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2016年2月20日 (土)

生涯聞法

2016年2月15日(月)
ある研修会に参加。
ご講師より
「差別は、どうして起きるのでしょう? 差別される原因があるのではなく、差別する人がいるということなのだと思います。
差別を受けている方が、ある話し合いの場で、「私は、みんなと何も違わない。みんなと同じなのに、どうして差別をされなければいけないのでしょう?」と訴えられました。みんなと同じなのだから、差別をされるいわれははありません。みなさんもそう思うでしょ。すると、その場にいらっしゃった方が発言をされました。「私は、在日の2世です。そういう意味で、みなさんと違います。でも、違ったら差別を受けてもいいのでしょうか? 国籍・人種・肌の色・性別・・・たとえ違っても、差別を受ける理由にはならないと思います」と。そうですね。同じだから差別をされるいわれがないのではないし、違うからといって差別の理由にはなりません。
「差別」の反対語って、何でしょうね? 「平等」? 私は違うと思います。私は「敬意」だと思います。相手に対して「敬意」を持つ。そうすれば、「差別」などおきないのではないでしょうか」
(以上、ご講師のお話より。私の聞き書きです)

私も「尊敬することかな?」と思いながら聞いていました。
自分を優位に置きたいが為に、理由にならない理由で、他者を貶める。それが「差別」を生み出していると思います。
「そんな、誰でも彼でも「尊敬」なんかできないだろう!」と言われてしまいそうですが、そういえば、「天上天下 唯我独」ということばがあるなぁと思い出していました。「この人すごいなぁ、憧れるなぁ」という意味での「尊敬」の対象は、誰でも彼でもというわけにはいきませんが、ひとり一人のいのちがかけがえのないものであるという教えに向き合えば、誰もが尊いいのちを生きているという眼を持つことができます。誰もが「尊い」。
目の前の方を、ただの人と思うなよ」です。

2月16日(火)
真宗会館にて、「ある精肉店のはなし」上映会。妻が参加。
私たちが食べるものを口にすることができるのは、それを育ててくれている方や、いのちをいただく勤めを果たしてくださる方々がいてくださるおかげです。その方々に対して、どうして差別をするのでしょう? 偏見の目で見るのでしょう? 自分たちはお肉を食べているにもかかわらず・・・
屠畜解体をされている方が、自分の仕事のことを話したら、「どうしてそんなかわいそうなことをするんですか?」と言われたというお話を聞いたことがあります。
人それぞれに考え方があるとはいえ、どうしてそんなことを思うのですか?と、思ってしまう。

2月17日(水)
自民党の丸山和也参院議員の「今、アメリカは黒人が大統領になっている・・・」の発言。
びっくりしたけれど、発言に対する批判に対して「良心に恥じることは何もない。批判は見当違いだ」「不条理で怒りを覚える」とのこと。
最近、話の一部分を抜き出して、「問題発言だ!!」云々いう人や発言や記事が目につきます。全体を見て(聞いて・読んで)、考えなくちゃ!!と思っています。けれど、それにしても、この発言は「?」。
発言そのものに腹立ちを感じている方もいることと思いますが、弁明・釈明のことばの中で、「(アメリカへの)尊敬の念がほとばしった言葉が、なぜ人種差別の言葉と受け取られるのか」と言われたことがひっかかりました。
そう、15日の会で、「差別の反対は敬意だと思います」という話を聞き、私もそうだなぁと頷いた直後の出来事だったので、「尊敬の念」でもって「差別」と間違われかねない発言(丸山議員からすれば「誤解」なわけですが)が生まれてしまうことに驚きを感じました。あまりに念がほとばしりすぎたのでしょうか?


繊細な内容だと思うので、書きながらも、「この文章によって誰かを傷つけてしまうかもしれない」と感じています。でも、このブログの読者は、一部だけ抜き出して批判される方はいないので、研修会から始まったこの3日間の出来事(思ったこと)を書かせていただきました。
反対語って、正反対でありながら、同一性があったりもします(言ってること伝わるかな)。「嫌い」と言いながら「好き」だったり(この例えで良いのかな・・・)。だから、「差別」と「敬意」も、反対語でありながら、同一性が生じてしまうおそれがある。「差別」も「敬意」も、他者を強く意識するという意味においては、同じですね。
先にも書きましたが、「尊敬」するということは、個人的感情・想い・憧憬としての「尊敬」するということは、「尊敬」できているときはいいけれど、ちょっと腹黒い感情が湧き起こってくると「差別」のこころに変わってしまう。そういうこともあるのかもしれない。教えのことばにふり返って・・・「天上天下唯我独尊」・・・誰もが、変わる者のいないいのちをいただいている唯一の存在であるということ。そういう想いを「敬意」というのではないでしょうか。

今日書きたかったことは、誰かを責めようというのではなく、教えに触れ続けていると、聞き続けていると、いろいろなことを気付かせていただけるということ。
15日の研修会だけでも、16日の上映会だけでも、今日の文章(想い)は湧いてこない。15日・16日がなくて17日の発言を聞いたら、単に腹を立てるだけで終わってたかもしれない(多分そうだろう)。
15日・16日を通して17日があったから、「差別」や「尊敬」や「敬意」ということの意味を、教えの場だけで終わるのではなく、いろいろと考えるご縁をいただきました。南無阿弥陀仏

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コメント

こんにちは。

難しいですね。

ポストモダンな多文化主義というのは、極論すれば、極端なことを言えば、ロシアの同性愛宣伝禁止法と実は似ているのではないか? 

different but eaual。差別じゃないですよ、区別です。

同性愛というのは個人の嗜好であるからかまわない。けれども、わたしの視界からは消え失せよ。アパルトヘイト。

ガス室で抹殺しているのと、実は同じなのではないか?と。

すると、「平等」、というのは、実は、もしかすると、危険たりえる。

量る、わかる、知っている、数値化可能だ、計算可能だ、比較可能だ、あいつのことはぜんぶわかる…ということが、実は、自分の中に気がついていないけれどもあるのかもしれないというそうした危険。

そのときに、他者はいない。

見えていないのは、自己。

ひとびとに共通の度量衡があって、ひとつの物差しで比較ができて、点数をつけられて…

要するに数値化できる、交換可能である、比較考量できる…となると、たとえば、「平均」が「正常」だとなる。(そしていつでも物差しは、正常なのは、このわたし。いつでもわたしが普通。国王ですよね。国王。光の牢獄に閉じ込められているわたし。)

それが、わたしたちの言っている「平等」ということの中身ではないのか???

すると実は、ほんとにほんとのとこは、ひとびとは量れない。

共通の度量衡がない。

(わたしたちが共通の度量衡と思うのは自己中心しかないからですね。で、それ、ほんとの物差しじゃないから。だから娑婆世間のいかなる物差しも、それはほんとじゃないから。あくまでも自己中心でしかないから。)

いわば、徹頭徹尾の不平等が実はほんとのことなのかも。

つまり、あなたとわたしは違う。決定的に違う。共通の度量衡がない。(それぞれ自己中心しかないから)。 

その個人差の決定的な差異の大きさ、コミュニケーションの不可能性、わたしはあなたの意味や価値を知り尽くすことはできない、見切ることはできない、どうせお前は、所詮、ほにゃららに過ぎないだろということができない。

その個人差という巨大な決定的な差異の前には、他のいかなることばの上での記号、レッテル、年齢だとか、人種だとか、性別だとか、そうした差異はあまりにも小さく無視できる。

あなたとわたしは同じなんじゃない。

なんにも同じものが、ない。

人間としてほんとうのことというのを知りませんからね。おれ基準ってのを、おれこそ真の人間だ、と主張してみても、他の全員から承認されるようなことはありえない。

あなたとわたしは違う。

それは、性別とか年齢とか学歴とか年収とか人種とかが理由じゃない。

あなたとわたしが別の個人だから。

誰も誰をも代表しない、誰も誰にも代表されない。

ひとりひとりが、かけがえが、ない。

伝統的には、無等等、ですね。

無上。

上が無い。

えと、わたしがいっちゃん下なんだけども、みんなが、わたしがいっちゃん下(^-^;。

☆HikkenDokugoさんへ
いつもありがとうございます
仏法こそ ものさしですね
でも、仏法から遠ざかる生活をしていると、自分のものさしを完全・完璧なものと思い込んでしまう。
グニャグニャにひん曲がったものさしなのに^^;

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