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2016年8月 3日 (水)

2016年8月のことば

いつもブログ「ことば こころのはな」をお読みいただき、ありがとうございます
「夏は暑い」のは当然のことですが、これだけ暑いと局地的な豪雨が頻発しますね。
折りたたみ傘は必需品ですね。どうぞお気をつけて、この夏をお過ごしください。

   

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リアルタイムが歴史を殺す

実際には体験していないことも、リアルに体験しうる
2016年7月7日 永六輔さん還浄
戦争や安保闘争を経験し、時代の潮流の中で必死に生き、声を挙げ続けた方が亡くなりました。
二度と悲惨な時代へと逆戻りしないように声を挙げ、時には真剣に怒ってくださる方々がいます。そのような方々の声・姿のおかげで、現代(いま)を生きる私たちは、実際には経験してないことを、まるで実際に体験したかのように感じ、記憶に留め、態度に表わすことができます。

 8月 6日 広島に原爆が投下される。
 8月 9日 長崎に原爆が投下される。
 8月15日 終戦記念日

毎年、平和祈念式典が行なわれます。戦後70年を過ぎ、戦争を経験した方々は、年々減少してゆきます。しかし、「戦争はよくないことだ」「戦争によって平和はもたらされない」ということを、多くの人々が叫ぶことができるのは、私たちに必死に伝えてくださる方々がいたからであり、真剣に受け止める人々がいるからです。
実際に体験してないことはリアリティがないようだけれど、語る人と聞く人がいることによって、そこにリアリティが生じます。過去の出来事にもかかわらず、現代の出来事のように想像することができます。
語ることによって伝えることができます。絵や文章で表現して伝えることもできます。それから、あまりの悲惨さゆえに語ることを閉ざした方々もいます。語らなかったら何も伝わらないのか。いえ、語ることを閉ざした姿から、伝わることがあります。表現しないということが、表現となることがあります。苦しみを抱えている人の姿が、戦争の悲惨さを私たちに教えてくださっています。
様々な形で発せられた想いが、リアリティをもって、現代を生きる私たちに伝わります。先に生きる人の声や姿が、後を生きるものに伝わり、歴史が紡がれています。
歴史とは、いのちの営みに刻み込まれる道標(みちしるべ)。量り知れないいのちのつながりの中で、大きな岐路にさしかかったとき、道標は過去を示し、現代に問いかけてきます。
しかし、悲しいかな、迷いの深い人類は、何度も何度も争いを選んできました。「歴史は繰り返す」と言います。「過去に起こった出来事は、同じような経緯をたどって、再び起こる」という意味ですが、繰り返されるのは過去の出来事ではなく、迷いを持って生きる人間の暴走です。暴走を繰り返す故に、歴史は警鐘を鳴らしています。 しかし、過去からの問いかけである歴史をも、権力者の都合で修正してしまう暴走を、現代(いま)犯しています。

リアルタイムが歴史を殺す
第二次大戦後、平和な時代が70年を越えて続いてきたといいますが、世界のどこかで紛争や戦争はあり、争いの止む瞬間(とき)はありません。また、気候の急激な変動により、毎年世界のどこかで異常気象による被害が出ています。それらの情報をリアルタイムで知ることができる世の中なのに、数日後には記憶が薄れ、一年経てば「もう一年経ったのか!」と驚き、数年経つと「そんなことあったかな?」などと思ってしまいます。
交通網や通信手段の発達、とりわけネットの普及によって、国と国、人と人との距離が縮まりました。地球の裏側の出来事をリアルタイムに知ることができます。映像を含めた情報の伝達は、以前とは比べものにならないほど早くなりました。その情報に対し驚き、怒り、涙することができます。しかし、リアルタイムで情報を知ることができる環境とは、情報が留まることもなく流れてゆく環境でもあります。あれだけ驚き、怒り、涙した出来事も、時間が経てば新しい情報に上書きされ、あっけなく忘れてしまいます。
また、情報を仕入れるだけでなく、自分の想いを誰もが世界中に発信しやすくなりました。自分の想いや考えを表現し、様々な情報や事柄を発信する人も増えました。にもかかわらず、現実に起きている出来事がリアリティ無く流れ、歴史とならないのは、なぜなのでしょう。
歴史を書き換えて、道に迷っています。そうではなくて、道標としての歴史を直視し、「戦争はいけない」と、いのちがけで叫んでくださった方々の声に耳を澄ませましょう。

   

掲示板の人形
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エンゼルフィッシュ(?)のガラス細工

   

【ちょっと一筆】
2016年7月31日(日)東京都知事選の投開票がありました。
21人もの方が立候補されたのに、始めから3名に絞って報道されることの違和感。
決め手に欠けるのが、今回の都知事選に対する想いではなかったでしょうか。

鳥越さんを応援してはいましたが、
協調性のない4党が支援をしているわけですから、当選したとしても都知事としての働きができるだろうか、結局何もできずに終わってしまうのではないだろうか、青島さんの二の舞になってしまわないだろうか・・・という危惧がありました。
しかも、今に伝わる情報では、ボランティアに名乗りを上げてくださった方々に対する選対の態度がとても失礼だったとか。事務所に身を運んだ方々の、悲しい想いをしたという文章を見かけます。
「都民の皆さんの声を聞く」ということが果たしてできただろうか?ということを思います。

増田さんは、岩手県知事時代に財政悪化を招いたことが取り上げられています。
いろいろな条件下で経済状況は変わりますから、知事の手腕だけの責任ではありませんが、岩手県知事時代のことを知る人の口は重たかった気がします。
個人的には、石原元知事を応援に立たせる神経にクエスチョンマークでした。この4年間で3回の都知事選・・・元々はあなたが途中でほっぽり出したからでしょ!!と思いました。
演説の内容についてマスコミは取り上げますが、それ以前に、よく人前に出てしゃべれるな、よく応援を頼むなぁと思いました。

都知事に就任された小池さんですが、
待機児童問題解消のために広さ制限の規制を見直すと言っていますが、それは従来の広さの部屋に、より子どもたちを集めるということ。密集するわけです。風邪をひいたりお腹をこわしやすい子どもたちを、より密集させて部屋に集めるということは、より病気にうつりやすくなるということ。ご一考を。
それに、「子ども食堂」の活用を訴えてますが、公約として掲げるのは違うのではないでしょうか。「こども食堂」の存在は大きい。お腹いっぱい食べられない環境にある方々が満足に食事をできる場ですし、地域の方々のつながりも芽生えてきて、大切な場です。しかし、それは、政治・行政の怠慢によって生まれた格差・貧困にあえぐ方々を、「なんとかしなくては!」って、民間の方が立ち上がって始められたことです。日本の現状においては、「子ども食堂」はなくてはなりません。しかし、政治に携わる方が、はじめから「こども食堂」の活用推進を語るのは、無責任ではないかと思っています。
また、「子どもの発達障害は、“日本の伝統的な子育てをしないからである”ということを主張している親学(おやがく)」に傾倒しているというのも、恐さを感じます。親学推進議員連盟勉強会に名前を連ねていたことを、都知事選立候補後、活動記録から消されたとか。
増田さんは、東京都知事選立候補にあたり東京電力の役職を辞しました。記録から消した内容から、「何が都合悪いことなのかを知っている。分かっててやっている」ということが露わになります。
子育てや教育に関する考え方の恐ろしさを、小池さんに対して強く感じます。

ちょっと一筆で、長々と書いてしまいました。
「掲示板のことば」とは別の日に書かずに、ここで【一筆】を書いたのは、リアルタイムで起きていること(前の参議院選挙や都知事選)に対して、あまりにリアリティを感じ無さすぎではないか? 想像力がなさすぎではないか?と、思ったからです。
都知事選の翌日、京都で知人に会ったのですが、会うなり「東京の人は何を考えてるんですか!!」と怒られてしまいました。「申し訳ない」と謝っておきました。

「リアルタイムが歴史を殺す」・・・歴史を殺されてしまうということは、その時代(とき)を生きる人々を殺されてしまうということ。殺すのは、為政者ではなく、その人を選んでいる私自身。
無関心・無感動が、私自身のいのちを殺めてしまいます。
大袈裟なと笑われるかもしれませんが、私はそう感じます。

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