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2016年7月21日 (木)

夏安居2016 覚え書き(7月21日)

(注)あくまで、私個人の覚え書き(ノート)です。

2016年7月21日(日) (京都独特の暑さです) 
【暁天講座(6:30~7:30)】
松川節先生
「モンゴル草原の仏教世界」拝聴

【本講(8:10~10:00)】
『顕浄土真実証文類』解釈―「証」の二重性についての試論―


初期の仏典によると、
釈尊の説法を聞いて、それに同意した仏弟子たちは、
「証」を知見したにもかかわらず、生涯をかけて修行に専心している。
それは何のためであったのか。
要するに、
「証」を知見しながら、
「証」の通りには生きていない自身の現実があったからであろう。
「生かされている私」に目覚めながら、
「私が生きている」という自我の束縛から解放されずに、
煩悩に苦悩している自己が、
いよいよ明らかになってくる。
その煩悩との戦いこそが、
仏弟子たちの修行であったと言ってよい。
(中略)
釈尊の説法によって「証」はすでに知見され得られているからこそ、
それを自身に体現するための修行であったというべきである。
 安居講本より(改行は私)

覚り(「証」)を得るために、修行をするものだと考えがちだけれど、
「証」を得たからこそ、修行に励むことができる(励まずにはおれなくなる)。
「証」を得ても、そこから修行が始まるのであり、
入滅のときにあらためて涅槃(覚りの境地)に入ることを考えると、
そこには「証」の二重性がある。

念仏するという功徳を積むことによって 成仏(仏となる)という利益が得られるのではなく、 智慧を得たことによって、 すでに仏となれる身であることが確認されているから、 「念仏を信じる」のであると(『弥陀如来名号徳』に)示されている。 これが親鸞聖人における「念仏成仏」ということである。  安居講本より(改行は私)

念仏の利益として、何かを求める
何かを求めて念仏を申す
のではなく、
念仏申すご縁をいただいたことが、
すでに利益

【次講(10:10~12:00)】
歎異の精神―『歎異抄』聴聞記―

『歎異抄』の“歎異”とは、「異なることを歎く」ということであるが、
親鸞聖人の教えと異なることを説く他者を歎くのではなく、
自身に対する歎きが、
『歎異抄』執筆の縁となる。

他人に対してばかりでなく 自己自身が歎かれるべき異そのものであったという痛傷と共なる自覚のところにのみ、 和合衆が建立されるのである。 (中略) 知的関心や個人的信仰の範囲に於て 『歎異抄』を味わおうとするものは、 サンガ(和合衆)を見失ってしまうであろう。 「歎異」の精神は、 それらにとどまらず和合衆の社会が形成されて行くべき原点である。  安居講本より(改行は私)

教えに触れ、
自分の意見に合うか合わないかで聴聞していては、
サンガの形成たりえない。
教えに聞いていく中で、自身が翻る、気付きや出遇いがある。
誰かを変えさせるため、自分を正当化させるための聞法ではない。
あらためて、「歎異」とは、異端排撃ではないことを想う。

【攻究(13:00~14:30)】
講義を受けて、参加者どうしが自分の受け止めを語り合い、お話の内容を確かめ合う時間。
議論を戦わせ(攻)、より深いいただきを得る(究める)から「攻究」というのかな。

本講講義を受けて、『「証」の二重性』について語り合う。

 

安居5日目が終了
久しぶりに頭を使ってる感じがする。
体も、腰痛持ちにはしんどくなってきた。
けれど、疲れが出たところで、もう一歩頑張ると、更に次の一歩が踏み出せるもの。
攻究が終わる頃には、ギアが一段上がった感じ。

日程が終わった後、しんらん交流館・京都教務所・東本願寺出版に顔を出して、旧知の朋と交流&仕事の話。
充実した1日でした。

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