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2016年5月 2日 (月)

2016年5月のことば

5月になりました。暖かくなったり、さむい日があったり、気候が安定しませんね。
被災された皆様 ボランティアされている皆様 体調崩されませんように。

   

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我以上に 我を愛するものを 阿弥陀という
                       武田定光

武田先生のご法話より
4月29日 西蓮寺永代経法要をお勤めしました。
ご法話は武田定光先生(江東区 因速寺住職)。
先生のお話を書かせていただきます。

娑婆世界を生きるわたしたちは、「快か不快か」「善か悪か」「損か得か」の三原則で生きています。
しかし、仏教は、「自分がこの世に生まれてきたことの意味」「自分は何のために生まれてきたか」という問いを与えてくださっています。
「いのち」とは、生まれて生きている間のだけのことではありません。「死」も含めて「いのち」です。それなのに、「死」は見たくないこと、避けたいことと、「死」を見えなくしてしまったのが現代文明です。しかし、「死」が見えないと、 〈ほんとう〉が見えません。
「死」を見ない生活・・・生きていることがあたりまえ、ご飯が食べられてあたりまえ、電車が時刻表通りに来てあたりまえ・・・あたりまえに慣れてしまうと、無気力・無感動・無関心になってしまい、何もありがたくなくなってしまいます。「ありがとう」がなくなります。そんなわたしたちの文明が築いてきた「あたりまえ」を壊してくれるのが阿弥陀さまです。人間の三原則を壊してくれる、わたしの想いをひっくり返してくれるのが阿弥陀さまです。
亡き人のことを思ってご法事を勤めますが、亡き人を救いたいという想いは、亡き人が救われていないということが前提になってしまいます。亡き人は浄土にいて、既に人間の苦しみから解放されています。救われるべきは、我々なんです。亡くなった人も、わたしも、往く所は同じ阿弥陀さまの浄土です。そこに頷けないと救われません。仏法と縁を結ぶことは難中の難、難しいことです。でも、仏法に触れる縁をいただいたのです。
仏さまのほんとうの願いは、「この世に苦しむ人がいる限り、わたしは仏とはならない」というところにあります。苦しんでいる人と身ひとつとなり、苦しみを共にするのが仏さまであり、救いです。
お釈迦さま以来、2500年仏教は続いてきました。「気は長く、心は丸く、腹立てず、口を慎めば、命長かれ」といいますが、そうすることが仏教だと思われてきました。2500年続いてきた仏教の中味はこれです。誤解された仏教です。「そんなことできますか?」と教えてくださったのが親鸞聖人です。仏教は、もう完成されたものと思われ続けて来たけど、実はまだ始まってもいなかったのです。
(以上、「副住職ノート」より 文責は副住職にあります)

我以上に 我を愛するものを 阿弥陀という
我以上に 我を愛するものを 阿弥陀という
武田先生が、著書に揮毫くださったことばです。わたしのことを愛してくださっている阿弥陀。阿弥陀の愛に包まれ、私は生きています。
心清い人間となって、救いを得ようとする。そのために仏を信じる・・・それが、いわば誤解された仏教でしょう。そこには、損得勘定で信仰を考える(「信じようか信じまいか」を選ぶ)人間がいて、信じた者にだけご利益を与える神仏を生み出してしまいます。しかし、阿弥陀(真実)は、自分のことを信じようが信じまいが、他の宗教を信じる者も、すべての生きとし生けるものを愛しています。
阿弥陀の愛は、悩み苦しみを打ち消してくださるものではありません。悩んでいるときも苦しいときも、もちろん嬉しいときや楽しいときも、常に寄り添っているのが阿弥陀の愛です。だから、私は生きていけます。

武田先生は著書で教えてくださっています。

私たちが「信」や「信心」という言葉を使う場面を考えてみると、「ひとを信じる」とか「ご利益が与えられると信じる」と用います。辞書にも「信じる」の意味として、「思い込むこと。固く信じて疑わないこと。是非そうしようと固く決心する」などの意味が出ています。しかし『歎異抄』の語る「信心」は、そういう意味とはまったく違います。一般的な意味の「信心」とは、「自分が信じる信心」です。『歎異抄』のいう「信心」は、「自分が信じられていると受け取ること」です。ですから「信じる」の主語が違います。「自分が何かを信じる」のではなく、阿弥陀如来に自分がまるごと信じられていると受け取ることです。私は主語ではなく、むしろ客体です。
(『なぜ? からはじまる歎異抄』武田定光著 東本願寺出版発行より)

阿弥陀とは、信じる(信じない)対象ではありません。既にしてわたしは阿弥陀から信じられています(愛されています)。だから、手が合わさる。「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことができる。
「ことば」に感動すること、励まされるということがあります。それは、「ことば」や「ことば」を発する人が温かいからという理由だけではありません。わたしの中に、仏となる種(仏性)があるからです。仏性があるからこそ、外なることばと内なる仏性が共鳴して、感動が起こります。
仏法に触れてない人は、人間の三原則の中で疲労困憊して人生を過ごしています。でも、人生に阿弥陀さまを介在して生きていく生き方があります。わたしは、自分の想いに振り回されながら生きています。そんなわたしを、まるごと受け入れてくださっているのが阿弥陀。仏法に触れる、阿弥陀の愛に気付くとは、まるごとの自分に出遇うということ。

   

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