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2017年1月 1日 (日)

2017年1月のことば

年が明け、2017年を迎えました。
年が暮れるとか明けるとか、時の経過が早く感じますねとか、そんなことを気にする生き物は、おそらく人間だけではないでしょうか。
他の生き物にとって、一刻一刻を必死で生きていることに何も変わりはなく、時の移ろいを気にしている暇などないことでしょう。
人間が暇しているというわけではなく、時の流れを感じられるのならば、感じるこころを大切に生きたいものです。
丁寧に生きたい。地球目線から見れば、ほんの瞬間にも満たない人間の一生かもしれませんが。
本年もよろしくお願い致します

   

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じっと西に沈む落日を心にとどめよ
                  仏陀

母なる海

 波は、海から生じる
 広く大きな海原に、無数の波が生じる
 生まれては消え、消えては生まれる波

 波だけを見ていれば
 一つひとつ個々別々の波だけれど
 広く大きな海を見つめれば
 一つひとつの波も、ひとつの大きな海

亡きいのちも 新しいいのちも
西蓮寺は、真宗大谷派 東京教区 東京五組に所属します。20ヵ寺の寺があり、教えを伝えるために、日頃研鑽し合い、語り合っています。
昨年暮れ、東京五組の2ヵ寺の前住職が、阿弥陀の浄土へ還られました。葬送の儀に間近で立ち会わせていただき、先往く人の歩みを見届けさせていただきました。
昨年10月から、東京五組の4ヵ寺で、新しい「いのち」が誕生しました。誕生は、赤ちゃんもお母さんもいのちがけのお仕事です。よく生まれてきたね、おめでとう、ありがとう。生まれて間もない「いのち」から、先を生きる者としての責任を感じます。それと同時に、生命のたくましさ・エネルギー・目に見えない「はたらき」を感じさせていただいています。

2人の死と、4人の誕生。世間の常識では、悲しい出来事と嬉しい出来事と色分けされることでしょう。しかし、死も生も、「いのち」が生きている証です。個々の寿命だけを見つめれば、ある人はいのちを終え、ある人はこの世に誕生したという、まるで別々の出来事として捉えられます。それゆえに、死は忌み嫌われ、誕生は歓迎されるのでしょう。しかし、大きな海に生じた波は、決して海から独立して在るわけではありません。また海に戻り、海として在り続けます。私もまた、広く大きな海のような「いのち」から、私として姿を表わしているのです。決して「いのち」から独立して在るわけではなく、また「いのち」に還り、「いのち」として生き続けていきます。「いのち」とは、個々の寿命を意味するのではなく、「いのち」から姿をあらわしたのが私であり、寿命尽きた後も、「いのち」として生き続けます。死も、誕生と同じ「いのち」の営みであり、決して忌み嫌うことではありません。
昨年暮れ、いのちをかけて生き尽くした方と、いのちがけで誕生した方から、大切な気付きをいただきました。

迷惑は、かけてるんだってば!
葬送の儀に限らず、冠婚葬祭は、私のこころを揺さぶります。喜怒哀楽が表出する場であり、自分に託された責任を受けとめる場でもあります。あらゆる儀式が簡素化される現代。そのことは、私のこころを揺さぶる場を無くすことであり、責任を感じる場を失うことにつながります。
「(遺される)家族に迷惑をかけたくない」からと、葬儀の簡素化や、直葬(葬送の儀をせず、直接火葬にすること)を遺言する方が増えました。
しかし、考えてみてください。人の死を葬送するということは、どのような内容であれ大変なことです。私が死ねば、どんなに簡素化を遺言しても、どんなに遺産を遺しても、迷惑がかかることに違いはないのです。ましてや、迷惑とは、死んだときに初めてかけるものではなく、生きている間にかけ続けているものです。そのことに鈍感で、「家族に迷惑をかけたくない」なんて、思い上がりです。
「家族に迷惑をかけたくない」ではなく、「迷惑をかけてゴメンね。でも、一緒にいてくれてありがとう。最期も迷惑をかけるけど許してね」ということばを、堂々と遺して往きませんか!  人は、他者に迷惑をかけずには生きていけない生き物であること、つまり迷惑をかけ合いながら生きているということを伝え往くことが、生きた証であり、遺言です。

日は、東から昇り西に沈み、そしてまた東から昇る

 人が、個々別々に生きているのなら
 自分の好き勝手に生きられるだろう
 迷惑をかけずに生きることもできるかもしれない
 けれど、同じ海(いのち)から生じて、
 同じときを生きて
 同じ海に還ってゆく
 だからこそ、
 自分の思い通りには生きられない
 迷惑をかけ合いながら生きて往く

 人が、個々別々に生きているのなら
 誕生から死への一人旅
 死は、終着点かもしれない
 けれど、同じ海から生じて、
 同じ海に還り、
 同じ海からまた生じる
 だからこそ、
 常に海(いのち)に伴われながら
 始まりも終わりもない旅を続けて往く

   

2017年1月1日
日の出と西に沈む落日
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掲示板の人形
2016年から2017年 申年から酉年へ

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コメント

> 、「迷惑をかけてゴメンね。でも、一緒にいてくれてありがとう。最期も迷惑をかけるけど許してね」ということばを、堂々と

とんでもなく、斜め上のことを言ってしまうと…

「信の一念、なう!」という無限小の時間で、仮に、話の都合上、信以前、信以後に分けて記述するとすると、信の一念という無限小の時間のいま、とは、その信以前は、おお!自分、とてつもなく長い長い長い時間、反逆し続けてきたのだな、ごめんなさい!と、誰かに謝っている自分がいることになりますね。土下座して号泣。誰かに謝っている、なう。

その誰か、浄土佛教の伝統では、骨と皮になっていただいて、ご苦労をおかけしました…、という、言説、決まり文句、そういう、文法、言い方になっていて、自分が、生死輪廻、とんでもない回数、数え切れない長い長い長い時間、反逆してきたというのは、イコール、すなわち、兆載永劫の御修行ということになっているわけで、すると、いつでも共にいてくだされた方がおられたのだということと別のことではないので、信の一念、なう、と、言っても、私たちのことですから、無限小に小さい慚愧かもしれませんが、しかも、持続しないでしょうが、しかし、歡喜でない慚愧はない、わけですからね。

(しかも、実は、信以後の、相続、永遠化に参与する条件になっている。えと、一応、説明の都合上、前後に分けた場合ですけれども。)

☆筆硯独語さんへ
「迷惑は、かけてるんだってば! 」という中見出しのセリフが、もはや斜め上からの発言だったりします
普通なら、「迷惑をかけながら生きてるんですよ」くらいの物言いのはずですが。
まぁ、言わずにおれなかったという

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