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2016年4月

2016年4月25日 (月)

 

熊本・大分をはじめ、九州での揺れが納らず、不安な日々をお過ごしのことと思います。
日本の情報が大きく扱われることは当然のことですが、南米エクアドルでも大きな地震が起き、被害が拡大しています。
同じ大地(地球)に立ついのち 地域の差 被害の差に関係なく、想いを巡らせたいです。

 

長いこといじってなかったブログの壁紙。
今年に入っていろいろ変えていますが、どうも落ち着きません。
また変えてみました。シンプルだけど、読みやすい方がいいかなぁと・・・

 

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境内の牡丹が咲きました。
大きくて、(あまり見かけない)黄色で、とても綺麗に咲きました。
4月22日に行った「おみがきの会」に来てくださった皆様にご覧いただけてよかったです。
4月29日の「永代経法要」までには散ってしまうかなぁ。それもまた牡丹ですね。
「永代経法要」のご法話は、因速寺住職 武田定光先生です。

2016年4月18日 (月)

「平成28(2016)年 熊本地震」により被災されました皆様 お身内の方に お見舞い申し上げます

「平成28(2016)年 熊本地震」により被災されました皆様 お身内の方に お見舞い申し上げます。

2016年4月14日(木)午後9時26分頃 熊本県にて震度7の地震が発生
子どもと共に寝ていた私に、妻から「熊本で震度7だって!」の声。
寝ぼけた頭の中で「震度7?」と考え、「震度7って、阪神淡路大震災じゃん?」と、京都にて経験した揺れを思い出しつつ「震度7!!」と驚きに変わり、飛び起きました。
テレビは熊本の震災を伝え、スマホからは警報音が鳴り響いていました。

落ち着いてテレビを見つつ、「こんどは九州か!!」と思いました。
関西 新潟 東日本 九州
近いうちに大きな地震が起きるだろうと言われ続けている東海や関東を避けるかのように、大震災が起こります。しかし、震災は点で起きているのではなく、日本という面で起きている事象です。同じ日本で起きている現実です。

善か悪か、白か黒か、敵か味方か、右か左か、するかしないか・・・あらゆる事柄・思想・決断等々を、二項対立で考える癖がついてしまっている現代日本人。
「被災された方々と被災していない人々」、つまり、「支援される人と支援する人」で物事を見てしまう。
でも、熊本とか九州という、地点で起こっている出来事ではなく、この日本で起きていること。「支援される者とする者の関係」ではなく、「誰もが震災(に限りませんが)被害を受ける所に立っている者」なのだということを忘れてはいけないと思います。

被災していない方々は、つまり、支援する側です。「支援しなければ!!」とはやる気持ちは分かりますが、日本に住んでいることを考えれば、自分もまた支援を受ける側に立つかもしれない身です。支援する側でもあるし、支援される側でもあること。二項対立で考えきれない現実があります。いえ、二項対立で考えられないのが現実です。想像(イメージ)するということ。今、どのような気持ちか。今、何を必要としているか。今、誰にそばにいてほしいか。被災していても、していなくても、イメージをすることは、誰もが出来ることです。

大きな地震が続き、被災された方々は、避難所に集まっています。
その姿を見て、「?」と思った方もいると思います。屋外に避難されている姿です。
「屋内に避難しないで、どうして屋外に避難しているのだろう?」と思いませんでしたか?
あれだけ大きな揺れが続くと、屋内・建物の中にいるのは恐いのです。いつ崩れるか、生き埋め・下敷きになるだろうという恐怖心が身心を支配します。だから、夜まだ肌寒い季節でも、屋外避難、あるいは車中避難をされているのです。
被災していない者目線で見ると、「どうして屋内に避難しないの?」と感じてしまいますが、恐いんです。避難所で、屋内に避難されている方々も、出入口に近いところから人が埋まると聞きました。すぐに逃げ出せるよう、少しでも出入口に近いところに身を寄せたいんですよね。
そういうことが想像できないから、「青空避難を解消するように」と、言ってしまうんです。「避難しているのに、どうして屋外にいるんだ! 屋内に避難しろ(させろ)!」ではなくて、「どうしてみんな屋外にいるんだ? どうしてだろう?」と考えなくては、自分の正義を押し付ける支援になってしまいます。そんな支援、したくないですよね。

自分の正義を押し付ける支援・・・
現場の交通がままならないことも忘れて(テレビで見ているのに)、支援物資を送ろうとし、配送業者が受付を停止している理由を話して断ると、「困っている人間がいるのに、支援物資を受け付けないとは何事だ!!」と苦情を言う人がいるとか(東日本大震災のときにも、同じような人がいて、文章を投稿したことがありました)。
支援の手をさしのべたい、被災地・被災者のために何かしたい気持ちは誰もが同じ。しかし、今は情報を待つときでもあります。人員が足りない中、支援物資だけが集まり、必要である人たちに届かなかったこと。洗濯もしてない古着を送りつける人がいること。いつもいつも課題として挙がることが、今回も起きつつあります。
支援は、しないよりかする方が良いに決まっています。遅いよりは早いほうが良いに決まっています。でも、今なのか? 何が必要なのか? 地震は落ち着いたのか? 被災地から離れた所にいる人間が、冷静に見なければ、人為的な二次被害を引き起こしてしまいかねません。 
ネットの普及で、情報がより早く、より深く知られるようになっても、現場の混乱を招くような支援をしては意味がない。あぁ、ここまで書いて分かりました。情報がより早く、より深く知られるようになったからこそ、早急に動きたくなるのかもしれませんね。
落ち着いて情報を収集していれば、
何が足りないのか、
何を必要とされているのか、
どんな団体が、何を目的として動こうとされているのか、
見えてきます。

すぐに動くことを非難しているのではありません。
すぐに動くことが出来る組織が、まずは動いてくださっています。
ボランティアは、まだ組織出来る段階ではありません。そのノウハウは、阪神淡路・中越・東日本大震災を経て培ってきました。必要とされるときがくるまで待たなくては、現地で本当に食料や生活用品が必要な方々の分を、ボランティアの人まで必要としてしまうということが、かつてありました。それでは本末転倒です。
必要とされたときにうぐに動けるように、スタンバイするべきだと思います。

被害が、少しでも少なく済みますように
人と人とが傷つけ合いませんように
日本の現実を、誰もが忘れませんように

2016年4月11日 (月)

叩けばホコリの出る身

バドミントンのトッププレーヤーが、違法カジノ店で賭博行為をしていたため処分を受けました。
「バカなことをしたものだ・・・」と思われる方も多いと思います。
違法カジノ店での賭博行為を擁護するつもりはありませんが、「なんかおかしくない?」という想いも強く持っています。

なんかおかしくない? その1
世界レベルで戦っているトッププレーヤーです。世界各地での試合に臨まれていることでしょう。世界には、「違法」ではなく「合法」カジノ店も多くあります。世界各地での試合に臨み、激しい戦いを終えた後、その国においては「合法」の店で賭博行為をすることがリフレッシュになっていたら、日本でもその感覚でお店に行っても不思議はありません。世界で戦うがゆえの、感覚的落とし穴があったのではないか?と想います。

なんかおかしくない? その2
「違法」とか「合法」とか書いているけど、その線引きはなんなんだろう?
競馬・競輪・パチンコはよくて、カジノはダメな理由は?(法律で認められているから、認められていないから、という話ではなくて)。
それに、違法カジノ店で賭博行為をしていた若者を、これだけメディアも、バドミントン協会も、民衆も叩くのに、「日本にもカジノを」という動きに鈍感なのはなぜだろう?
日本にも「合法」のカジノができたなら、そこでの賭博はいいのだろうか? 「彼らも、合法カジノで賭博行為をすれば良かったのにね」というセリフで済ますのだろうか? いや、そういう話ではないと思うのだけど。

なんかおかしくない その3
「違法」でなければ良いの?
話題が変わるけれど、今世界的に騒がれている「パナマ文書」。
租税回避のために、自分の資産を、税金のない国・税率の低い国(タックスヘイブン)に預けたり、資産運用をする人や企業があります。タックスヘイブンを利用している(していた)人々・企業・国の要人の情報が、パナマ文書には書かれていて、その情報が外部に流出したとのこと。
国の要職に就くような方々が、タックスヘイブンを利用しているとのこと。自国に率先して納税するべき方々が、税金逃れのために、税率の低い国で資産を預けたり運用しているわけです。
その行為自体は「違法」ではないそうです。
賭博行為とタックスヘイブン、同列に語る内容ではないのかもしれないけれど、「違法」じゃなければ、やってもOKなのでしょうか?という疑問が生じました。

なんかおかしくない? その4(とりあえず ここまで)
誰もが、叩けば多少なりともホコリが出る身ではないですか?
受けるべき処分・処罰はありますが、それは司法や協会が下すべきこと。
どうしてこうも、大多数の第3者が、特定の個人(少数)を叩くのでしょう。
この一件に限らず、多数が少数を叩きのめす行為が目に余る気がします。
ネット上で叩いている(文句言っている)限りは「違法」ではないですね。じゃぁ、「違法」ではないからやってもいいのか? 
気にくわないこと、腹が立つことをなくすために、他者を叩き続けていると、叩いている者自身も、とても住みにくい世の中に変質していくと想うのですが。

2016年4月 4日 (月)

烏山仏教会 花まつり2016

烏山仏教会 花まつり2016
2016年4月2日開催
 稚児行列 常栄寺→西蓮寺
 花まつり会場 西蓮寺(蓮心会館が完成した年に会場になって以来、20年ぶりの会場でした)

常栄寺さまにて
お稚児さん集合・お化粧・出発!!
白い象さんの前で記念撮影
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出発直前に子どもたちと
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行列の途中、しだれ桜がきれいな玄照寺さまに寄り道
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西蓮寺到着 本堂前で記念撮影
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本堂にて花まつり法要
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法要の後は、芸人さん達によるパフォーマンス
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着ぐるみさんたちも花まつりを盛り上げてくれます
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ちょっと談笑
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45度!!!!
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設営・準備・片付け等々、会場になるということは大変なこともいっぱいですが、たくさんのお稚児さん(38名)や遊びに来た子どもたち、見学に来た皆さん、大勢の人で賑わう境内にワクワクしました 楽しい時間を過ごさせていただきました。私の降誕を祝っていただき感謝です

2016年4月 1日 (金)

2016年4月のことば

4月 新入学 新社会人 多くの方が新しい一歩を踏み出されたことと想います
人との出会いが、わたしを生かしています。
いろいろな出会いがあることでしょう。
素敵な出会いもあれば、嫌な出会い、悲しい出会いもあります。
その ひとつ ひとつの出会いが重なって、わたしの人生は築かていきます。
あぁ ひとつ ひとつの出来事に意味があったんだなぁ、無駄なことなんてなかったなぁ・・・なんて思い返せるのは、もっと年を重ねてから。今は、嬉しい思いもつらい思いも重ねて、毎日を大切に歩んでみましょう。
すぐに解決できないことがあっても、5年後 10年後には変わるから。わたしが変わるから。
何ひとつ欠けても、今の私はいないんだなぁと思いつつ。出遇いに感謝です。南無阿弥陀仏

   

2016年4月のことば

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前(さき)に生まれん者(もの)は後を導き、
後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え。
  道綽(どうしゃく)大師 『安楽集(あんらくしゅう)』

先に生まれた者は、
「前に生まれた者は、後に生きる人を導き、
  後に生きる人は、先人の生きた道をたずねなさい」
親鸞聖人が敬われた方の一人、道綽大師のことばです。

前を訪ねて

【平野 修先生(1943~1995)】

仏法というのは、  伝えようとしなければ伝わらないのです。

平野修先生に直接お目にかかったことはないのですが、自分が出遇った世界を伝えたい、伝えなければ、という想いで語られている息吹を、著作を読んでいて感じます。「伝えたい、伝えなければ」という想いは、その根底に、阿弥陀如来に出遇えた喜びがあるから湧いてくるものです。平野先生の本を読んでいて、次のことばに出遇いました。

如来の本願は、 風のように身に添い、地下水の如くに流れ続ける
 

風は、人を選り好みしない。地下水は、誰の足下にも流れている。阿弥陀の慈悲は、まるで風や地下水の如く、生きとし生けるものすべての身に寄り添っている。先生のことばのおかげで、時折、頬を撫でる風を感じます(気がします)。

【広瀬 杲(ひろせ たかし)先生(1924~2011)】
大多数が「これでよし」なんて方向に流れていきそうなときに、「果たしてそうでしょうか?」と、自らを省みる眼をいただきました。
先生ご自身が体調を崩され、お話に出られる機会を減らされた頃、同年代の先生方も調子を崩されたり、亡くなられたりということが続きました。そのときに、「ここで立ち上がらねば」と、無理を押して親鸞聖人の教えをお伝えくださいました。そんな先生の晩年の法話で、ニコッと笑ってお話くださった姿が目に焼き付いています。

人間っていうのはね、絶望できない生き物なんですよ。 人間ね、絶望できれば楽なんです。でも、絶望なんか出来ないんですよ。私達は、絶望したと思っている中にも希望を見い出して生きているんです。

「絶望の気持ちが癒えた後に希望を見い出す」のではなくて、「絶望の中にこそ希望を見い出して生きている」ことを教えていただきました。そのように言い切れるのは、如来の本願に出遇われたから。

【二階堂 行邦(ゆきくに)先生(1930~2013)】

真宗聖典を毎日3ページずつ、 お内仏の前で声に出して読んでいたときがあるんだ。 声に出して読んでいると、 意味は分からなくても、こころに響いたもんだ。

声に出して聖教(しょうぎょう)を読む。先生もそういうことをされていたんだ!と思って、私もマネをしました。始めはただ読んでいるだけでした。しばらくして、私は肝臓を患い、伏せてしまいました。それでも、体が動くときは、お内仏の 前で『真宗聖典』を読んでみました。読みながら、自然と涙がこぼれてきます。「教行信証」…親鸞聖人は、なんてすごいものを書かれたんだ!と思いました。意味は分からなくてもかまわない。声に出して、教えのことばを読んでみてください!

【園田補進おじさん(坊守の伯父)】

かっちゃん、元気なお坊さんになってね

大好きなおじさんに、最後に会ったときに言われたことば。元気なさそうに見える私を心配してくださったのですね。元気なさそうな私が、いくら仏法を伝えようとしても、周りの人に聞いてもらえるわけがありません。園田のおじさん、ありがとうございます。

悠久のときの中に 
思いつくままに「前に生まれん者」を訪ねました。誰ひとり欠けても、今の私はいません。
しかし、「前を訪え」とは、特定の誰かを敬うことではありません。思い出に留まるのではなくて、前の人を訪ねることを通して、阿弥陀を感じるということが起こり得る。阿弥陀は、遠いどこかにいるのではないし、信じた者の眼前にだけ現われるのではないのだから。すべてのいのちに、阿弥陀は添い続けている。
前の人を訪ねることによって、阿弥陀に出遇う。それが、前を訪ねる意味であり、そのとき、前の人は、後を導く者となる。前行く人と、後を歩む人が、一本の糸でつながる。固体としてのわたしは、命終えたときに身体も滅す。しかし、悠久のときの流れの中にいる前人とわたしは、永遠のいのちを生きている。「前を訪え」が、「阿弥陀に包まれたわたしを感じて生きなさい」と聞こえてきます。

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」3月25日の放送で、主人公“あさ”に女子大学校設立の影響を与えた成澤泉が語っていた死生観が、今月のことばと重なって聞こえました。

私にとって、生と死というものは、あまり違いはないのです。実はわたしも、女子大学校設立の運動中に、大事な人を亡くしました。しかし、生があるから死があり、死があるから生がある。このふたつは、常にひとつのリズムとして我々の日常を流れています。そして、この体は、ただの衣服であり、本当の体はもっと奥にある。そしてそれは、永久に滅びません。

   

掲示板の人形
桜をかたどった着物を着た人形です。
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お花見が楽しみです

明日4月2日は、地元 烏山仏教会 花まつりです。
午後1時30分、寺町通りの常栄寺さまから稚児行列が出発します。
松葉通りの当寺 西蓮寺まで行列し、2時より法要開始です。
本年は西蓮寺が花まつり会場です。
綿菓子・水風船ヨーヨーもあります。

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