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2016年11月 1日 (火)

2016年11月のことば

11月になりました。報恩講シーズンですね。ワクワクします。ご本山の報恩講(11月21日~28日)参詣が楽しみです。

西蓮寺の11月のつどい
報恩講は11月5日(土)正午より ご法話は海法龍師(横須賀 長願寺住職)です。
聞法会は9日(水)午後1時30分より(法話 副住職)
親鸞聖人ご命日の11月28日には「28日講」をお勤め致します。午前9時より。

   

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 散ると見たのは凡夫の眼
 木の葉は大地へ帰るなり

裏をみせ 表をみせて 散る紅葉
葉は、ヒラヒラと舞い落ちる。裏を見せ、表を見せながら。この世との別れを惜しんでいるようでもあり、私のすべてを見てください(覚えていてください)と懇願しているようでもあります。
秋になると、「お寺さん、秋は落ち葉が多くてお掃除が大変ですね」と声をかけられます。しかし、葉が落ちるのは、年中のことです。秋に散る葉もあれば、春に散る葉も花もある。夏や冬の気候の厳しさもまた、木々にダメージを与えます。
いつ終えるとも分からないいのちを生きていることは、木々や草花も、私たち人間も一緒です。秋だけに落葉するわけではありません。秋だけにお浄土に還るわけでもありません。
夏から冬にかけて、気温が下がります。日が暮れるのも早くなります。落ち葉など、目に映るものの姿が淋しげに見えます。秋は、こころが悲しみを感じやすい季節なのかもしれません。だからなのか、落ち葉と、いのちの終焉が重なって見えてしまいます。

最後の一葉
オー・ヘンリーに『最後の一葉』という小説があります。
病に苦しむジョンジーは、自分が住むマンションの窓から見える蔦(つた)の葉の、最後の一枚が散ったとき、自分も死を迎えるのだと、漠然と感じています。友人のスーは動揺し、「あなたのいのちと蔦の葉は、何も関係がないのだから、そんなことを言わないで」と声をかけます。
ふたりと同じマンションに住む、落ちぶれて酒に溺れる画家ベーアマンは、ジョンジーの軟弱さに軽蔑の声をあげます。「なんて馬鹿げたことを考えているんだ!」と。
スーの心配をよそに、病床のジョンジーは、蔦の葉の残りの枚数を数えます。
ある夜、激しい風雨が吹き付けます。スーは、蔦の葉がすべて散ってしまうのではないかと怯えています。
朝、窓を開けると、蔦に一枚、葉が残っていました。
「あの雨風だから、すべて散ったと思ったけれど」とつぶやくジョンジーの声が、スーのこころを締め付けます。
次の夜も激しい風雨でした。しかし、最後の一葉は散りません。ジョンジーは、スーに語ります。
「あなたの心配をよそに、私は悪いことばかり口にしていたわね。あの葉は、生きなさいと訴えているように感じるの。ねぇ、私にスープを作ってくださらない?」
生きる希望を見失い、「ワインの買い置きも必要ないから」と言っていたジョンジーが、スープを作ってほしいとスーにお願いしました。生きることを選んだジョンジーは、それから快方に向かいました。
ジョンジーが人生に希望を見出した頃、ベーアマンの姿が見えませんでした。
スーが、ベーアマンの身に起きたことを聞きつけ、ジョンジーに語ります。
画家としていつか傑作を遺すと豪語しながら、挫折し、酒に溺れたベーアマン。軟弱なジョンジーを非難しつつ、 ベーアマンは、暴風雨が吹き荒れる中、煉瓦塀に這う蔦の、最後の一葉を描いていたのでした。葉を描き終えたベーアマンは、寒さで身体が震え、肺炎をこじらせ、亡くなったのでした。部屋のテーブルには、葉を描くために使った緑と黄色の絵の具が置いてありました。ベーアマンは、人生の最後に、最高の作品を遺して往ったのです。

生のみが我等にあらず、死もまた我等なり
木々から離れ、地面に落ちゆく葉を見て、いのちの終わりを思いますか? それとも、次のいのちとして芽生えるんだねと思いますか?
木の根元に落ちた葉は、朽ち果て、大地と一体となり、養分として木を育てる。寒さを経て、温もりを感じる頃、また葉として、実として、花として、いのちは姿を表わします。いのちは、循環しています。散って終わりではありません。季節の移り変わりと共に、次のいのちが芽生えます。
人間も同じです。この世界に産声を上げてから呼吸が止まるまでが「一生」ではありません。そんなくくりで考えられないのが、いのち。受精を経て、母の身体で大事に育まれ、生まれたのが私。受精前の、父の精子・母の卵子もまた、私。そう想うと、いのちの始まりと終わりって、個人のいのちとしては考えられません。想像もできないほど昔から、今を経て、はるか未来へと繋がっています。
亡き人に対して「もう会えないね」「まだ若いのに」って、それは生者のものさし(価値観)。先往くいのちは、どんなに惜しまれつつ亡くなっても、どんなに若くして亡くなっても、亡き人の姿・思想・優しさを肌で感じた者の中に生き続けます。亡き人が生きた証は、次のいのちにしっかりと刻まれています。そしてまた次のいのちに引き継がれていく。いのちは、尽きることがありません。
ジョンジーやスーは、ベーアマンとの出遇いを通して大きな課題をもらいました。ジョンジーとスーの中で、ベーアマンは生き続けています。ベーアマンからしてみれば、ジョンジーやスーとの出遇いが、彼の人生を彩り、作品を生み出しました。課題に出遇って、それを背負って生きる者の姿は、遺された者のこころに焼き付けられます。やはり、いのちに終わりはありません。
個としてのいのちは、いつか終わりを迎えます。誰にも平等に起こることです。忌み嫌うことではありません。死があってこその生、生があってこその死なのですから。木の葉は大地に帰り、人間もまた阿弥陀の浄土に還ります。

   

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