« 意味があるのだろうか? と思っていたけれど、今だから分かった 意味があったのだ | トップページ | 前に生まれた者は後を導き、後に生まれた者は前を訪え »

2016年5月11日 (水)

世間の法は人を罰す 仏の法は人を誕生させる

世間法は法の名において、法のために「人」を罰します。

仏の法は懺悔をもって「人」を誕生させるものです。

つまり、法において「人」が誕生するところに仏の法の意義があり、

世間の法は、「人間であるならば当然守らなければならない」という前提のもとで成立するものです。

『鬼神からの解放(下)-教行信証・化身土巻-』 平野修 (難波別院発行)

今日響いたことば

   

悪いことをして罰せられる、咎められるのは当然のこと・・・と思い込んでいるけれど、

「人間であるならば当然守らなければならない」こととは、あるグループ・組織・国などの約束事にすぎない

だから、ある国では合法で、ある国では違法なんてこともざらにある。

そんな根っこのない約束事に、それに反したとき、第3者は執拗にバッシングを浴びせる。

まるで「私はそんなことしない」とでも思っているかのように。

法やルールを破っても良い、守るに値しないなんて言っているのではありません。

でも、世間の法(「人間であるならば当然守らなければならない」約束事・事柄・ルール)を破った者に対する非難が、人を人として見ていないかのようだ。

縁によっては、ほんと人間は何をしでかすか分からない。

そんな「わたし」は、罰を背負って生きているようなもの。

その気付きが、親鸞聖人をして「愚禿(ぐとく)」と名告らしめた。

懺悔 愚禿の名告り において、人が誕生した!!

先に生きる人の懺悔のおかげで、わたしは仏の法(おしえ)に出遇うことができました。

懺悔するご縁もいただきました。 南無阿弥陀仏

« 意味があるのだろうか? と思っていたけれど、今だから分かった 意味があったのだ | トップページ | 前に生まれた者は後を導き、後に生まれた者は前を訪え »

コメント

こんにちは。

現実にはどこにも存在しないもの、不可能の領域、世界の外部、基準という、言説もありますね。


いはむやいまのよは末法万年のはじめなり、 一念弥陀を念ぜむに、 なむぞ往生をとげざらむや。 たとひわれら、 そのうつわものにあらずといふとも、 末法のすゑの衆生には、 さらににるべから施。

法滅已後の衆生なほ往生すへし、いはむや近来おや。


是れ即ち、とおきを挙げてちかきを摂するなり。しかれば法滅の後、なおもってしかなり。いかにいわんや末法をや。


かの三宝滅尽の時の念仏者、当時のわ御坊たちとくらふれは、わ御房たちは仏のことし。


以上、元祖 法然上人の、文字列としては、法滅より後、とおっしゃっておられますが、論理としては、世界が終わったあと、時間が終わったあと、世界の外部、人類史が終わった後、なので、具体的に誰かを排除することで成り立つわたしたち、ではないわけです。

これは、

悪人でないものがない、

を、ひっくりかえした言い方。

この法然上人のみ教えは大事で、わたしたちは、常識的な論理で、排中律で考えてしまうので、

悪人でないものがない

を、間違って、

すべてのものが悪人だ

と、まったく違う意味に理解してしまいがち。

まったく違うわけで、

悪人でないものがない、例外がない、誰も排除されない、という、開放集合は、すべてではないということを意味しているわけですね。

あれやこれやの具体的なひとを排除しない。誰かを排除することで成り立つわたしたちという閉鎖集合ではないわけです。

あいつら非国民、そのてん、わたしたちは…で、はじめて成り立つ、愛国者という閉鎖集合ではない。

悪人でないものがない、例外がない

は、実は、ひとりひとりが、かけがえがない、と、言っているので、なんの否定かというと、実は、《すべて》の否定。否定は《すべて》にかかっている。non-allの論理。

すべての日本人は安保法制に賛成です、というような、全称命題が成り立たない、と、言っている。(同様に、すべての日本人は反原発です、も、成り立たない)。

《すべて》が否定されている。

例外がない開放集合、無辺、外枠がない、ということは、《すべて》ではない、ということである。なぜなら、含み入れられないものがないところの含み入れが続くとき、《すべて》は成立しないから。

《すべて》を、くくる外枠がないから。《すべて》を、手のひらの上において、一望俯瞰的に光のもとで知り尽くす、全体知の視点がないから。外部がないから。

お経、比較もありますね。

五逆十悪のおもきつみつくりたる悪人、なを十声一声の念仏によりて、往生をし候はむに、ましてつみつくらせおはします御事は、なにごとにかは候べき。たとひ候べきにても、いくほどのことかは候べき。この経にとかれて候罪人には、いひくらぶべくやは候、

これも、具体的な誰かを例外に排除して成り立つ、われら、では、ない。

なので

三宝滅尽の時なりといゑとも、一念すれはなほ往生す、五逆深重の人なりといゑとも、十念すれは往生す。いかにいはむや、三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。

☆HikkenDokugoさんへ
こんばんは いつもありがとうございます
噛めば噛むほど味が出るコメントありがとうございます。味わっております。

「悪人でないものがない
を、間違って、
すべてのものが悪人だ
と、まったく違う意味に理解してしまいがち。」

ちょうど今考えていることに楔を打ち込まれたので、びっくりしています。
感謝!!

こんにちは。

世界を認識する枠組みには、理論的には3種類あります。まなこ、は、理論的には、三種類あります。


( 1) 排中律

すべて=A+非A の分割。あいつら非国民と誰かを排除することによってはじめて成り立つ、わたしたち。わたしたちの認識というのはこれ以外はないですね。考えるというのは、排中律でないものがない。外部がない。例外がない。

なんですが理論値、別のまなこは、不可能ではない。えと( 1)がすべてではない、ため。


( 2) 遮情門 9字名号 南無不可思議光如来 

すべての外部に一個だけ、南無不可思議光如來を、一般的排除する。これをuniversal exceptionと言いますね。普遍の例外。普遍は例外によって成立する。すべてのものは悪人だ、というのは、南無不可思議光如来は悪人ではないわけで、南無不可思議光如来が、解脱実存する。すべての外部に。イエスさまは真の人間ですと、信仰告白するならば、すべての人間は真の人間ではないことを意味する。無限小の欠如あり。ま、この欠如ですね、ないもの比較なので、えと、人間の理解も共感も絶対に及ばないもの比較なので、何が欠如してんだ、という、正解はありませんよね。ただ問いだけがある。正解がない問いだけがある。ま、解が無数にある。ひとそれぞれにユニークに、悪人。えと、実定的な情報ではない、物差しではない、そゆもので、すべて、と、言われているので、( 1) とは異なり、なんせ、絶対にわからんもの基準なんですから、実は、ひとそれぞれ、に、なるので、数値化して、並べて、ガウス曲線で、平均が正常で、はずれていたら異常とか、そういうことではない。なんせ、物差しがないので、わからないので、ならべようがない。9字名号の絶対的超越性。ま、浄土真宗で、なにか一個だけに絞れ、御法義なんですかと、どうしても絞らなければならないとしたら、仮にですけども、どうしてもこれだけはに絞れなら、浄土真宗を遮情の極と考えれば、9字名号の絶対的超越性。たぶん、おそらく、真宗十派で、絞っているのは、浄土真宗本願寺派だけですけどね。

すべてのひとは、ザ・善人、絶対的善人ではない。(ひとりひとり、かけがえのない、ユニークな悪人である)。

且つ

その、すべてのひと、を、くくる、究極的に、閉鎖集合として考えることを可能にしており、かつ、限界になっているのは、9字名号である。

(別の空間、極楽浄土が、あって、そこに、南無不可思議光如来という方がおわします、わけでは、実は、ない。そうではなくて、究極、規定していて、且つ、限界であるもの。この論理は、他の誰でもないこのわたし、を、究極的に規定し、かつ、その限界であるものが、わたしの、一人称の死である、と、いう、場合に、論理、形式は、同じ。形式は汎用的なので、他の単語をいれても、形式、論理は、成り立つ。実は意味は大事じゃなくて、形式が大事。意味ってのは、ひとりひとり、いちにん、に、決まっているが、論理、形式は、法、だから。法ってのは、意味じゃない。法は、純粋に形式だから。)


補足

( 2)は、このわたしを、えとですね、この世にひとつだけの存在であるこのわたし、いっこしかないもの、を、なんと、衆生の中の1として、数えいれることができる、という、論理的ウルトラCです。

一個しかないものってのは、言語的な思考は、( 1) でないものがないのだから、ありえないはずなんですね。不可能なはず。えと、比較、比べる、昼でないものが夜、夜でないものが昼、という、ことでないものがないはずですから。

補足2

あ、ですから、あれですね、えと、一人称の死、このわたしの死、を、理解したり、共感したり、ま、経験したり、することができないもの、っていう、すべて、は、理解も共感も超絶した、このわたしの死、えと、ひとりひとりが自分の死を死ぬしかないんですけども、その自分の死は、自分が経験できないという事実から、きてるわけですな。すんげーいっこいっこ、徹頭徹尾の不平等、共通の度量衡がない、ってのが、ま、ゆーたらば、己の知と情の限界が、同時に、このわたしを規定しているという。

(まあ、死後の世界で、振り返らない限り、自分の人生を一望俯瞰的に手の平の上にのせて、すべてを、全体知を知る、善悪ってのは、ない。つまり、生きているあいだ、実は、人間がなすすべてのことは、なんと驚愕の事実として、それ自体としては、善でも悪でもない。スーパー非常識なまなこ。)

いっこいっこなのに、共通の度量衡がないのに、いっこの物差しではかって、あんたは、80点とか言えないのに、平均が正常ではずれたら異常もないのに、にもかかわらず、自分を衆生、有情、異生の、われら、の、1、として、数えいれることができてしまうという、論理的ウルトラC。
 

悪人ではないもの、という、不可能(悪人でないものがないため)を、すべてではないもの、として、一般的排除する。

( 3) 表徳門 10字名号 歸命盡十方無礙光如來

悪人でないものがない。例外がない。開放集合。外枠がない。無辺。

悪人でないものがない、とは、すべてのものが悪人だ、という、ことでは、まったく、ない。完全に違う。なぜならば、含み入れられないものがないところの、そうした、含み入れが続く時間にあっては、《すべて》が成立しないから。

いっこいっこいっこいっこ、なにひとつ、共通の度量衡がない、いっこいっこユニークなものが、含み入れられ続ける時間。

外部がない。例外がない。

《すべて》が否定される。non-all。

内在ですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 意味があるのだろうか? と思っていたけれど、今だから分かった 意味があったのだ | トップページ | 前に生まれた者は後を導き、後に生まれた者は前を訪え »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ