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2016年4月 1日 (金)

2016年4月のことば

4月 新入学 新社会人 多くの方が新しい一歩を踏み出されたことと想います
人との出会いが、わたしを生かしています。
いろいろな出会いがあることでしょう。
素敵な出会いもあれば、嫌な出会い、悲しい出会いもあります。
その ひとつ ひとつの出会いが重なって、わたしの人生は築かていきます。
あぁ ひとつ ひとつの出来事に意味があったんだなぁ、無駄なことなんてなかったなぁ・・・なんて思い返せるのは、もっと年を重ねてから。今は、嬉しい思いもつらい思いも重ねて、毎日を大切に歩んでみましょう。
すぐに解決できないことがあっても、5年後 10年後には変わるから。わたしが変わるから。
何ひとつ欠けても、今の私はいないんだなぁと思いつつ。出遇いに感謝です。南無阿弥陀仏

   

2016年4月のことば

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前(さき)に生まれん者(もの)は後を導き、
後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え。
  道綽(どうしゃく)大師 『安楽集(あんらくしゅう)』

先に生まれた者は、
「前に生まれた者は、後に生きる人を導き、
  後に生きる人は、先人の生きた道をたずねなさい」
親鸞聖人が敬われた方の一人、道綽大師のことばです。

前を訪ねて

【平野 修先生(1943~1995)】

仏法というのは、  伝えようとしなければ伝わらないのです。

平野修先生に直接お目にかかったことはないのですが、自分が出遇った世界を伝えたい、伝えなければ、という想いで語られている息吹を、著作を読んでいて感じます。「伝えたい、伝えなければ」という想いは、その根底に、阿弥陀如来に出遇えた喜びがあるから湧いてくるものです。平野先生の本を読んでいて、次のことばに出遇いました。

如来の本願は、 風のように身に添い、地下水の如くに流れ続ける
 

風は、人を選り好みしない。地下水は、誰の足下にも流れている。阿弥陀の慈悲は、まるで風や地下水の如く、生きとし生けるものすべての身に寄り添っている。先生のことばのおかげで、時折、頬を撫でる風を感じます(気がします)。

【広瀬 杲(ひろせ たかし)先生(1924~2011)】
大多数が「これでよし」なんて方向に流れていきそうなときに、「果たしてそうでしょうか?」と、自らを省みる眼をいただきました。
先生ご自身が体調を崩され、お話に出られる機会を減らされた頃、同年代の先生方も調子を崩されたり、亡くなられたりということが続きました。そのときに、「ここで立ち上がらねば」と、無理を押して親鸞聖人の教えをお伝えくださいました。そんな先生の晩年の法話で、ニコッと笑ってお話くださった姿が目に焼き付いています。

人間っていうのはね、絶望できない生き物なんですよ。 人間ね、絶望できれば楽なんです。でも、絶望なんか出来ないんですよ。私達は、絶望したと思っている中にも希望を見い出して生きているんです。

「絶望の気持ちが癒えた後に希望を見い出す」のではなくて、「絶望の中にこそ希望を見い出して生きている」ことを教えていただきました。そのように言い切れるのは、如来の本願に出遇われたから。

【二階堂 行邦(ゆきくに)先生(1930~2013)】

真宗聖典を毎日3ページずつ、 お内仏の前で声に出して読んでいたときがあるんだ。 声に出して読んでいると、 意味は分からなくても、こころに響いたもんだ。

声に出して聖教(しょうぎょう)を読む。先生もそういうことをされていたんだ!と思って、私もマネをしました。始めはただ読んでいるだけでした。しばらくして、私は肝臓を患い、伏せてしまいました。それでも、体が動くときは、お内仏の 前で『真宗聖典』を読んでみました。読みながら、自然と涙がこぼれてきます。「教行信証」…親鸞聖人は、なんてすごいものを書かれたんだ!と思いました。意味は分からなくてもかまわない。声に出して、教えのことばを読んでみてください!

【園田補進おじさん(坊守の伯父)】

かっちゃん、元気なお坊さんになってね

大好きなおじさんに、最後に会ったときに言われたことば。元気なさそうに見える私を心配してくださったのですね。元気なさそうな私が、いくら仏法を伝えようとしても、周りの人に聞いてもらえるわけがありません。園田のおじさん、ありがとうございます。

悠久のときの中に 
思いつくままに「前に生まれん者」を訪ねました。誰ひとり欠けても、今の私はいません。
しかし、「前を訪え」とは、特定の誰かを敬うことではありません。思い出に留まるのではなくて、前の人を訪ねることを通して、阿弥陀を感じるということが起こり得る。阿弥陀は、遠いどこかにいるのではないし、信じた者の眼前にだけ現われるのではないのだから。すべてのいのちに、阿弥陀は添い続けている。
前の人を訪ねることによって、阿弥陀に出遇う。それが、前を訪ねる意味であり、そのとき、前の人は、後を導く者となる。前行く人と、後を歩む人が、一本の糸でつながる。固体としてのわたしは、命終えたときに身体も滅す。しかし、悠久のときの流れの中にいる前人とわたしは、永遠のいのちを生きている。「前を訪え」が、「阿弥陀に包まれたわたしを感じて生きなさい」と聞こえてきます。

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」3月25日の放送で、主人公“あさ”に女子大学校設立の影響を与えた成澤泉が語っていた死生観が、今月のことばと重なって聞こえました。

私にとって、生と死というものは、あまり違いはないのです。実はわたしも、女子大学校設立の運動中に、大事な人を亡くしました。しかし、生があるから死があり、死があるから生がある。このふたつは、常にひとつのリズムとして我々の日常を流れています。そして、この体は、ただの衣服であり、本当の体はもっと奥にある。そしてそれは、永久に滅びません。

   

掲示板の人形
桜をかたどった着物を着た人形です。
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お花見が楽しみです

明日4月2日は、地元 烏山仏教会 花まつりです。
午後1時30分、寺町通りの常栄寺さまから稚児行列が出発します。
松葉通りの当寺 西蓮寺まで行列し、2時より法要開始です。
本年は西蓮寺が花まつり会場です。
綿菓子・水風船ヨーヨーもあります。

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コメント

こんにちは。

> 出遇いに感謝です。

ふと、気がつかされたのですが、自分が当たり前と思っていること、案外、当たり前じゃないってこと、ひとびとと話していて、気づかされる。すると、自分が当たり前だと思っていたことというのは、考えないわけで、ああ、それ、当たり前じゃないんだ、となって初めて考えますから、当たり前だと思っていたことは、実は、自分はよく分かってはいなかった、となりますね。考えるまでもないと思っていたことになりますので。そういうことは、非常に多いですね。

で、最近、ふと、気づかされたことに、

「行者のはからいにあらず」=「出遇い」

というのを、当たり前だと思っていて、考えてもみなかったというのがあります。

が、その、自分が当たり前と思っていて考えたこともなかったこと、案外、あたりまえじゃない。「行者のはからいにあらず」って何のことだろう???というひといるんですな。

え、「出遇い」じゃないの?と。いや、口には出しませんよ。え、それ、「出遇い」だけのことじゃん、と、内心思ったのですが、それ、自分の中ではあったりまえだったので、そっかー、あったりまえじゃないのかー、「行者のはからいにあらず」って、わかんないことなのかー、と、あって、初めて、考えることになりますね。

アリストテレスの挙げている例ですと…

市場に行ったら(すなわち想定される目的としてはホニャララを買いに行くぜ!ってことに自分の中では意味づけをしているわけですね)、で、ま、市場に行ったら、おやアリストテレスさんではないですか!、おお久しぶり!、何年か前にお金をお借りしていましたねぇ、いまお返ししますというような、「」付の「結果」ということがあって、つまり、偶然の出来事をなにかの「結果」だということに、事後的に、遡及して考えて、「」付の「原因」を、あとから考える。すると貸してあったお金が返ってきたという「結果」の「原因」として想定されることは、買い物に行こうと思ったから市場に行ったのだという設定があるわけで、すると、


副産物として実現される目的が「本来のものと想定される」目標から逸れていること


という、偶然、出遇い、の定義が得られる。

もちろん、出かけるというときに、実際にはひとは、理由なく出かけますね、でかけるからでかけるのですが、同時に人間は、なんらか理由もつくりますからね。ほにゃららを買おうとか。それは人間がそういう風にできているわけで。ですから、本来の目的というものは、実際にはないのですが、ま、想定はされてはいる。つまり、行者のはからい。

で、広い意味の偶然、出遇いを、アリストテレスは二つに分けて、

アウトマトン[αυτοματον]という様相の背後に隠れたテュケー[τυχη]のおはたらき

ということを言うわけですね。

人間の側のはからいのないことは、神のおはからいである

と、言っている。

なんだけれども、それは、知識・教養だけのことで、ひけらかし、口真似なので、そんなことはどうでもよくて、そうではなくて、そこに至る前、できあがりを覚えるのではなくて、そこに至る、アリストテレスの歩みを歩むと、広い意味での出遇い、偶然とは、

副産物として実現される目的が、「本来のものと想定される」目標から逸れていること

を言うというところこそ、大事。

人間のはからいをなくせ、という、何を言っているのだかわからないこと、不可能でもあるし、非論理的でもあるし、ナンセンスなことは、古代ギリシャの昔から誰も言っていない。そもそも、人間のはからいは、幻想に過ぎない。

副産物として実現される目的が、「本来のものと想定される」目標から逸れていること

というのが、大事。

ま、副産物が必然的に得られるというのが、キモ。

偶然の出遇いは、必然的に、必ず、ある、というのが、ポイント。

☆HikkenDokugoさんへ
お久しぶりです。
早くも5月ですね。
いつもコメントありがとうございます。
読みながら、「偶然は必然」ということを想っていました。
最後まで読んで、「あっ、ポイント押さえてたみたい^^」と、嬉しくなりました(自己満足)。

こんにちは。

必然が、ほんとに必然なら、ひゃくぱー、ですからね。

実は、あ、そか、自分は、必然ってのを、ひゃくぱーと思ってなかったのか…という。

ひゃくぱーであるならば、以下のようになるんですな…

たとえば、若いときに、みんな恋人いて、結婚するなぁ~、そうじゃないと人間の仲間入りできないから、じゃあ、自分も恋人ほしいな~とか、ま、人間、何をするにも、理由があってやるんだよ、という、設定にするので、理由をでっちあげ、計算です、ということにして、わたしがやりたいからやる、という、理屈をつけて、ま、たとえば、合コンに行きましたと。アリストテレスの言う、当初の目標として《想定される》目標。ま、仮設ですね。でっちあげ。人間はことばを話す動物だから、わたしがやりたいからやると言わないと、話の辻褄があわないからということだけで、純粋に形式的な参照点として、先ず、自分の願いがあるんだよ、ってことにしとくと。

なんですが、ま、そこで、出遇い、ってのがあると、そこから事後的に、過去に遡及して、遡及的に、過去がすべて、書き換わる。わたしは生まれる前からこのひとを愛していた。それが出遇いですからね。宇宙の全歴史はわたしがこのひとに出遇うためにあったのだ。

なんで、必然は、ひゃくぱー、必然なんですな。

これがパスカルが『パンセ』で言っている、パスカル神学の核心。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100629

パスカルは、先ずかたちから入れ、などというつまらないことを言っているのではなくて、そうではなくて、教会に行って、宗教儀礼に参与すると、

天地創造いらい、信じていたという事実を知らされる、ま、はなから信じていたわたし、というものが、創設される

と言っているわけです。

ええ、蓮如上人の御文さま、の、核心と同じですね。

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