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2016年11月

2016年11月29日 (火)

東本願寺報恩講2016

2016年11月21日~28日 東本願寺報恩講が勤まりました。
報恩講に参詣すると、教えに出遇えてよかったと思います。
「教え」といっても、本堂や講堂で聴聞するご法話のことだけでなく、そこにつどう人々との出会いも「教え」です。
今年も報恩講にお参りできてよかったです。
真宗門徒の一年は、報恩講に始まり、報恩講に終わる。親鸞聖人をご縁に、報恩講に参詣する。また一年がんばろう!!って思います。南無阿弥陀仏

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2016年11月20日 (日)

空虚なことば

今年の都知事選の際、当時の小池候補が公約の中で「こども食堂の活用」を訴えたことに対し、以下のようにブログに書きました。

「子ども食堂」の活用を訴えてますが、公約として掲げるのは違うのではないでしょうか。「こども食堂」の存在は大きい。お腹いっぱい食べられない環境にある方々が満足に食事をできる場ですし、地域の方々のつながりも芽生えてきて、大切な場です。しかし、それは、政治・行政の怠慢によって生まれた格差・貧困にあえぐ方々を、「なんとかしなくては!」って、民間の方が立ち上がって始められたことです。日本の現状においては、「子ども食堂」はなくてはなりません。しかし、政治に携わる方が、はじめから「こども食堂」の活用推進を語るのは、無責任ではないかと思っています。

「こども食堂」が生まれた背景を考えてほしいなと思ったものです。
しかし、あらたに背景の見えていない方がいることが発覚しました。
「子供の未来応援国民運動」の1周年を記念して、内閣府が11月8日付で公表した「総理大臣 安倍晋三」の名入りの文書によると・・・

日本の未来を担うみなさんへ

こども食堂でともにテーブルを囲んでくれるおじさん、おばさん。

学校で分からなかった勉強を助けてくれるお兄さん、お姉さん。

あなたが助けを求めて一歩ふみだせば、そばで支え、その手を導いてくれる人が必ずいます。

あなたの未来を決めるのはあなた自身です。

あなたが興味をもったこと、好きなことに思い切りチャレンジしてください。

あなたが夢をかなえ、活躍することを、応援しています。

平成28年11月8日 内閣総理大臣 安倍晋三

というものです。
始めに読んだときは、安倍首相嫌いの人の創作だと思いました。だって、ここまで他人事調なメッセージを発しないだろう、発しようとする前に止めるブレーンがいるだろうと思ったからです。
しかし、本当に安倍首相のメッセージでした。

先日、子どもが通う小学校の学芸会があり、「裸の王様」の劇がありました。観ながら、誰かさんの姿と重ね合わせてしまいました。忠告してくれる人がいないということ、聞く耳を持たないということの悲劇を想いました。自分の思い通りにしようとしたら孤独になってしまいます。

そもそも「子供の未来応援国民運動」自体、子どもの貧困対策のために民間に寄付を募り、そして集まったお金をNPOなどに助成するというものでした。初めっから、政策として貧困対策をするつもりはないのですね。その大将が「日本の未来を担うみなさんへ」って・・・。
メッセージの空虚さがグサッと刺さりました。
安倍首相、「あなたが助けを求めて一歩ふみだせば、そばで支え、その手を導いてくれる人が必ずいます。」

自立とは、
自分ひとりの力で物事を成せるようになることではありません。
「助けてください」「手伝ってください」と言えること。
自分ひとりの力で物事を成していると思えているのならば、
それは自立ではなく、孤立。

2016年11月16日 (水)

冷めたことばと、体温のあることば

次期アメリカ大統領選に当選したトランプ氏に対し、
日本の安倍首相は「日米同盟は、普遍的価値で結ばれた揺るぎない同盟だ。その絆をさらに強固なものにしていきたい」とコメントしたという。

気になったのは「普遍的価値で結ばれた」というところ。
「普遍的」とは、「すべてのものに当てはまること」を意味します。
「同盟」が「普遍的」ということは、「日本と米国のすべてにとって」ということ?
その「すべて」とは、どこのことを言っているのだろう?
安倍首相とトランプ氏にとってということ? 自分たちの支持者にとってということ? 自民党と共和党にとってということ? 
日本と米国に住むすべての人々(国民)という意味? それとも、日本と米国という国の枠を超えた全世界の人々という意味?
「普遍的」に込めた想いが見えなくて、伝わらなくて・・・。

ドイツのメルケル首相は、「米独両国はいずれも、出身地や肌の色、宗教、性別などに関係なく、”自由と人権”が尊重される国である。この同じ価値観を踏まえて緊密に連携していきたい」とコメントしたという。
「出身地や肌の色、宗教、性別などに関係なく」ということばに、「普遍的」な想いが込められているように感じます。

「普遍的」ということばを使いながら、そこに普遍性を感じないコメントがある。「普遍的」と言いながら「自分さえ良ければいい」的な臭いを感じたから、気になったんだ。

普遍性に想いを巡らして出てきたコメント(出身地や肌の色、宗教、性別などに関係なく)からは、「普遍的」な願いが伝わってくる。メルケル首相のコメントに、体温を感じました。

2016年11月10日 (木)

冬の匂い

寒くなりましたね。
朝、外に出ると娘が「冬の匂いがするね」って言います。
「ん? 焼き芋? おでん?」と、お子さまな私が言うと、
「ちがうよぉ、秋田で雪が降るときにかいだ匂いがするの。冬だね^^」と娘は言いました。大人な娘でした。

2016年11月 1日 (火)

2016年11月のことば

11月になりました。報恩講シーズンですね。ワクワクします。ご本山の報恩講(11月21日~28日)参詣が楽しみです。

西蓮寺の11月のつどい
報恩講は11月5日(土)正午より ご法話は海法龍師(横須賀 長願寺住職)です。
聞法会は9日(水)午後1時30分より(法話 副住職)
親鸞聖人ご命日の11月28日には「28日講」をお勤め致します。午前9時より。

   

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 散ると見たのは凡夫の眼
 木の葉は大地へ帰るなり

裏をみせ 表をみせて 散る紅葉
葉は、ヒラヒラと舞い落ちる。裏を見せ、表を見せながら。この世との別れを惜しんでいるようでもあり、私のすべてを見てください(覚えていてください)と懇願しているようでもあります。
秋になると、「お寺さん、秋は落ち葉が多くてお掃除が大変ですね」と声をかけられます。しかし、葉が落ちるのは、年中のことです。秋に散る葉もあれば、春に散る葉も花もある。夏や冬の気候の厳しさもまた、木々にダメージを与えます。
いつ終えるとも分からないいのちを生きていることは、木々や草花も、私たち人間も一緒です。秋だけに落葉するわけではありません。秋だけにお浄土に還るわけでもありません。
夏から冬にかけて、気温が下がります。日が暮れるのも早くなります。落ち葉など、目に映るものの姿が淋しげに見えます。秋は、こころが悲しみを感じやすい季節なのかもしれません。だからなのか、落ち葉と、いのちの終焉が重なって見えてしまいます。

最後の一葉
オー・ヘンリーに『最後の一葉』という小説があります。
病に苦しむジョンジーは、自分が住むマンションの窓から見える蔦(つた)の葉の、最後の一枚が散ったとき、自分も死を迎えるのだと、漠然と感じています。友人のスーは動揺し、「あなたのいのちと蔦の葉は、何も関係がないのだから、そんなことを言わないで」と声をかけます。
ふたりと同じマンションに住む、落ちぶれて酒に溺れる画家ベーアマンは、ジョンジーの軟弱さに軽蔑の声をあげます。「なんて馬鹿げたことを考えているんだ!」と。
スーの心配をよそに、病床のジョンジーは、蔦の葉の残りの枚数を数えます。
ある夜、激しい風雨が吹き付けます。スーは、蔦の葉がすべて散ってしまうのではないかと怯えています。
朝、窓を開けると、蔦に一枚、葉が残っていました。
「あの雨風だから、すべて散ったと思ったけれど」とつぶやくジョンジーの声が、スーのこころを締め付けます。
次の夜も激しい風雨でした。しかし、最後の一葉は散りません。ジョンジーは、スーに語ります。
「あなたの心配をよそに、私は悪いことばかり口にしていたわね。あの葉は、生きなさいと訴えているように感じるの。ねぇ、私にスープを作ってくださらない?」
生きる希望を見失い、「ワインの買い置きも必要ないから」と言っていたジョンジーが、スープを作ってほしいとスーにお願いしました。生きることを選んだジョンジーは、それから快方に向かいました。
ジョンジーが人生に希望を見出した頃、ベーアマンの姿が見えませんでした。
スーが、ベーアマンの身に起きたことを聞きつけ、ジョンジーに語ります。
画家としていつか傑作を遺すと豪語しながら、挫折し、酒に溺れたベーアマン。軟弱なジョンジーを非難しつつ、 ベーアマンは、暴風雨が吹き荒れる中、煉瓦塀に這う蔦の、最後の一葉を描いていたのでした。葉を描き終えたベーアマンは、寒さで身体が震え、肺炎をこじらせ、亡くなったのでした。部屋のテーブルには、葉を描くために使った緑と黄色の絵の具が置いてありました。ベーアマンは、人生の最後に、最高の作品を遺して往ったのです。

生のみが我等にあらず、死もまた我等なり
木々から離れ、地面に落ちゆく葉を見て、いのちの終わりを思いますか? それとも、次のいのちとして芽生えるんだねと思いますか?
木の根元に落ちた葉は、朽ち果て、大地と一体となり、養分として木を育てる。寒さを経て、温もりを感じる頃、また葉として、実として、花として、いのちは姿を表わします。いのちは、循環しています。散って終わりではありません。季節の移り変わりと共に、次のいのちが芽生えます。
人間も同じです。この世界に産声を上げてから呼吸が止まるまでが「一生」ではありません。そんなくくりで考えられないのが、いのち。受精を経て、母の身体で大事に育まれ、生まれたのが私。受精前の、父の精子・母の卵子もまた、私。そう想うと、いのちの始まりと終わりって、個人のいのちとしては考えられません。想像もできないほど昔から、今を経て、はるか未来へと繋がっています。
亡き人に対して「もう会えないね」「まだ若いのに」って、それは生者のものさし(価値観)。先往くいのちは、どんなに惜しまれつつ亡くなっても、どんなに若くして亡くなっても、亡き人の姿・思想・優しさを肌で感じた者の中に生き続けます。亡き人が生きた証は、次のいのちにしっかりと刻まれています。そしてまた次のいのちに引き継がれていく。いのちは、尽きることがありません。
ジョンジーやスーは、ベーアマンとの出遇いを通して大きな課題をもらいました。ジョンジーとスーの中で、ベーアマンは生き続けています。ベーアマンからしてみれば、ジョンジーやスーとの出遇いが、彼の人生を彩り、作品を生み出しました。課題に出遇って、それを背負って生きる者の姿は、遺された者のこころに焼き付けられます。やはり、いのちに終わりはありません。
個としてのいのちは、いつか終わりを迎えます。誰にも平等に起こることです。忌み嫌うことではありません。死があってこその生、生があってこその死なのですから。木の葉は大地に帰り、人間もまた阿弥陀の浄土に還ります。

   

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親鸞聖人と、一緒に聴聞する仲間たち
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