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2016年8月

2016年8月31日 (水)

夢を失うよりも 悲しいことは

JUPITER (歌:平原綾香 作詞:吉元由美)

私のこの両手で 何ができるの?
痛みに触れさせて そっと目を閉じて
夢を失うよりも 悲しいことは
自分を信じてあげられないこと

愛を学ぶために 孤独があるなら
意味のないことなど 起こりはしない 


何度も聞いてきた歌なのに、
あらためて歌詞がこころに響いてきました。

2016年8月29日 (月)

バッターボックスに立つのは私

2016年8月28日(日)放送「サンデーモーニング」内「風をよむ」のコーナーより
テーマ “たいまつとSEALDs”
本年8月15日に解散されたSEALDs(シールズ)の奥田愛基さんがインタビューに応えて仰っていました。(録画をしてなかったので、私の覚え書きであることをお断りしておきます。)

「民主主義に“観客席”はありません。誰もが“バッターボックス”に立つべきだし、そうでないと民主主義っていうのは成り立たないと思うんです。
(「サンデーモーニング」の内容は以上です。以下は、私の雑感です)

奥田さんのたちの活動に賛同する人もいれば、反論・非難・拒絶する人もいる。
どちらの意見があることも当然のことですが、奥田さん始めSEALDsのメンバーは、自分が想ったこと・感じたことをことばにして伝えるということを大切にしています。自分の名前や顔を隠すことなく。そのような方々に対し、匿名で罵詈雑言を浴びせ、ありもしないことをでっち上げて批判したりすることは、許されることではありません。

中島みゆきさんの「ファイト」(作詞・作曲 中島みゆき)の一節を思い出しました。
「ファイト!闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」

でも、SEALDsの皆さんの頑張りに期待や夢を抱き、実際何もしていないのは私自身です。
むのたけじさんのことばが突き刺さります。

やらねばならないことだとわかっていて、だれかがやるだろうと待っているのは二重の悪意です。
(詞集「たいまつⅠ」 むのたけじ 評論社 67)

2016年8月28日 (日)

火薬の平和利用

2016年8月27日
秋田大曲花火大会
テレビで見てました。
実際に見たら、すごい迫力だったろうなぁ!
解説の花火師さんが仰っていました。

「火薬は、
横に打てば戦争になるけど、
縦に打てば火薬の平和利用になります」

目を合わせれば喧嘩するような仲でも、
上空に打ち上げられた美しい花火を見つめるとき、
いがみ合っていることも忘れ、
同じものを見て、同じように感動する。

顔を合わせれば喧嘩したり、損得勘定に頭を働かせることを終始してしまう。
共通の花火(目標や目的)を見上げるときは、同じ地平に立って見ているはず。 顔を合わせれば喧嘩になる仲でも、「うわぁ、きれいだなぁ‼」と声を揃えることがあるかも🎆

2016年8月27日 (土)

子どもを守る者はすべてを守る。

子どもを守る者はすべてを守る。
子どもを守らない者は何ものをも守らない。

(『詞集 たいまつⅠ』 むのたけじ 評論社 318)

自分はボロを着ても、タクアンのしっぽでめしを食っても、子どもは上の学校にやろう、参考書も文房具も十分に買って与えよう、という気持ちは美しく見える。
けれども人間の幸福とか不幸とかいわれるものは、しょせん社会とのつながりできまるものではありませんか。
本気でわが子をしあわせにしたいなら、この子らに私たち親はどんな社会をひきつごうとしているかを、一番熱心に考えて努力しないといけないのではありませんか。
この子らの将来は大丈夫しあわせだ、と言い切れる現状でしょうか。
自分はがまんしても子どものために精一杯の努力をしているから、私は良い親だと自認して、もし社会の問題に背中をむけるとしたら、一番大切なことについて一番卑怯な責任のがれをしていることになりはしませんか。
良い親のつもりで、実は子どもの未来をこわす役まわりをしてはいないかどうか、ここで私たち親はめいめいの生活内容を十分に点検してみようではありませんか。

(『詞集 たいまつⅠ』 むのたけじ 評論社 326)

家庭の中で、つとめて社会の問題を語り合うことだ、すると必ず子どもが賢くなる。
それだけ親も賢くなる。

(『詞集 たいまつⅠ』 むのたけじ 評論社 329)

遺言状に子どものための訓言をくどくど書く親は、心臓のとまるより前に死んでいたのである。
真に子どもに教えたいなら、生きているうちに自分の生き方で教えておくはずだ。

(『詞集 たいまつⅠ』 むのたけじ 評論社 333)


むのたけじさんが還浄されて、あらためて著作物を読み返しています。
「お前さんはどんな生き方をしていますか!!??」と、獅子吼されているように聞こえてきます。
お目にかかったときは、98才でしたでしょうか。私より元気で、優しいおじいちゃんでした。伝えたいことがある! 伝えなかればならないことがある! という想いが響いてくる方でした。「こんなにも熱意のある方がいました」という思い出話ではなく、その方の生き方に出遇った者の責任として、熱意を、想いを伝えていかなければいけません。卑怯な責任逃れはしたくありません。
(『たいまつⅠ』の詞、ピックアップ・改行は私です)

(追記)
2016年8月27日(土)
NHKドキュメンタリー ETV特集 アンコール「むのたけじ100歳の不屈」が放送されます。
午後11時より Eテレにて

2016年8月26日 (金)

人を見ず、メダルを見る

リオオリンピック閉幕
(マスコミは「次は東京オリンピック!」と浮かれていますが、次はリオパラリンピックです!!)

体操の内村航平選手が金メダルを獲得しました。
内村選手と金メダルを争ったオレグ・ベルニャエフ(ウクライナ)選手。最後まで内村選手を引き離し、金メダル獲得か!と思われました。
最後の種目鉄棒で内村選手が逆転したわけですが、その逆転劇から「あなたは審判に好かれているんじゃないですか?」と、競技後の会見で内村選手に質問するインタビュアーに向けて、オレグ・ベルニャエフ選手が怒りを表わし、
「審判も個人のフィーリングは持っているだろうが、スコアに対してはフェアで神聖なもの。航平さんはキャリアの中でいつも高い得点をとっている。それは無駄な質問だ」
と、質問を一蹴しました。
また、「内村選手は、競泳界のフェルプス、陸上界のボルトのような存在です」と言われたとも聞いています。

金メダル確実と思われていたレスリングの吉田沙保里選手が決勝で敗れました。
吉田選手を破ったアメリカのヘレン・マルーリス選手は、吉田選手との対戦を想定し、研究を重ねたと言われています。

世界のトップで争う選手から、尊敬される、目標とされる。
それほどの選手が、日本にもいるということ。その選手の競技を現実に見ることができるということ。
それだけでも素晴しいこと、感動的なことだと想います。

どうして吉田選手が「銀メダルで申し訳ない」「取り返しのつかないことをした」などということを言わなければならないのか・・・結局、メダルの色、メダルが取れたか否か、でしか見ていないということの表われなのでしょうか。
他にも、メダルを取れなかったことを謝る選手や、銅メダルや銀メダルであったこと(金メダルを取れなかったこと)を詫びる選手もいました。見ている側も、「応援していたのに」「金メダルを逃しやがって」というような感想を書く人もいます。「あの演技がまずかったね」「敵が上手だったね」「相手の競技も素晴しかったね」など、試合・競技・演技を見た感想を述べるのなら、「試合(競技・演技)をちゃんと見ていたんだな」と思いますが、メダルの色や獲得の有無を述べるコメントには、試合(競技・演技)を見ていたのかな? 見逃すなんて残念なことをしたね。と思ってしまいます。

「人間の価値を計るものは、テストの点数や、仕事の業績なんかではない」というような言い方をよく耳にしますが、点数や業績でしか人を評価しない眼がこびりついているようです。
もったいないことです。


2016年8月21日 (日)

むのたけじさん、ありがとうございます

2016年8月21日 むのたけじさんが亡くなられました。
反戦平和を訴え、全国で講演をされてました。
講演を拝聴し、むのたけじさんのエネルギーに圧倒されました。
むのたけじさんにお目にかかることができて、伝えたい想いがあってこそ、他者(ひと)に伝わるのだと学びました。
遺された者が頑張らないと‼
南無阿弥陀仏

2016年8月17日 (水)

こんにちは、白玉です

皆様こんにちは
東京は台風一過とんでもなく暑い日を迎えています
午前中は境内の掃除をしていましたが、クラクラしてきました。
午後は事務仕事に切り替えさせていただきます。

さて、川村妙慶さんが、当西蓮寺の寺報(7月号)について触れてくださっています。
嬉しかったので、妙慶さんの「日替わり法話」(2016年8月17日)・・・ここでリンク貼っておきます。

川村妙慶さんのご実家も「西蓮寺」さんなので、「西蓮寺」つながりで仲良くしていただいています。
川村妙慶さんの「日替わり法話」もお楽しみに

皆様、熱中症にお気をつけください!!

2016年8月15日 (月)

2016年8月15日記

8月15日(月) 終戦記念日

お恥ずかしい話ですが、数年前まで私は「8月15日 終戦記念日」とは、全世界的なものだと思い込んでいました。
だから「終戦記念日」に、日本の式典は報道されるけれど、世界での式典が報道されないことを不思議に思っていました。
その疑問を妻に尋ねたら、「“終戦”って、それぞれの国の捉え方で、日が違うのよ」と、小さい人にお話するように説明してくれました。もし妻が説明してくれなかったら、いまだに「8月15日 終戦記念日」は全世界的なものと思っていたか、あるいは、どこかで恥をかいていたかもしれません。
日本が8月15日を終戦記念日としているのは、玉音放送により、戦争の終結を天皇が宣言したから。
他には、
日本が降伏文書に調印した9月2日とする国もあれば、その翌日の9月3日とする国もある。
「終戦記念日」の呼び方も、「対日勝戦記念日」「解放記念日」などと命名している国もある。

日本にいて「8月15日 終戦記念日」といえば、「平和な世の中を続けて行かなければ」「戦争で犠牲になった方々のおかげで、今の平和があるんだ」という感想で終わってしまうけれど、
それぞれの理由から、いろいろな日、いろいろな名前があることを知ると、戦争とは他者を傷付けるものであり、日本の敗戦を、喜びをもって受け止めた国々が多々あることにまで想いを馳せることができる。そういうところにまで想いを馳せてこそ、「終戦記念日」の意味があるのだと思う。

2016年8月14日 (日)

解散報道に想う

私たちは、報道がされてから情報を知るわけだけど、
当然当事者はそれ以前から、悩み、苦しみ、話し合い、意見言い合い、喧嘩し、冷静になり、現状把握に努めていた…。

解散が公になり、「解散しないで」とファンは、好きな人たちは懇願する。

反響・影響の大きさに驚いたのは、誰よりも本人たちだっただろう。

それからまた悩み、苦しみ、話し合い等々あったことだろう。

「これからも前を向いてがんばります」と、不自然な会見にさらされた。一旦は解散が回避され、ファンは、事務所はホッとしたことだろう。

でも、解散報道が出てから、あなたたちの姿を見ていられなかった。
経緯はどうあれ一旦は自分たちで選んだ道を、周りの声を受け止めて、歩むことができなかったのだから。

25年の軌跡が生んだ「周りの声」だから、無責任な声だとは思わない。それに、その声(縁)も含めて、彼らの歩む道だから、一旦は解散を回避した道も、彼らが歩むべき道であることに違いはない。

しかし、解散を回避した後の彼らは、道なき道を歩かされているように見えた。出口も分からず、彷徨っているような。
もはや、他者(ひと)を喜ばせるなどという状態には身をおけない。
仲が良かった、みんなでひとつのものを作り上げてきたからこそ、確執はより大きくなるだろう。
大きなモチベーションがあったからこそグループを名乗り、活動できただろう。その分、モチベーションの下がり方も衝撃も大きい。どれだけの負のエネルギーが彼を襲ったことだろう。

直線酒を酌み交わして愚痴や本音を聞いているわけではないから、私が感じているだけの話だけど、そんなふうに見えた。

2016年12月31日をもって解散
ひとつの道筋が見えて、彼ら自身の顔に笑みが戻ればいいなと想う。

誰にとっても、
どの道が最善かなんて、
答はない。
けれど、
歩むことができる道は、ひとつ。
結果歩んだ道こそが、
歩むべき道。

あ、5本(6本)あるはずの道を、
無理矢理1本にしようとしてしまって、
彼ら自身も、周りの声自身も、
苦しくなっていたのかもしれない。

5本の道が、5本バラバラになることもあれば、
時折何本かの道がひとつになることもあるだろう。

2016年8月10日 (水)

ジジジジッ

異常な暑さ 皆様ご無事ですか?
暦の上では立秋を過ぎました。蝉の大合唱の中に身をおいていますが、今朝境内の掃除をしていたら、10匹以上の蝉さんのご遺体に遭遇しました。あっついけれど、夏から秋に向けて時はうつろい、季節は変化しているのですね。限りあるいのちを懸命に尽くしている蝉に合掌。南無阿弥陀仏

2016年8月 9日 (火)

2016年8月9日記

8月9日(火)
長崎に原爆が投下された日
長崎平和祈念式典を見ながら、11時2分 合掌 南無阿弥陀仏

「どうせ戦争はなくならない」「攻められたら攻め返すのは当たり前だろう」「攻められる前に攻撃しなくては」などというセリフが聞こえてくることが多くなりました。悲しいです。このセリフの背景には、「被害者としての私」という意識しかなく、「加害者としての私」という想いが欠如しています。
長崎の田上市長が仰っていました。「市民社会の行動は、ひとつひとつは小さく見えても、国同士の信頼関係を築くための、強くかけがえのない礎となります」と。
「どうせ戦争はなくならない」で留まるのではなくて、「それでも戦争をなくしたい」と思う一人ひとりの意識で、大きな道を切り開いていきましょう!!

2016年長崎平和宣言
(長崎市HPより)


全国各地で「高温注意報」が出てますね。皆様、お気をつけて。私も気をつけます!!

2016年8月 6日 (土)

2016年8月6日記

8月6日(土)
広島に原爆が投下された日。
多くのいのちが傷つき、いまだ悲しみが残る出来事があった日
テレビ中継されている広島平和記念式典を、正座をして見ながら合掌。南無阿弥陀仏

式典の放送後、オリンピックの開会式が放送されています。
仲が悪いとか報道される国と国が、共に競技する。
制裁を受けている国に住む選手も、個人や団体として参加できる。
原爆や武器によらずとも、ひとつ所で手をとりあうことができるのではないですか?

人と人とは、手をつなぎ合えるのに、
国と国になると、争いが起こる悲しみを想う

真に平和の式典とならんことを(-人-)

2016年広島市平和宣言(広島市HPより)

2016年8月 3日 (水)

2016年8月のことば

いつもブログ「ことば こころのはな」をお読みいただき、ありがとうございます
「夏は暑い」のは当然のことですが、これだけ暑いと局地的な豪雨が頻発しますね。
折りたたみ傘は必需品ですね。どうぞお気をつけて、この夏をお過ごしください。

   

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リアルタイムが歴史を殺す

実際には体験していないことも、リアルに体験しうる
2016年7月7日 永六輔さん還浄
戦争や安保闘争を経験し、時代の潮流の中で必死に生き、声を挙げ続けた方が亡くなりました。
二度と悲惨な時代へと逆戻りしないように声を挙げ、時には真剣に怒ってくださる方々がいます。そのような方々の声・姿のおかげで、現代(いま)を生きる私たちは、実際には経験してないことを、まるで実際に体験したかのように感じ、記憶に留め、態度に表わすことができます。

 8月 6日 広島に原爆が投下される。
 8月 9日 長崎に原爆が投下される。
 8月15日 終戦記念日

毎年、平和祈念式典が行なわれます。戦後70年を過ぎ、戦争を経験した方々は、年々減少してゆきます。しかし、「戦争はよくないことだ」「戦争によって平和はもたらされない」ということを、多くの人々が叫ぶことができるのは、私たちに必死に伝えてくださる方々がいたからであり、真剣に受け止める人々がいるからです。
実際に体験してないことはリアリティがないようだけれど、語る人と聞く人がいることによって、そこにリアリティが生じます。過去の出来事にもかかわらず、現代の出来事のように想像することができます。
語ることによって伝えることができます。絵や文章で表現して伝えることもできます。それから、あまりの悲惨さゆえに語ることを閉ざした方々もいます。語らなかったら何も伝わらないのか。いえ、語ることを閉ざした姿から、伝わることがあります。表現しないということが、表現となることがあります。苦しみを抱えている人の姿が、戦争の悲惨さを私たちに教えてくださっています。
様々な形で発せられた想いが、リアリティをもって、現代を生きる私たちに伝わります。先に生きる人の声や姿が、後を生きるものに伝わり、歴史が紡がれています。
歴史とは、いのちの営みに刻み込まれる道標(みちしるべ)。量り知れないいのちのつながりの中で、大きな岐路にさしかかったとき、道標は過去を示し、現代に問いかけてきます。
しかし、悲しいかな、迷いの深い人類は、何度も何度も争いを選んできました。「歴史は繰り返す」と言います。「過去に起こった出来事は、同じような経緯をたどって、再び起こる」という意味ですが、繰り返されるのは過去の出来事ではなく、迷いを持って生きる人間の暴走です。暴走を繰り返す故に、歴史は警鐘を鳴らしています。 しかし、過去からの問いかけである歴史をも、権力者の都合で修正してしまう暴走を、現代(いま)犯しています。

リアルタイムが歴史を殺す
第二次大戦後、平和な時代が70年を越えて続いてきたといいますが、世界のどこかで紛争や戦争はあり、争いの止む瞬間(とき)はありません。また、気候の急激な変動により、毎年世界のどこかで異常気象による被害が出ています。それらの情報をリアルタイムで知ることができる世の中なのに、数日後には記憶が薄れ、一年経てば「もう一年経ったのか!」と驚き、数年経つと「そんなことあったかな?」などと思ってしまいます。
交通網や通信手段の発達、とりわけネットの普及によって、国と国、人と人との距離が縮まりました。地球の裏側の出来事をリアルタイムに知ることができます。映像を含めた情報の伝達は、以前とは比べものにならないほど早くなりました。その情報に対し驚き、怒り、涙することができます。しかし、リアルタイムで情報を知ることができる環境とは、情報が留まることもなく流れてゆく環境でもあります。あれだけ驚き、怒り、涙した出来事も、時間が経てば新しい情報に上書きされ、あっけなく忘れてしまいます。
また、情報を仕入れるだけでなく、自分の想いを誰もが世界中に発信しやすくなりました。自分の想いや考えを表現し、様々な情報や事柄を発信する人も増えました。にもかかわらず、現実に起きている出来事がリアリティ無く流れ、歴史とならないのは、なぜなのでしょう。
歴史を書き換えて、道に迷っています。そうではなくて、道標としての歴史を直視し、「戦争はいけない」と、いのちがけで叫んでくださった方々の声に耳を澄ませましょう。

   

掲示板の人形
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エンゼルフィッシュ(?)のガラス細工

   

【ちょっと一筆】
2016年7月31日(日)東京都知事選の投開票がありました。
21人もの方が立候補されたのに、始めから3名に絞って報道されることの違和感。
決め手に欠けるのが、今回の都知事選に対する想いではなかったでしょうか。

鳥越さんを応援してはいましたが、
協調性のない4党が支援をしているわけですから、当選したとしても都知事としての働きができるだろうか、結局何もできずに終わってしまうのではないだろうか、青島さんの二の舞になってしまわないだろうか・・・という危惧がありました。
しかも、今に伝わる情報では、ボランティアに名乗りを上げてくださった方々に対する選対の態度がとても失礼だったとか。事務所に身を運んだ方々の、悲しい想いをしたという文章を見かけます。
「都民の皆さんの声を聞く」ということが果たしてできただろうか?ということを思います。

増田さんは、岩手県知事時代に財政悪化を招いたことが取り上げられています。
いろいろな条件下で経済状況は変わりますから、知事の手腕だけの責任ではありませんが、岩手県知事時代のことを知る人の口は重たかった気がします。
個人的には、石原元知事を応援に立たせる神経にクエスチョンマークでした。この4年間で3回の都知事選・・・元々はあなたが途中でほっぽり出したからでしょ!!と思いました。
演説の内容についてマスコミは取り上げますが、それ以前に、よく人前に出てしゃべれるな、よく応援を頼むなぁと思いました。

都知事に就任された小池さんですが、
待機児童問題解消のために広さ制限の規制を見直すと言っていますが、それは従来の広さの部屋に、より子どもたちを集めるということ。密集するわけです。風邪をひいたりお腹をこわしやすい子どもたちを、より密集させて部屋に集めるということは、より病気にうつりやすくなるということ。ご一考を。
それに、「子ども食堂」の活用を訴えてますが、公約として掲げるのは違うのではないでしょうか。「こども食堂」の存在は大きい。お腹いっぱい食べられない環境にある方々が満足に食事をできる場ですし、地域の方々のつながりも芽生えてきて、大切な場です。しかし、それは、政治・行政の怠慢によって生まれた格差・貧困にあえぐ方々を、「なんとかしなくては!」って、民間の方が立ち上がって始められたことです。日本の現状においては、「子ども食堂」はなくてはなりません。しかし、政治に携わる方が、はじめから「こども食堂」の活用推進を語るのは、無責任ではないかと思っています。
また、「子どもの発達障害は、“日本の伝統的な子育てをしないからである”ということを主張している親学(おやがく)」に傾倒しているというのも、恐さを感じます。親学推進議員連盟勉強会に名前を連ねていたことを、都知事選立候補後、活動記録から消されたとか。
増田さんは、東京都知事選立候補にあたり東京電力の役職を辞しました。記録から消した内容から、「何が都合悪いことなのかを知っている。分かっててやっている」ということが露わになります。
子育てや教育に関する考え方の恐ろしさを、小池さんに対して強く感じます。

ちょっと一筆で、長々と書いてしまいました。
「掲示板のことば」とは別の日に書かずに、ここで【一筆】を書いたのは、リアルタイムで起きていること(前の参議院選挙や都知事選)に対して、あまりにリアリティを感じ無さすぎではないか? 想像力がなさすぎではないか?と、思ったからです。
都知事選の翌日、京都で知人に会ったのですが、会うなり「東京の人は何を考えてるんですか!!」と怒られてしまいました。「申し訳ない」と謝っておきました。

「リアルタイムが歴史を殺す」・・・歴史を殺されてしまうということは、その時代(とき)を生きる人々を殺されてしまうということ。殺すのは、為政者ではなく、その人を選んでいる私自身。
無関心・無感動が、私自身のいのちを殺めてしまいます。
大袈裟なと笑われるかもしれませんが、私はそう感じます。

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