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2016年7月

2016年7月30日 (土)

他を責めるのは簡単 自を見つめなければ

2016年7月28日 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で殺傷事件が起きました。
胸が締め付けられる事件です。事件の被害者・ご家族の皆さまにお悔やみ申し上げます。

私自身、犯人を許せません。許せませんが、どうか以下の文章をお読みください。
殺人事件が起こると、報道は騒ぎ立て、容疑者の身辺をさぐり、関係者のインタビューを試みます。
また、警察や関係施設に不備がなかったか問いただします。
正直言って、怪しい人物に対して、どれだけ警戒しても、事件が起こるときは起こります。警戒外の人物が事件を起こすこともあります。

この手の事件が起きたとき、関係者・施設の不備を叩き、容疑者を糾弾することは簡単です。
でも、そこで留まってしまっては、私たちも客観的に物事を見ているだけ、他人事として事件を見ているだけで終わってしまいます。

容疑者は、「障害者は、その関係者を不幸にする」「施設に入っている障害者のせいで税金が使われる」「障害者がいなくなれば世界は平和になる」など、身勝手なことを語っていたと報道されています。
健常者と障害者などと表現しますが、ハッキリ言って線引きなどできません。にもかかわらず、自分を健常者に位置付け、生涯を持った者を、この世に必要ない者と言い切る。優性思想と言いますが、悲しい思想です。自分が、そんなにすぐれているというのですか?

北海道に「べてるの家」という障害者施設があります。そこに住む方々は、精神障害をかかえています。北海道日高地方特産の日高昆布の通販を始め、いろいろな事業を起こし、生活を成り立たせています。
施設の周辺に住む方々は、施設ができる当初、そのような方々が住んで大丈夫か?と、不安を抱えていたと言います。しかし、障害を抱えながらも、一生懸命に働く彼らの姿を見ているうちに、元気をもらうようになったと語る人もいらっしゃいます。

「犯人を許せない」と言うのは簡単ですが、
そういう私自身は、障害を持つ方々に対して偏見を持っていないでしょうか?
街を歩く中で、ヨロヨロと歩くお年寄り、杖をついて歩く方、白杖を持っている方、車いすの方など、ハンデを抱えている方を、どのような目で見ていますか?
正直に感じるところ、邪魔者扱いしていませんか?(不愉快な想いをされた方、申し訳ありません)
相模原の事件の容疑者が、どのような思想を持っていたのか、現時点では分かりません(報道によるしかありません)。しかし、自分を是におき、ハンデを抱えている方を冷たい目で見ている私はいませんか? 
私は、できる限り優しく接したいと心がけていますが、時間がないときは見て見ぬふりをし、気分が悪いときは、イラッとすることもあります。
そんなことは、ありませんか?(なかったら、すみません)

つまり、意識的であろうがなかろうが、危うい見方をしていることって、誰にでもあると思うのです。
自分の、そんな思想を棚の上に上げて、実際に犯行に及んだ者を攻めることで終わるとすれば、優性思想の連鎖は留まることがありません。

2016年7月27日子宮頸がんワクチンの接種により、全身の痛み等という副作用が現われた方々が、国と製薬会社2社を相手に1人1500万円の損害賠償を求めて東京など4地裁に一斉提訴しました。
副作用による体の痙攣を起こしている幼い女の子の姿を、テレビで放送されているのを見ていると、涙が溢れ、胸が締め付けられます。
製薬会社は「因果関係が認められない(から、私たちは悪くない)」と言い放ちますが、「因果関係が認められない」ということは、「因果関係があるかもしれない」ということでもあります。
福島第一原発の放射能放出による健康被害も、国や東電は「因果関係は認められない」と言いますが、ということは、「因果関係があるかもしれない」ということでもあるのです。そこの可能性をなしにして、自分たちは悪くないと言い放つ。そうしている間にも、どれだけ被害が膨らんでいると想うのですか?

ワクチン接種による副作用(副反応)は、実際に使ってみなければ分からないところではあります。しかし、子宮頸がんワクチン接種者の方が、かなりの確率で体になんらかの反応をしめしているのです。国は、「積極的な接種の呼びかけをやめる」のではなく、接種の中止を判断するべきです。
また、「子宮頸がんワクチンの接種」を訴えて議員になられた方も、被害に遭われた方々に、直に接していただきたいと思います。

チャンネルを変えてしまいたいニュースが続きますが、目を背けてはいけないことと思います。でも、辛いですね。相模原の事件を受け、報道ステーションの小川彩佳アナウンサーが、涙で言葉が出なくなった気持ちが痛いほどに伝わってきます。

誰もが、平和を願っていると思うのです。
でも、それにしては、いのちを見る眼が軽いと思うのです。
相模原の事件を受け、犯人を許せないと思っている方。では、私たちは日頃どのように行動すればいいですか?
ワクチン接種(子宮頸がんワクチンに限りません)によって、副反応が出た方々。つらいですね。事件や事故によって、体にハンデを負った方々がたくさんいらっしゃいます。そのような方々に、私は何ができますか?

まったく関係のないことを言い出してないか?と思われると思いますが、聞いてください。
「許せない気持ち」「気の毒にと思う気持ち」があるのに、どうして日常の生活で、他者(ひと)を想う気持ちが、こんなにも希薄なのでしょう?
トイレを使うときや、境内のトイレ掃除をするときに思います。どうして、後に使う人のことを考えないんだろう?って。自分が用を足せれば、それでいいのですか? 自分がトイレに入った時に、汚かったら、前の人の用足しが流れてなかったら、嫌でしょう? でも、後に使う人のことを考える人って、少ないですよね。
外食するお店のテーブルもそう。食べ散らかしたまんまで帰る人。片付けてくれる人のことを思って、食器をまとめて帰りませんか?
犬の散歩。かわいいワンちゃんが用足ししたとき、そのまんま行ってしまう人。あるいは、バス停や郵便ポストなど、公共のものに、おしっこを引っかけさせる人。本当に自分のワンちゃんが大切なら、用足しするところも、もう少し気を遣うものだと思います。

等々、日常の中で、周りの人々をまったく気にしない生活をしていませんか?
それって、人を人として見ていないという意味において、実際に人を殺める人と、同じ罪だと思います。
同じにするなよ!とお叱りを受けることと思いますが、でも、もっともっとすれ違う人々・周りの人々・大切な人々のことを想うべきです。
その想いの希薄さが、「自分は優れている(あいつは劣っている)」「自分さえ良ければいい」「役に立たない者は、この世に必要ない」という思考・思想に繋がっていくのではないでしょうか。

憎しみの気持ちは捨てきれません。
しかし、自分はどのような生き方をしているか。
そこをシッカリと見なければいけません。
目を背けたいことが多いけれど、目を背けている場合ではありません

2016年7月25日 (月)

どっちがゲットされているのだろうか

「ポケモンGO」なるゲームが爆発的に流行り、生活の中に入り込んでいます。
スマホが普及した現代(いま)、当然考えられるゲームであり、やりはじめたら熱中してしまうだろうな、と想います。

しかし、架空のモンスターをゲットするために、現実の世界に対して、何の気付きも感動もなくしてしまうことに、悲しさ恐ろしさを感じます。

写真の大きい池にて、周辺では多くの人がスマホ片手にモンスターを探していました。
モンスターをゲットできた人もいるようです。喜んでいます。
でも、現実の池を眺めていても、大きな魚が泳いでいたり、亀が池から顔を出していたりします。この池の周辺でスマホ片手にゲームに集中している人達は、魚や亀の姿・セミの大合唱・暑い中にも一瞬吹き抜ける爽やかな風等々、リアル世界に何も感じず、バーチャルの世界で満足感や安らぎを得ています。
なんだか、もったいないなぁと感じます。

ゲームに没頭する人は、ホント楽しいんだろうなぁと想います。
でも、歩きながら、自転車乗りながら、車乗りながらのプレイはやめましょう!! 他者(ひと)に怪我させちゃうよ! 自分だって傷付くよ! 遊ぶときは遊ぶ、運転するときは運転する。メリハリをつけましょう!!

現実世界に何も感じず、
バーチャルの世界に逃避し、
モンスターゲットに興じているあなた
・・・既に自身がゲットされていることにお気づきください。
※位置情報が把握されているので、ビックデータが収集されているとか、行動が監視されているという情報もあります。

2016年7月24日 (日)

唯円上人 お寺参り

2016年東本願寺夏安居では、『教行信証』「証巻」と『歎異抄』を学んでいます。
『歎異抄』の講義において、その著者とされる唯円上人についてのお話を、講者の三明智彰先生からいただきました。
現代では当然のように『歎異抄』の著者として名前が挙がる唯円上人。しかし、著者名が書いてないため、本当に唯円上人が著者なのか、いまだにハッキリと言い切ることができません。『歎異抄』にお名前が出てきて、その内容と重ね合わせて、「おそらく唯円上人であろう」と言われているのが現状です。
また、唯円上人自身、詳しい記録が残っておらず、謎の多い人物です。師 親鸞聖人に似てますね。

その唯円上人が開基とされるお寺は、茨城県河和田の報仏寺さまです。
私も、それくらいのことは知っていましたが、唯円上人が晩年に奈良で過ごされ、命終を迎えた説もあることは、今夏の安居にて初めて教えていただきました。

2週間の安居生活の中、唯一の休日。奈良県吉野郡下市町下市にある立興寺さまに、お寺参りに行ってきました。
京都駅から約2時間30分。お寺に辿り着きました。
浄土真宗本願寺派 恵日山 東坊 立興寺
立興寺の寺号は、蓮如上人から賜ったと伝わっています。

お寺に着いて、本堂の前で合掌 南無阿弥陀仏
唯円上人のお墓への案内があり、お墓へ。手を合わせ、南無阿弥陀仏。
お参りをさせていただき、帰ろうとしたところ、丁度ご住職に会い、本堂に通され、唯円上人のこと、お寺の縁起等々、丁寧なご説明をいただきました。突然お邪魔したのに迎え入れていただきまして、ありがとうございます。

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著者が誰であれ、『歎異抄』は親鸞聖人の書物ではないのだから、「親鸞聖人の教えを伝える書としていかがなものか」と言う方もいます。
しかし、教えは説く人がいるだけでは成り立ちません。聞く人がいてこそ、教えは教えとして伝わります。
お釈迦さまの教えも、親鸞聖人の教えも、説く方と聞く人がいて、そこに感動が生まれ、後に伝わります。
『歎異抄』を眉間にしわを寄せて読むのではなく、親鸞聖人に出遇って、喜び・感動を得た人が書いたものだと想いながら読んでいただけたらと思います。そういう意味では、どのお聖教もそうです。一言一句、辞書的な意味を考えながら読むのではなく、教えに出遇ってその感動を著されたものとして、私が今読むご縁をいただいた。そんな感動を持って、教えに向き合いたいと思います。

2016年7月22日 (金)

京都散策

夏安居2016 7月22日
講義・攻究も終わり、京都散策に出かけました。
大谷大学構内の様子も雰囲気も、周辺の環境も、学生時代とは変わりました。

下宿中におそらく一番通ったと思われる定食屋に向かいました・・・ありました!
が、お店の構えがあるだけで、店内は散らかっていました。お店を閉じ、そのままになっているのでしょうね。

大谷大学から東に歩き、
東大路通を南下し、
京都大学・平安神宮を経て、
大学の後輩が営んでいる「子どもの本専門店 きんだあらんど」へ。

後輩とはいっても、数える程度しか会ったことがないので、私のことを覚えているかなぁ?と、ドキドキでお店に入りました。
すると、私の顔を見るなり声をかけてくれました。
閉店までの時間、たくさん話ができました。
20数年ぶりに会ったと思うのだけれど、大切な話ができて、とても嬉しかったです。
ありがとう

で、四条を通過して五条通りにある宿へ。
(京都をご存知の方、どれだけ歩いてるんだ!と思われることでしょう)

京都も変わったなぁと思いながら歩いていました。
学校の様子も、雰囲気も、町並みも・・・
大学を卒業して20年以上経てば当然か・・・

始めはそんなこと思いながら歩いていたけれど、
私が京都にいようがいまいが、変わるものは変わるのです。
ということは、京都にずっと住んでいる人にとっても、変わっているのです。
大学には、先生や職員として勤めている学生時代の友人もいます。
彼らは、変わる渦中に身を置いていたわけですね。
移ろいゆく大学に、京都に、何も感じなかった?
いや、いろいろなことを想いながら過ごした20年だったんだろうなぁと思いました。

私なんかは、「あぁ懐かしい」「かわっちゃったな、残念だな」なんて言っておしまいですが、
友人たちは、変わりゆくことが当たり前であったり、変わってほしくないなと思ったり、変わらないために努力したこともあったかもしれない。
3時間近く歩いていて、いろんなことを思いました。

ということを、あまり東京で感じないのはなぜでしょう? 変化が激しすぎるからかな? でも、そんなのんびりしたこと言ってられない時代(とき)を迎えています。


時代の流れの中で

今朝の京都新聞の記事より

大谷大、社会学部と教育学部を新設
大谷大は21日、文学部に加えて2018年4月から、社会学部と教育学部を新設すると発表した。1901年の開学以来、単科大だったが初めて複数学部に移行する。より柔軟にカリキュラムを組める利点があるという。

社会学部は入学定員220人で、コミュニティデザイン学科と現代社会学科を設ける。地域社会と積極的に関わりながら課題解決を目指す。教育学部は入学定員130人で教育学科のみ。保育士養成コースなどを設ける。

現行の1学部9学科から3学部9学科となり、1学年の入学定員は745人で、現行と変わらない。木越康学長は「仏教精神に基づき弱者に寄り添い、貧困やいじめなど社会的な問題に積極的に取り組むため、新学部を設けることを決めた」と話した。

2016年7月21日 (木)

夏安居2016 覚え書き(7月21日)

(注)あくまで、私個人の覚え書き(ノート)です。

2016年7月21日(日) (京都独特の暑さです) 
【暁天講座(6:30~7:30)】
松川節先生
「モンゴル草原の仏教世界」拝聴

【本講(8:10~10:00)】
『顕浄土真実証文類』解釈―「証」の二重性についての試論―


初期の仏典によると、
釈尊の説法を聞いて、それに同意した仏弟子たちは、
「証」を知見したにもかかわらず、生涯をかけて修行に専心している。
それは何のためであったのか。
要するに、
「証」を知見しながら、
「証」の通りには生きていない自身の現実があったからであろう。
「生かされている私」に目覚めながら、
「私が生きている」という自我の束縛から解放されずに、
煩悩に苦悩している自己が、
いよいよ明らかになってくる。
その煩悩との戦いこそが、
仏弟子たちの修行であったと言ってよい。
(中略)
釈尊の説法によって「証」はすでに知見され得られているからこそ、
それを自身に体現するための修行であったというべきである。
 安居講本より(改行は私)

覚り(「証」)を得るために、修行をするものだと考えがちだけれど、
「証」を得たからこそ、修行に励むことができる(励まずにはおれなくなる)。
「証」を得ても、そこから修行が始まるのであり、
入滅のときにあらためて涅槃(覚りの境地)に入ることを考えると、
そこには「証」の二重性がある。

念仏するという功徳を積むことによって 成仏(仏となる)という利益が得られるのではなく、 智慧を得たことによって、 すでに仏となれる身であることが確認されているから、 「念仏を信じる」のであると(『弥陀如来名号徳』に)示されている。 これが親鸞聖人における「念仏成仏」ということである。  安居講本より(改行は私)

念仏の利益として、何かを求める
何かを求めて念仏を申す
のではなく、
念仏申すご縁をいただいたことが、
すでに利益

【次講(10:10~12:00)】
歎異の精神―『歎異抄』聴聞記―

『歎異抄』の“歎異”とは、「異なることを歎く」ということであるが、
親鸞聖人の教えと異なることを説く他者を歎くのではなく、
自身に対する歎きが、
『歎異抄』執筆の縁となる。

他人に対してばかりでなく 自己自身が歎かれるべき異そのものであったという痛傷と共なる自覚のところにのみ、 和合衆が建立されるのである。 (中略) 知的関心や個人的信仰の範囲に於て 『歎異抄』を味わおうとするものは、 サンガ(和合衆)を見失ってしまうであろう。 「歎異」の精神は、 それらにとどまらず和合衆の社会が形成されて行くべき原点である。  安居講本より(改行は私)

教えに触れ、
自分の意見に合うか合わないかで聴聞していては、
サンガの形成たりえない。
教えに聞いていく中で、自身が翻る、気付きや出遇いがある。
誰かを変えさせるため、自分を正当化させるための聞法ではない。
あらためて、「歎異」とは、異端排撃ではないことを想う。

【攻究(13:00~14:30)】
講義を受けて、参加者どうしが自分の受け止めを語り合い、お話の内容を確かめ合う時間。
議論を戦わせ(攻)、より深いいただきを得る(究める)から「攻究」というのかな。

本講講義を受けて、『「証」の二重性』について語り合う。

 

安居5日目が終了
久しぶりに頭を使ってる感じがする。
体も、腰痛持ちにはしんどくなってきた。
けれど、疲れが出たところで、もう一歩頑張ると、更に次の一歩が踏み出せるもの。
攻究が終わる頃には、ギアが一段上がった感じ。

日程が終わった後、しんらん交流館・京都教務所・東本願寺出版に顔を出して、旧知の朋と交流&仕事の話。
充実した1日でした。

2016年7月17日 (日)

夏安居2016 覚え書き(7月17日)

(注)あくまで、私個人の覚え書き(ノート)です。

2016年7月17日(日) のち
真宗大谷派 夏安居 開講(真宗本廟にて)

【開講式(9:15~10:00)】
御影堂で、汗をかきながらの開講式
あぁ、夏安居に臨んでいるなぁという感慨ひとしお

開講の辞
本講 小川一乗先生 『顕浄土真実証文類』解釈―「証」の二重性についての試論―
次講 三明智彰先生 歎異の精神―『歎異抄』聴聞記―
(夏安居で『歎異抄』が取り上げられるのは、ほぼ40年ぶりだそうです)

本年は、真宗大谷派において夏安居が開講されてから300年目。
節目の年に、身を置かせていただくご縁をいただきました。

 

【本講(11:00~12:00)】
『顕浄土真実証文類』解釈―「証」の二重性についての試論―

仏教は、教主世尊(釈尊)の「覚り」を大前提としている仏道によって成り立っている「覚りの宗教」である。
ともすると、浄土真宗は、信心を強調するため「信の宗教」のように受け取られることがあるが、基本的には、釈尊の「覚り・目覚め」を大前提としている「覚りの宗教・目覚めの宗教」である。

「仏陀」とは「目覚めた者」という意味である。
目覚めのことを「正覚」と称し、「等正覚」とも表現されている。
「等正覚」とは、釈尊の「正覚」が誰にとっても「等しく正しい覚り」であることを意味している。
この「等正覚」のことが、親鸞聖人によって「証」として示されている。

「等正覚」に出遇った者は、自らもその「等正覚」を体現したいと願って生きる者となる。
そこに「証」という成仏(仏と成ること)への仏道が始まる。

それでは、「成仏」とは、どういうことであるのか。
そのためには、先ず釈尊の覚り(等正覚)とは何かが明らかとならなければならない。
そして、この「等正覚」による「成仏」とは、親鸞聖人においてはどういうことであるのか。
そのためには、『教行信証』「証巻」に説示されている「真実証」とは何かが明らかとならねばならない。
釈尊の「等正覚」を覚る「証」と、親鸞聖人の「真実証」との関係を解明し、「真実証」こそが釈尊に始まる等正覚の「証」の必然的な展開であることを解明する

ところで、
親鸞聖人における「成仏」とは、「念仏成仏」である。
『浄土和讃』「大経意」においても、「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門」と詠っている。
「念仏成仏」を説かれた法然上人。それを引き継いだ親鸞聖人は、どのような内容として了解したのであろうか。
そのことも「真実証」に対する論究によって明らかにあるであろう。

親鸞聖人は、常に「念仏成仏」という術語として示された。
「念仏」と「成仏」との関係は、それを分けて説明する必要のないほど自明なことであったからであろう。
親鸞聖人における「念仏」と「成仏」との関係は、どのように自明であったのであろうか。
このことについても、「真実証」への論究によって明らかになろう。

親鸞聖人は、「真実証」の次のように述べている。
謹んで真実証を顕わさば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。
「利他円満の境地」「無上涅槃の極果」と、どうしてこのように提示できるのか。
釈尊に始まる等正覚に基づいてもたらされた仏教における「証」についての確認が前提とならなければならない。釈尊以来の仏道体系に基づいて、そこに展開されている「証」の構造を解明して、「真実証」について、新たな問題的を試みようと思う。
(安居本講講本 『顕浄土真実証文類』解釈―「証」の二重性についての試論―より)

 

【次講(13:00~14:00)】
第一節 書名について
『歎異抄(たんにしょう)』という名は、「異なることを歎く小篇(ノート)」というほどの意味である。
作者自身の命名による。
『歎異抄』「前序」において、「先師口伝の真信に異なることを歎き」とあり、異なることを歎くという意味で「歎異」と言われたことがわかる。

異なるとは、何が何に異なるのか。
「先師」(宗祖親鸞聖人)亡きあとの、教え子達の信心が「先師口伝の真信」に異なるということである。
そこに、作者自身も含まれている。
されには、時代的限定を超えて、今日も「先師口伝の真信に異なること」が歎かれているというべきであろう。
その点で、『歎異抄』という書名に向かう時、本抄の湛える(たたえる)歎きの情が我々にまで向けられていると感ぜざるを得ないのである。
そのようにして向き合った先覚者の一人が蓮如上人だったのではないだろうか。
(『歎異抄』は原本がなく、現存する最も古い書写本は、西本願寺が所蔵する蓮如書写本です。次講における『歎異抄』底本は、蓮如上人書写本を用います。)

開講の辞より
歎異の精神が、真宗再興の精神であると指摘されたのは、曽我量深先生であった。
「異なるは自分である」(『歎異抄聴記』第1講 『曽我量深選集』第6巻24頁)と言われたことに特に留意せざるを得ない。
自是他非(自分は正しい、他は間違っている。自分の了解こそ正しい、他の了解は間違っている歎かわしい)をあげつらうのでなく、「歎異」が自らに向けられていると頂かれたのである。
『歎異抄』第9条の親鸞聖人と唯円の対話に、師と弟子の歎異の感情が響きあう。
そこに
「如来廻向の一味の安心が自証され得る。そこに始めて真宗再興といふことが成就すると私は深く感じてゐる」(『曽我量深選集』第6巻26頁)
歎異の感情の共鳴による如来回向の一味の信心の自証が欠けたところには、和合衆は成立しない。
真実信心の共同体・和合衆成立の原点が、歎異の精神であるということなのである。

『歎異抄』は、決して異端排撃の書ではない。
質実なる信心の書である。
『歎異抄』を貫く、この「歎異の精神」こそ真の人間の共感・協同を実現するのであろう。

第二節 作者について
『歎異抄』「前序」「中序」「後序」はじめ随所において、作者は宗祖の面授口訣の直弟子でなければならないことがわかる。
(ただ宗祖のお話を聞いたという程度のことではなく、一対一で膝を付き合わせて、問いたいことを尋ね、宗祖もそれに応える。それほどまでの関係が、面授口訣ということです)

江戸後期の三河の了祥の『歎異抄聞記』の研究成果があり、作者は水戸市河和田の報仏寺開基の唯円であるとされて以来、唯円説が最も有力である。
(安居講本『歎異の精神―『歎異抄』聴聞記―』を中心に)

【白山勝久 想ったこと】
次講開講の辞 
「『歎異抄』は、決して異端排撃の書ではない」
に共鳴・共感。
「歎異」(異なるを歎く)の響きが、「親鸞聖人の教えに反したことを言う人がいて、歎かわしい」と言っているのだと思い込む方がいる。
そのとき人は、自分を是とし、他を非としてしまう。そして、他(異端)を排撃(排除・攻撃)してしまう。
様々な方が『歎異抄』の解説本を出しているけれど、「異端排撃の書」と捉える人も、少なくない。・・・歎かわしい。なんて言っては同類になってしまいますね。

阿弥陀如来は、念仏申すすべての生きとし生けるものを救いたいと誓願を建てられました。
「念仏申す」とは、限定の表現ではありません。すべての生きとし生けるものが、念仏申す衆生なのです。
つまり、阿弥陀如来の救いからもれる人はいないのです。
そんな教えに出遇わせていただいた者が、「異なる教えを流布する者を排除する」なんて教えを説くでしょうか。書を残すでしょうか。
『歎異抄』は、自己を問う、自己を省みることを忘れて生きている私の生き方を、証明してくださる書です。
その気付きにおいて、教えに出遇った者は、和合衆(教えの元に集まる仲間)となれる。

『歎異抄』に関する解説批評に欠如しがちだったのは、和合衆回復の願いからこの本が書かれたということへの省察ではなかったかと思うのである。
(次講講本「あとがきにかえて」より)

今回の夏安居において、『歎異抄』起筆の願いが和合衆回復にあるとされることばが、大切に響いてきます。
そのことが、本講で問題にされている「証」と「真実証」の論究にも繋がるような気がしました。

十数年ぶりの夏安居
真宗大谷派において、大切な学びの場です。
夏安居を楽しみに、毎年参加されているおじいちゃん おばあちゃん(先輩住職 先輩坊守)がいます。
十数年ぶりだから、以前知り合いになった方は来ているかなぁ?と思っていたら、おじちゃん(失礼)の方から声をかけられました。
「白山さんですよね! お久しぶりです!」
「〇〇さん! ご無沙汰してます!」
名前が思い出せないのではなく、スッと出てきたことに自分でも驚きました。
若輩者に「“お”久しぶりです」と声をかけてくださる人生の先輩。
また、お互い知らない人の方が多いのに、自然と挨拶を交わせる場。
教えの中に身を置くと、年齢差も関係ないし、知ってる人知らない人なんてことではなくてみんな繋がっているという感覚を共有している。
まさに和合衆!!
夏安居がますます楽しくなってきました。
明日から大谷大学に場を移して、夏安居スタートです

2016年7月16日 (土)

東京都知事選 期日前投票行ってきました これから夏安居に臨みます

2016年7月31日(日) 東京都知事選投開票
21人もの方が立候補したというのに、主に3人の方だけがテレビでメッセージを発していることにとても違和感があります。

さて、私は早くも期日前投票をしてきました。
ほとんどデータも集められない中、投票者を決めることに悩みました。
それなら、やはり無投票や白票もありではないか・・・と一瞬考えましたが、さんざん「GO VOTE」なんて言いながら、無投票はあまりに無責任だし、投票はすべきものだと思うので、行ってきました。

各まちづくりセンター(出張所)での期日前投票は24日(日)からですが、世田谷区役所では15日(金)から受け付けています。雨の中、世田谷線に揺られながら行ってきました。

さて、ここが大事
各世帯に届く「投票所入場整理券」(っていうんですね。初めて知りました)。
この整理券を持っていないと、投票できないと思っている方が多いと思います。先日の参議院選挙までの私も、そう思い込んでいました。
でも、持ってなくても投票ができるんです。
投票所に行って、「期日前投票宣誓書」に記入して受付に出せば、投票券をくれます。
今回の私は、まだ「投票所入場整理券」が届いてなかったのですが、「宣誓書」に記入したら、投票できました。

投票に行ったけど、「あっ、券を忘れちゃった。券を取りに戻ってまで投票しなくてもいいか」なんて考えてしまったことがある方
出先で、投票所の近くまで来たから、「ついでに投票したいけど、券がないんだよなぁ」という方
大丈夫です。自分の名前・住所・生年月日が書ければ、投票できます。
ぜひぜひ、投票なさってください。

   

では、どうしてこんなに早く期日前投票に行ったのか。
7月17日~31日まで、京都東本願寺・大谷大学を会場に行なわれる「夏安居(げあんご)」を聴講するため、京都に行って参ります。

「安居」とは
お釈迦さま在世の頃、日頃は修行を行なったり、人々が集まってお釈迦さまの法(教え)をいただいたりして過ごします。しかし、雨期には草木が生い繁り、虫やそれを食べるヘビ等の活動が活発になります。そんな時期に修行や、出かけて行って聴聞したりすると、虫やヘビなどを踏みつぶしてしまう、殺生をしてしまう可能性があるわけです。そのため、雨期にはひとつ所に集まって、そこでお釈迦さまの教えに耳を傾けることをしていました。それが「安居」のはじまりです。
東本願寺では、毎年7月後半頃の2週間、「夏安居」が行なわれます。曽我量深先生ご存命の頃は、一ヵ月にかけて「夏安居」が行なわれていました。『歎異抄聴記』もそこで生まれました。

大学卒業後、9年間「夏安居」を聴講させていただいていました。いろいろな事情が重なって、「夏安居」は卒業しました。
昨年の6月頃から、なぜか急に「集中した学びの場に身を置きたい」と想いが湧き起こってきました。
で、昨年8月頃、次年度の(つまり今年度の)「安居」の要項が発表になったとき、なんとか都合が付けられそうな日程だったので、ダメ元で住職・坊守・妻の前で「来年の夏安居に参加したいなぁ」とつぶやきました。そしたら、みんながみんな賛成してくれました。「え!ウソでしょ?」ってくらいストレートに押し出してくれました。
「良いことじゃない、いってらっしゃい」(坊守)
「行けるときに行っておきなさい」(住職)
ありがとうございます

「夏安居」の講者と講題は、
本講 小川一乗先生 『顕浄土真実証文類』解釈―「証」の二重性についての試論―
次講 三明智彰先生 歎異の精神―『歎異抄』聴聞記―

小川先生は、私が初めて「夏安居」に参加したときの講者
三明先生は、私にとっての不可思議な一年に出遇った、「真宗の教え」を説いてくださった恩師。机上の勉強ではなく、人との出遇いを通しての学びを、身につけさせていただきました。西蓮寺でも、永代経法要や毎月の聞法会でお話をいただいていました。

「夏安居」聴講のご縁に感謝しつつ、7月17日~31日、必死に聴聞してきます。
で、31日は満講式(いわゆる閉講式)が終わったら、都知事選投票のために帰京しなくては、と予定していましたが、世田谷区役所では15日に期日前投票ができました。それを調べてくれたのは妻。
「せっかくがんばってくるんだから、31日、無理する必要ないわよ」(妻)
ありがとうございます

若いときと違って、どんなふうに教えがしみこんでくるか。ワクワクしています。行ってきます。

2016年7月15日 (金)

傲慢さと情けなさと申し訳なさと

人に教えるということの難しさを痛感

教えることの難しさには、

自分は分かっているという傲慢さと

分かっているんなら丁寧に教えることができるはずなのに、
それができない、つまり本当は分かってないんだよという自身の情けなさと

どうしてイライラしながら教えてるの? 目の前の人に当たっちゃダメだよという申し訳なさ

それらが同居している。

「難しさを痛感」って、

難しいことを痛感したんじゃなくて、

傲慢さ・情けなさ・申し訳なさを痛感しているってことだなぁ

だからこころに突き刺さり、凹む

おやすみなさい

2016年7月14日 (木)

都知事選って、こんなにも政党が前面に出てたっけ?

東京都知事選に出馬したM田氏は、2014年6月に「東京電力ホールディングス株式会社・取締役」に就任している。が、都知事選出馬にあたり、取締役を辞任したとのこと。
本人の意志による辞任なのか、公認している党からの命令なのかは分からない。
しかし、これから選挙に臨むというときに、まるで何事もなかったかのように就いていた職を辞すということは・・・選挙にとって不利益な事柄を排除しておこうと画策したものと思われても仕方がないのではないか。

つまり、東京電力の役職に就いていることが不利益だと考えるのは、原発の問題があるから。
原発を推進している党・人が、本当に「自然の原料に頼らず発電するためには、原発しかないんです」「原発こそクリーンエネルギーで、地球に、人に優しいんです」と思っているのなら、職を辞す必要はない。職も辞さず、原発の必要性を訴えればいい。「東京には、原発が必要なんです」と。しかし、職を辞した。うしろめたいことや、原発の危険性を知っているからこそ、「東電の社外取締役」は、選挙には不利と考え、辞したのでしょう。

本当は、原発の危うさを知ってるんですね。
コントロールできないものだって分かってるんですね。


2016年7月13日 (水)

お盆です

お盆です

お盆です

東京はお盆を迎えています。
お墓参りにみえた方のため、テントを張って準備完了
私は1日外参りに行ってきます

2016年7月12日 (火)

見えないけれど、昼間も星は光り輝いている

7月7日(木)永六輔さん還浄

永さんのお話しで、こころに残っているお話。
「地球の誕生から46億年と言われています。みなさん、ご自分のお年に、46億年を足してみて下さい。
46億90才 46億10才・・・ねっ、そんなに年の差なんてないでしょ。
大人だ子どもだというけれど、地球の誕生の歴史からいえば、大人も子どもも大差ないんですよ」

そのお話だけ、なぜか耳の底に残っている。

年の功だから、
経験を積んでいるから、
子どもは、大人が導いてあげなければいけないから、
なんてことは、地球誕生・生命誕生の歴史からいえばたいしたことではない。
「同じいのちという目線に立て!」
というメッセージとして聞こえてきます。
(実際に、永さんが何を言わんとしていたのかまでは、覚えていないのですが)。
永さんありがとうございます。 南無阿弥陀仏

 

 見上げてごらん 夜の星を
 小さな星の 小さな光りが
 ささやかな幸せを うたってる

 見上げてごらん 夜の星を
 ぼくらのように 名もない星が
 ささやかな幸せを 祈ってる

    「見上げてごらん夜の星を」(作詞 永六輔/作曲 いずみたく)

どんな時代でも、空の星は光り輝いている
わたしを照らすために

2016年7月11日 (月)

日常が非日常へ 非日常が日常へ


いつもと同じ朝なのに

恐ろしい日常の幕を開けてしまった朝

晴れて明るい風景なのに

なんて真っ暗な風景なんだろう

2016年7月 9日 (土)

GO VOTE 「みんな」が詰まった「わたし」

「こどものため」ということば

私も3児の父です

大切なことば 大切な想いだと思います

でも、

「こどものため」と言う前に

「わたしのため」が前提だと思うのです

「わたしのため」と言っても

私利私欲に走った「わたしのため」ではなくて、

「自分さえ良ければいい」とか

「自分の人生なんだから、自分の好きにしていいだろ」とかでもなくて、

“みんな”を内包した「わたし」

「わたし」は、「わたし」だけの「わたし」ではない

「わたしは、あなたのことを愛しています」

「わたしは、あなたのことを傷つけたくありません」

「わたしは、あなたのためにがんばります」

この「わたし」や「あなた」は、

個体・単数としての「わたし」や「あなた」ではない

「あなた」を想う「わたし」には「あなた」がいて、

「わたし」がと言わせてくれる「あなた」がいるから「わたし」でいられる

単数で在りながら、複数のことばが、

「わたし」と「あなた」

そんなことを想ったとき

「こどものため」の前提に

「わたしのため」があると思った

「こどものために」と言っている安保関連法案に反対するママの会の皆さま

あなたの声に、どれだけハッとさせられたか

あなたの声に、どれだけ励まされたか

あなたの声に、どれだけ多くのいのちを感じたか

あなたが叫ぶ「こどものため」には、

「自分のこどものため」という想いはありませんね

「世界中のこどものため」という想いが、

ギュッと詰まっていますね

感じます 伝わります

そんな「あなた」が発する声だからこそ

「わたしのため」に「みんなのため」という想いが込められている

かたや

「国民のため」ということばの白々しさよ

大国に追従し、

隣国を敵視し、

国民をないがしろにし、

日本国籍を持たない者を、危険分子と位置付ける

そんな国で

オリンピック・パラリンピックが、どうしてできようか

「国民のため」と言いながら

私利私欲に走る権力者の声に

国民不在・国民不要の気持ち悪さが見え隠れする

「国民」という複数のことばの中に、

「わたしさえよければいい」という単数の響きがハッキリ聞き取れる

「国民」を国民と思っていない者が、

「国民」を愛していないものが、

「国民」を利用する者が、

「国を愛する」「美しい国」などと声高らかに叫ぶ声は、欺瞞に満ちている

「わたしの未来のため」…「わたし」は「みんな」

苦しむほどに熟考して一票を

2016年7月 7日 (木)

GO VOTE 報道に惑わされずに

どうして報道って、どこどこの党が優勢、誰々がリードと、そういうことを伝えようとするのだろう。
選挙の投開票当日も、事前調査や出口調査のデータを元に「当選確実」を打ち出すのだろう。ひどい場合、開票が始まるや否や「当確」を出したりする。データの確実性も高まっているのは分かるけれど、それでも「当確」が外れることが度々ある。「残りの票がすべて次点の立候補者を書いてあったとしても、それでも1位に届かない」とこまで開票したときに、「当確」を出しても遅くはないのに。

投開票前に「どこどこの党が〇○以上の議席を確保する模様」と報道するのは、「そうあってほしい」という想いの反映に思ってしまう。
どこの党が何をしようとしているのか、誰が何を訴えようとしているのか、
どこの党が何を隠しているのか、誰が何について触れようとしないのか、
そういうことを伝えて欲しい。

「報道で優勢と伝えられる人に入れれば良いか」「もう大勢が決しているのなら、投票する必要もないか」などと考えず、自分の頭で考えて投票しなければ。
この人が当選(落選)し、この党が優勢(劣勢)になったとき、何が起こるのか。

イギリスが、国民投票の結果、EUからの離脱が決まりました。
しかし、国民投票の結果が出てから、その現実をしることとなり、再度の国民投票を望む声が高まっています。「離脱」を推していた議員や有力者は、国民投票前に訴えていた「離脱」の理由・利点を、「言ってはない」「可能性の話」などと言いだし、尻込みしています。

日本における報道は、「イギリスの人々は、EU離脱に悲観しています」という視点で取材・報道をされているので、それを多く目にする私たちは、「イギリスの人たちはやっちゃったねぇ」「もっと真剣に考えなきゃねぇ」「いまさら離脱反対なんて、もう遅いよね」などと、まるで他人事のように感想を述べています。

でも、日本も間もなくそうなってしまいそうです。
大手メディアの報道や、権力者の声に煽られ、そこに安易にのってしまっては、イギリスの国民投票と同じ道を歩んでしまいます。
「日本の人たちも、やっちゃったねぇ」などと、言われないように、考え、投票しましょう。

2016年7月 6日 (水)

GO VOTE 既に希望の中にある

“希望”は、

生きとし生けるものすべてが

元々持っているもの

誰からか与えてもらったり

持てる環境を用意されるものでもない

“希望”は、

今に感謝の気持ちが自然に湧き起こり、

未来に向けてワクワクドキドキが広がっていくもの

なのに、

今に不満の気持ちが立ち籠め、

未来に向けての不安や不満が解消されればいいなと思うことが精一杯

“希望”が、

今以上に少しでも光が増すように願うものから

せめて今より暗くなりませんようにと願うものに変質している

そうさせているのは、

「希望が、ゆきわたる国へ」などと言っている方々と、手を組む方々

「希望が、ゆきわたる国へ」って、なんかおかしい

つまり、今、希望がないということの裏返しでは?

そうしているのは誰?

そうしてしまった一端は、わたしにもある

希望は、

誰に制約されるでも、与えられるでもなく、

日本に生きる人だけでなく、あらゆるいのちに、

私のこころに、既にある!!

2016年7月 5日 (火)

GO VOTE  他人事ではありません

〇チェルノブイリ原発事故後、「チェルノブイリ法」が制定されました。ウクライナやベラルーシでは、年間被ばく線量が1~5ミリシーベルトの地域では、住民に移住の権利が与えられています。つまり、1~5ミリシーベルトの放射線量は、人が、いのちが生きるには適さないのです。にもかかわらず日本政府は、住んでも影響はないという放射線量を20ミリシーベルトに引き上げ、福島第一原発周辺地域への帰宅を進めようとしています。補償金は打ち切られます。

〇子どもの甲状腺癌発症率は100万人に1~2人程度といわれています。しかし、福島県の子どもの甲状腺癌が100人以上確定しています。

過日、三宅洋平さんのメッセージを聞きにいったと書きました。
そのメッセージの中で、上記のようなことを訴えたとき、私の隣にいた若い方々が、「えっ、そうなんだ!!」「ひどいね!!」などとつぶやいていました。原発事故後、いろいろな記事を読みあさっている者にとっては、既に知っていることです。だからつい「既に誰もが知っていること」と思いがちなのですが、そうではないのですね。メッセージを聞きに来てくれた多くの方々が、そのことを知らなかったかもしれません。
でも、政治に、選挙に関心を持つ人が増えることによって、知らなかったこと、知ろうとしなかったことを知ることができる人が、どんどん増えてくるものと思います。
権力者にとって隠しておきたいことも、知れ渡ります。

奥田愛基さんが応援演説をしているのを聞いた中年男性が、「SEALDs(シールズ)って何? 彼のこと知らなかったけど、いいね。彼が応援している人を、応援しようかな」と言っていたという記事を読みました。
「SEALDs(シールズ)」を今に至って知らない人がいるんだ!とも思いましたが、現政府に疑問や不安を持つ人の輪が広がっている空気を感じます。

私は、20歳になってからすべての選挙において投票をしてきましたが、決して政治に関心があったわけではありません。いろいろ気にかけて情報を集めたり、報道を気にしたり、自分の頭の中で考えるようになったのは、東日本大震災後です。偉そうなことを言える立場ではありませんが、自分が住んでいる国のことです。つまりは私自身のことです。

原発の問題だけではなくて、
武器輸出を解禁したり(それって、既に戦争に加担しているということ)、
ブラック企業対策や貧困対策に積極的でないのはどうしてだろう?
手を付けてはいけない禁断の国民のお金に手を出して、5兆円の損失を出したり(その穴埋めも、税金から)、
自民党の憲法改憲案では「基本的人権」が削除されている・・・

「知らない」「関心が無い」「どうでもいい」では済まされない現実が、今あります。
ホント、恐ろしい状況です。

2016年7月 4日 (月)

GO VOTE 伝えたいのか 傷つけたいのか

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伝えたいことを、きちんとことばにできれば、

他者をデスる必要など、ないと思う。

きちんとことばにしたうえで、

傷付く他者が出るのも、それも現実。

でも、伝えることが目的か、

他者を傷つけおとしめることが目的か。

どっちに重きを向いているか、

誰のことを想ってものを語っているのか、

ことばを聞いて、見極めなければ。

2016年7月 3日 (日)

新盆法要2016

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2016年7月2・3日(土・日) 西蓮寺新盆合同法要をお勤め致しました。

「無量光」について、所感として以下のようにお話をしました。

「東日本大震災の際、国内の方のみならず、世界中の方々が日本を、被災された方々を心配してくださいました。日本人の親戚などいない人も、日本に行ったことがない人も、とかく仲が悪いなどと報道されている近隣の国の人たちも、日本に、被災者に支援の手を差し伸べてくださいました。同じときを生きる人と人、いのちといのちのつながりが「無量光」ではないでしょうか」

法要・会食が終わってから、参拝された方の1人が声をかけてくださいました。

「私は、東日本大震災当時アメリカに住んでいました。あのときも、スーパーで買い物をしていればレジの女性が、「あなた日本人でしょ? 家族は、友達は大丈夫だった?」と声をかけてくれました。高速の電光掲示板には「日本がんばれ!」みたいなメッセージが表示されていました。あのとき、あぁ、人と人とはつながっているんだなぁと思いました」

と、お話を聞かせてくださいました。ありがとうございます。
人と人、いのちといのちは、利害関係や、知人かそうでないか、好きか嫌いか、なんてこと抜きにして、手をとりあえるんですね。つなっがっているんですね。
これが、利害関係や好き嫌いが絡むといやらしい話になり、組織と組織、地域と地域、国と国なんて話になると、傷つけあい、殺し合いまでしてしまう。
「元のいのち」にかえりたいですね。

傷つけあい・紛争・戦争がありませんように。南無阿弥陀仏

2016年7月 2日 (土)

GO VOTE いのちの声を聞く

不都合な事実を隠すためのメッセージは、話しているうちに化けの皮がはがれます。
自分の想いに反したメッセージは、語っているうちに自分でも苦しくなってきます。
選挙演説を聞いて、できるかぎりそこを見極めたい。

2016年7月2日(土)
参議院議員選挙2016 東京選挙区で無所属で出馬されている三宅洋平さんのメッセージを聞きに渋谷駅前 選挙フェス 自分らしくあれる社会へ。
自分の想いを、自分のことばで語ることが出来る人だと感じます。

「いのち」ということばは、「息と血」から由来しているという説があります。
三宅さんのメッセージは、「いのち」の声(こころの底からの叫び)だと思います。

公約を読み、できることなら声を聞き、投票する人を選びましょう
「いのち」の声を発している人に出遇えますように!!

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卑湿の淤泥(現代社会を懸命に生きるいのち)の中に、蓮華が生じていました。

2016年7月 1日 (金)

2016年7月のことば

おはようございます
今日から7月ですね。一年の折り返し。早いものです。時間の経ち方に違いはないので、早かったり遅かったりということはないのに、不思議です

西蓮寺の掲示板、7月のことばをお送りします。
草稿段階では、説明っぽい文章になってしまいました。とてもつまらない文章になってしまいました。ボツにしました。
完成原稿は、イメージを膨らませて書いたので、もしかしたら文章の世界に入るのに戸惑われるかもしれません。思い切って文章に飛び込んでみてください

東京は暑い日が続くそうです。おからだお大事に 水もお大事に

   

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 高原(こうげん)の陸地(ろくじ)には、蓮華(れんげ)を生ぜず。
 卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず。
                       『維摩経(ゆいまきょう)』

異臭が漂い、ぬかるんだ沼地が行く手を阻む。しかし、ぬかるみに足をとられながらも、一歩一歩、歩みを進めるしかない。
真っ暗闇で視界は悪い。先が見えない歩みだけれど、ぬかるみにもがきつつ、次の一歩を踏み出す。
ほんの少し先すら見通せない暗闇を歩いているけれど、そんな暗闇に、私を照らすほのかな輝きがある。
私ひとりの力には限界がある。人生には、伴走者、共に歩んでくれる朋がいる。
真っ暗闇で視界が悪い中、なにも頼りとせずに歩むことなんてできない。ほのかな灯火(ともしび)が、私を照らしている。
自分の力で生きていると強がっていたけれど、朋の支え、灯火の導きがなければ、歩めぬ私。
朋の存在も、灯火の導きも、つらく苦しい「卑湿の淤泥」に身を置いているからこそ感じられた。
なにひとつ不自由のない、理想の境遇「高原の陸地」に身を置けたならば、私は朋や灯火に気付けるだろうか? 私はどれだけ思い上がっていたことだろう。
明るくて、快適で、温かい境遇に身を置けば、多くの事柄がハッキリと見えて、その境遇に感謝できそうなものだけど、なにも見えない。なにも感じない。
悩み苦しみに覆われ、暗く重々しい境遇に身を置いている私。しかし、その境遇の責任を、他に押しつけたままでは、やはりなにも見えないまま。
私には、共に歩んでくれる朋がいる。私を照らす灯火がある。その気付き、その出遇いが、今まで見えなかったものを、ハッキリと見させてくれる。
身を置く環境に変わりはない。けれど、暗闇の中にありながら、今まで見えなかった光が見えてきた。周りが見えてきた。
その光は、賢くなったから、謙虚になったから、忍耐強くなったから当てられた光ではない。
「卑湿の淤泥」に身を置く私。そんな私を助けたいと願う阿弥陀の慈悲の心が、光として既に、常に、これからも、私に当てられている。
「卑湿の淤泥」の正体は何か? 私の足元をぬかるませ、歩みを阻むものの正体は?
私は、伴走者である朋と、手をつなぎ合いもすれば、傷つけ罵り合いもする。最高の友だからといって、永遠の朋であるとは限らない。
朋との友情は、他者との決別を生み出すこともある。そんないのちを、私は生きている。「卑湿の淤泥」の正体は、外ではなく、内にありました。
そんな私に、親鸞聖人の声が聞こえてきます。
「私は、からだいっぱいに煩悩が満ち溢れています。欲も多く、いかりや腹立ち、そねみやねたむこころがいっぱいです。そんなこころが、一瞬たりとも止むことがありません。そんなこころを、いのち終えるそのときまで、とどまることもなく、消えることもなく、絶えることもなく抱き続ける私です」

これは親鸞聖人の物語。そして、今を生きる私の物語。私たちは泥の中を歩み続ける。そこに蓮の華が咲いている。

   

掲示板の人形
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子ガエルを背負ったお母さんカエル
吉祥寺コピス内のお店で、一目惚れして買いました。
あっ、子ガエルって、オタマジャクシじゃん!!

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