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2016年5月

2016年5月29日 (日)

かなしさ

「歴史は繰り返す」というけれど、
詳しくは
「人間は過ちを繰り返す」ということだと想う

2016年5月16日 (月)

前に生まれた者は後を導き、後に生まれた者は前を訪え

5月15日 あるお寺さまの永代経法要に出講

14日の東京新聞「今週のことば」に、道綽禅師の「前に生まれた者は後を導き、後に生まれた者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す」が、中村薫先生(同朋大学特任教授)の文章で紹介されていました。
その文章を、法話中に紹介させていただきました。

最前列で頷かれているおばあちゃん。
何度も出講しているお寺さんなので、ご聴聞されているほとんどの方と顔見知り。なので、予定していた法話を止めて、おばあちゃんに話しかけてみました(対話形式のご法話を試みました)。

「おばあちゃん、いくつになりました?」

「102歳になりました。もう、耳も聞こえなくて、匂いも分からないの」と仰います。

「お話の場に来てくれてありがとうございます 聞こえなくても、毛穴から教えは染みこんでくるって、聞いたことがあります。だから、この場にいてくれるだけで、ありがとうございます」

「ここに書かれていること、ほんとその通りだと思います。ここまで生きてきて思うこと、人間、1に感謝、2に努力、3に我慢だと思います」とお話してくださいました。
本堂内の皆さんも、先輩の話に耳を澄ましてくださっています。
まさに、前に生まれた方のお話を、後に生まれた者が訪ねさせていただきました。

昨年の報恩講にも出講させていただいたのですが、その折りに寺報を配らせていただきました。
そのとき寺報で紹介していたことばは
できることは減りました ありがとうが増えました」。

そのおばあちゃんは、「前にいただいた ことば が大好きなの。家に貼ってあって、いつでも見られるようにしてるのよ」と話してくださいました。
教え(ことば)は、人を通して、人へと伝わっていくんだなぁと、あらためて感じました。

お話をしに言って、大切なお話をいっぱい聞かせていただきました。
ありがとうございます。南無阿弥陀仏

法話の後は、永代経のご法要
お寺の若さん(11歳でしたっけ?)が出仕されました。40分近い法要を終え、しびれた足で立ち上がり、フラフラと退堂される姿に、かつての自分を見るようでした。キチンと歩けて偉い偉い。私は、1度思い切りすっころんだことがありましたから(自坊永代経法要にて 10歳だったかな?)

お寺から失礼する際、彼がお見送りをしてくれたので、軽く抱きしめて「しびれてるときは、無理して立たなくて大丈夫だからね。しびれがとれてから下がっていいんだからね」と言って別れました。
後を歩むいのちを感じ、頼もしく思いました。

爽やかな気候と相まって、嬉しくなる永代経法要のご縁をいただきました。

2016年5月11日 (水)

世間の法は人を罰す 仏の法は人を誕生させる

世間法は法の名において、法のために「人」を罰します。

仏の法は懺悔をもって「人」を誕生させるものです。

つまり、法において「人」が誕生するところに仏の法の意義があり、

世間の法は、「人間であるならば当然守らなければならない」という前提のもとで成立するものです。

『鬼神からの解放(下)-教行信証・化身土巻-』 平野修 (難波別院発行)

今日響いたことば

   

悪いことをして罰せられる、咎められるのは当然のこと・・・と思い込んでいるけれど、

「人間であるならば当然守らなければならない」こととは、あるグループ・組織・国などの約束事にすぎない

だから、ある国では合法で、ある国では違法なんてこともざらにある。

そんな根っこのない約束事に、それに反したとき、第3者は執拗にバッシングを浴びせる。

まるで「私はそんなことしない」とでも思っているかのように。

法やルールを破っても良い、守るに値しないなんて言っているのではありません。

でも、世間の法(「人間であるならば当然守らなければならない」約束事・事柄・ルール)を破った者に対する非難が、人を人として見ていないかのようだ。

縁によっては、ほんと人間は何をしでかすか分からない。

そんな「わたし」は、罰を背負って生きているようなもの。

その気付きが、親鸞聖人をして「愚禿(ぐとく)」と名告らしめた。

懺悔 愚禿の名告り において、人が誕生した!!

先に生きる人の懺悔のおかげで、わたしは仏の法(おしえ)に出遇うことができました。

懺悔するご縁もいただきました。 南無阿弥陀仏

2016年5月10日 (火)

意味があるのだろうか? と思っていたけれど、今だから分かった 意味があったのだ

このことに意味はあったのだろうか?

意味がなくなってしまった・・・

意味を見失ってしまった事柄の、

意味を再発見させてくれるのが、

真宗の教え

(今日 響いたことば)

2016年5月 2日 (月)

2016年5月のことば

5月になりました。暖かくなったり、さむい日があったり、気候が安定しませんね。
被災された皆様 ボランティアされている皆様 体調崩されませんように。

   

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我以上に 我を愛するものを 阿弥陀という
                       武田定光

武田先生のご法話より
4月29日 西蓮寺永代経法要をお勤めしました。
ご法話は武田定光先生(江東区 因速寺住職)。
先生のお話を書かせていただきます。

娑婆世界を生きるわたしたちは、「快か不快か」「善か悪か」「損か得か」の三原則で生きています。
しかし、仏教は、「自分がこの世に生まれてきたことの意味」「自分は何のために生まれてきたか」という問いを与えてくださっています。
「いのち」とは、生まれて生きている間のだけのことではありません。「死」も含めて「いのち」です。それなのに、「死」は見たくないこと、避けたいことと、「死」を見えなくしてしまったのが現代文明です。しかし、「死」が見えないと、 〈ほんとう〉が見えません。
「死」を見ない生活・・・生きていることがあたりまえ、ご飯が食べられてあたりまえ、電車が時刻表通りに来てあたりまえ・・・あたりまえに慣れてしまうと、無気力・無感動・無関心になってしまい、何もありがたくなくなってしまいます。「ありがとう」がなくなります。そんなわたしたちの文明が築いてきた「あたりまえ」を壊してくれるのが阿弥陀さまです。人間の三原則を壊してくれる、わたしの想いをひっくり返してくれるのが阿弥陀さまです。
亡き人のことを思ってご法事を勤めますが、亡き人を救いたいという想いは、亡き人が救われていないということが前提になってしまいます。亡き人は浄土にいて、既に人間の苦しみから解放されています。救われるべきは、我々なんです。亡くなった人も、わたしも、往く所は同じ阿弥陀さまの浄土です。そこに頷けないと救われません。仏法と縁を結ぶことは難中の難、難しいことです。でも、仏法に触れる縁をいただいたのです。
仏さまのほんとうの願いは、「この世に苦しむ人がいる限り、わたしは仏とはならない」というところにあります。苦しんでいる人と身ひとつとなり、苦しみを共にするのが仏さまであり、救いです。
お釈迦さま以来、2500年仏教は続いてきました。「気は長く、心は丸く、腹立てず、口を慎めば、命長かれ」といいますが、そうすることが仏教だと思われてきました。2500年続いてきた仏教の中味はこれです。誤解された仏教です。「そんなことできますか?」と教えてくださったのが親鸞聖人です。仏教は、もう完成されたものと思われ続けて来たけど、実はまだ始まってもいなかったのです。
(以上、「副住職ノート」より 文責は副住職にあります)

我以上に 我を愛するものを 阿弥陀という
我以上に 我を愛するものを 阿弥陀という
武田先生が、著書に揮毫くださったことばです。わたしのことを愛してくださっている阿弥陀。阿弥陀の愛に包まれ、私は生きています。
心清い人間となって、救いを得ようとする。そのために仏を信じる・・・それが、いわば誤解された仏教でしょう。そこには、損得勘定で信仰を考える(「信じようか信じまいか」を選ぶ)人間がいて、信じた者にだけご利益を与える神仏を生み出してしまいます。しかし、阿弥陀(真実)は、自分のことを信じようが信じまいが、他の宗教を信じる者も、すべての生きとし生けるものを愛しています。
阿弥陀の愛は、悩み苦しみを打ち消してくださるものではありません。悩んでいるときも苦しいときも、もちろん嬉しいときや楽しいときも、常に寄り添っているのが阿弥陀の愛です。だから、私は生きていけます。

武田先生は著書で教えてくださっています。

私たちが「信」や「信心」という言葉を使う場面を考えてみると、「ひとを信じる」とか「ご利益が与えられると信じる」と用います。辞書にも「信じる」の意味として、「思い込むこと。固く信じて疑わないこと。是非そうしようと固く決心する」などの意味が出ています。しかし『歎異抄』の語る「信心」は、そういう意味とはまったく違います。一般的な意味の「信心」とは、「自分が信じる信心」です。『歎異抄』のいう「信心」は、「自分が信じられていると受け取ること」です。ですから「信じる」の主語が違います。「自分が何かを信じる」のではなく、阿弥陀如来に自分がまるごと信じられていると受け取ることです。私は主語ではなく、むしろ客体です。
(『なぜ? からはじまる歎異抄』武田定光著 東本願寺出版発行より)

阿弥陀とは、信じる(信じない)対象ではありません。既にしてわたしは阿弥陀から信じられています(愛されています)。だから、手が合わさる。「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことができる。
「ことば」に感動すること、励まされるということがあります。それは、「ことば」や「ことば」を発する人が温かいからという理由だけではありません。わたしの中に、仏となる種(仏性)があるからです。仏性があるからこそ、外なることばと内なる仏性が共鳴して、感動が起こります。
仏法に触れてない人は、人間の三原則の中で疲労困憊して人生を過ごしています。でも、人生に阿弥陀さまを介在して生きていく生き方があります。わたしは、自分の想いに振り回されながら生きています。そんなわたしを、まるごと受け入れてくださっているのが阿弥陀。仏法に触れる、阿弥陀の愛に気付くとは、まるごとの自分に出遇うということ。

   

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