性と決められている。それが自然なことだと。同性愛者は差別の目で見られることが多い。だから、ミッツさんも負い目に感じることがあって、「私が築地本願寺さんに立ち入ってもいいのですか?」というようなことばが出てきたのではないでしょうか。
そもそも、どうして宗教の違い、性に対する考え方(考え方というのも違って、「本能的な想い」かな)の違いに対して、人は厳しく攻めるのだろう。考え方の違いがあることは、当然のことだけど。千人いれば、千通りの想いがある。対立・憎悪に転化するほどに、違いが受け入れられない背景には何があるのだろう。
結局は、考え方や思想云々というより、許容量の狭さが原因でしょうか。

そんなことを、番組を見ながら考えていました。

2017年1月 4日 (水)

未来へつなぐ

箱根大学駅伝、青山学院大学3連覇おめでとうございます。
青山学院大学の原監督は、選手の未来を見据えて指導をされているように感じます。
プロ野球の南海・ヤクルト・阪神・楽天で監督を勤められた野村監督も、「選手人生は、人生の中のほんのちょっとの期間。辞めてからの方が長いのだから」と、選手としてよりも、社会人としての振る舞いを厳しく指導されていました。
技術的な指導はコーチに任せて、長い目で、選手の、人の未来を見据える。そのことに重きを置くのが、監督の仕事なのかもしれません。責任をとることも。
周りへの信頼・感謝がなければ できないことです。

2017年1月 3日 (火)

我等は生死を並有するものなり(清沢満之)

☀おはようございます☀
新年とは思えない暖かい正月を迎えています。
お寺の第2掲示板、武田定光先生(江東区 因速寺住職)に教えていただいた漢字を掲示してます。

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2017年1月 2日 (月)

しるしたるものは、うせず候う(蓮如上人)

年賀状が手元に届いています
年末年始の感慨にふける間もなく働いてくださっている方々のおかげです。ありがとうございます。
昨年までの数年間、1月2日にも年賀状の配達をしてくださっていましたが、そこまでされる必要はないと思います元々1月2日の配達はなかったのに、元日に賀状が届いた人への返事を早く届けて欲しいという要望から、1月2日の配達をするようになったとお聞きしています。年賀状を出していなかったのは、ご自身の問題なので、他の誰かの手を煩わせるのは申し訳なく思います。ちゃんと3日4日には届けてくださるのですから、それでも有り難いことです。

ことばを発してくださった皆様
ことばを届けてくださった皆様
ありがとうございます
今年もよろしくお願い致します

2017年1月 1日 (日)

2017年1月のことば

年が明け、2017年を迎えました。
年が暮れるとか明けるとか、時の経過が早く感じますねとか、そんなことを気にする生き物は、おそらく人間だけではないでしょうか。
他の生き物にとって、一刻一刻を必死で生きていることに何も変わりはなく、時の移ろいを気にしている暇などないことでしょう。
人間が暇しているというわけではなく、時の流れを感じられるのならば、感じるこころを大切に生きたいものです。
丁寧に生きたい。地球目線から見れば、ほんの瞬間にも満たない人間の一生かもしれませんが。
本年もよろしくお願い致します

   

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じっと西に沈む落日を心にとどめよ
                  仏陀

母なる海

 波は、海から生じる
 広く大きな海原に、無数の波が生じる
 生まれては消え、消えては生まれる波

 波だけを見ていれば
 一つひとつ個々別々の波だけれど
 広く大きな海を見つめれば
 一つひとつの波も、ひとつの大きな海

亡きいのちも 新しいいのちも
西蓮寺は、真宗大谷派 東京教区 東京五組に所属します。20ヵ寺の寺があり、教えを伝えるために、日頃研鑽し合い、語り合っています。
昨年暮れ、東京五組の2ヵ寺の前住職が、阿弥陀の浄土へ還られました。葬送の儀に間近で立ち会わせていただき、先往く人の歩みを見届けさせていただきました。
昨年10月から、東京五組の4ヵ寺で、新しい「いのち」が誕生しました。誕生は、赤ちゃんもお母さんもいのちがけのお仕事です。よく生まれてきたね、おめでとう、ありがとう。生まれて間もない「いのち」から、先を生きる者としての責任を感じます。それと同時に、生命のたくましさ・エネルギー・目に見えない「はたらき」を感じさせていただいています。

2人の死と、4人の誕生。世間の常識では、悲しい出来事と嬉しい出来事と色分けされることでしょう。しかし、死も生も、「いのち」が生きている証です。個々の寿命だけを見つめれば、ある人はいのちを終え、ある人はこの世に誕生したという、まるで別々の出来事として捉えられます。それゆえに、死は忌み嫌われ、誕生は歓迎されるのでしょう。しかし、大きな海に生じた波は、決して海から独立して在るわけではありません。また海に戻り、海として在り続けます。私もまた、広く大きな海のような「いのち」から、私として姿を表わしているのです。決して「いのち」から独立して在るわけではなく、また「いのち」に還り、「いのち」として生き続けていきます。「いのち」とは、個々の寿命を意味するのではなく、「いのち」から姿をあらわしたのが私であり、寿命尽きた後も、「いのち」として生き続けます。死も、誕生と同じ「いのち」の営みであり、決して忌み嫌うことではありません。
昨年暮れ、いのちをかけて生き尽くした方と、いのちがけで誕生した方から、大切な気付きをいただきました。

迷惑は、かけてるんだってば!
葬送の儀に限らず、冠婚葬祭は、私のこころを揺さぶります。喜怒哀楽が表出する場であり、自分に託された責任を受けとめる場でもあります。あらゆる儀式が簡素化される現代。そのことは、私のこころを揺さぶる場を無くすことであり、責任を感じる場を失うことにつながります。
「(遺される)家族に迷惑をかけたくない」からと、葬儀の簡素化や、直葬(葬送の儀をせず、直接火葬にすること)を遺言する方が増えました。
しかし、考えてみてください。人の死を葬送するということは、どのような内容であれ大変なことです。私が死ねば、どんなに簡素化を遺言しても、どんなに遺産を遺しても、迷惑がかかることに違いはないのです。ましてや、迷惑とは、死んだときに初めてかけるものではなく、生きている間にかけ続けているものです。そのことに鈍感で、「家族に迷惑をかけたくない」なんて、思い上がりです。
「家族に迷惑をかけたくない」ではなく、「迷惑をかけてゴメンね。でも、一緒にいてくれてありがとう。最期も迷惑をかけるけど許してね」ということばを、堂々と遺して往きませんか!  人は、他者に迷惑をかけずには生きていけない生き物であること、つまり迷惑をかけ合いながら生きているということを伝え往くことが、生きた証であり、遺言です。

日は、東から昇り西に沈み、そしてまた東から昇る

 人が、個々別々に生きているのなら
 自分の好き勝手に生きられるだろう
 迷惑をかけずに生きることもできるかもしれない
 けれど、同じ海(いのち)から生じて、
 同じときを生きて
 同じ海に還ってゆく
 だからこそ、
 自分の思い通りには生きられない
 迷惑をかけ合いながら生きて往く

 人が、個々別々に生きているのなら
 誕生から死への一人旅
 死は、終着点かもしれない
 けれど、同じ海から生じて、
 同じ海に還り、
 同じ海からまた生じる
 だからこそ、
 常に海(いのち)に伴われながら
 始まりも終わりもない旅を続けて往く

   

2017年1月1日
日の出と西に沈む落日
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掲示板の人形
2016年から2017年 申年から酉年へ

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