アップが遅くなりました。2016年2月の掲示板のことばです。
ちょっと意地悪なことばですが、毎朝寺の前を通る小学生が、大きな声で読み上げて登校していきました。何を感じたかな

2016年2月のことば
福願う 心の裏に 鬼の顔

「偽り」という鏡
人の為と 横に書いたら 偽りという字になりました
寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」を書き始めるきっかけとなったことばです。
山門前の掲示板に、このことばを掲示したところ、初老の男性が寺を訪ねてきました。男性は尋ねます。
「人の為にすることが、どうして偽りなのですか?」と。
その当時は、掲示板にことばを掲示するだけでした。ことばを目にする方それぞれが、その意味を考え、噛みしめていただければと思っていました。しかし、ことばの意味を尋ねられたときに、「どうして このことばを掲示したのか」「私自身はどういう受け止めがあってことばを掲示したのか」ということも併せて発信しなければいけないと思い、寺報を書き始めました。
「人の為」と思って物事を為すことは尊いことです。「人の為」と思うからこそ、物事を為すことができるのかもしれません。しかし、たとえ純粋な想いで始めたことでも、いつの頃からか「お礼を言われなかった」「誉められなかった」「見返りがなかった」など、不平不満の気持ちが溢れてきます。そのことを否定するつもりはありません。しかし、本当に「人の為」を想ってのことなのか、自分を中心に考えていなかったか? 不平不満が出たときにこそ、問い返されます。
「あなたのためを想って言っているのよ!」
「あなたの・・・ため?」
というようなやりとりのコマーシャルがあったことを思い出しています(なんのCMか忘れてしまいましたが)。
わたしが何か発言やアドバイスをするとき、そのことばは、わたしの経験や都合に根ざして出てきます。
経験したことを元に、「あれはいい」とか「あれは悪い」とか言います。自分に都合の良いように、「ああしたほうがいい」「あれはやめといたほうがいい」とか言います。
そんなわたしが「あなたのためを想って」と言っても、まさに「偽り」でしょう。
自分にとって成功(失敗)だったことが、誰にとっても成功(失敗)するとは限らない。タイミングや環境によって、同じことをしても、結果は違うもの。
「偽り」と表現すると、わたしの想いや行動を否定されるように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて鏡のことばです。「偽り」とは、わたしの姿を映し出していることばです。
節分の季節「鬼は外 福は内」の声が聞こえてきます。
「災いよどっかいけ~ 福よ来~い」という気持ちは 分かります。しかし、「他者(ひと)のことは知らないよ。自分さえよければいい」つもりで福を願うのであれば、追い出すべき「鬼」とは、果たして何でしょう? 私に災いをもたらすものとは、外的要因なのか、それとも自分自身なのか・・・。
忘れてはならないこと
2016年1月末 天皇皇后両陛下がフィリピンを訪問されました。日本とフィリピンの国交正常化60周年を祝うほか、首都マニラにある「英雄墓地」を訪れ、「無名戦士の墓」で第二次世界大戦の戦没者に供花し、黙とうをささげられました。
第二次大戦でフィリピンは激戦地となりました。この争いでは、日本兵50万人 現地フィリピンの方々は110万人が犠牲になったと言われています。
戦後、フィリピンのモンテンルパ刑務所には、日本人戦犯108名(うち53名の死刑囚を含む)が収容されていました。
しかし、当時のキリノ大統領(フィリピン第6代大統領)は、日本人戦犯全員に恩赦を与え、帰国を許しました。
キリノ大統領自身、日本兵によって、妻と3人の子どもたち、身内を殺されています。しかし、これからの両国の関係を想えば、怨みを持ち続けていては未来は開かれないと、恩赦の決断をされました。胸を切り裂くような悲しみを抱えながらの決断であったと想います。
「ゆるす」には、それに先だって犠牲や悲しみがあります。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。たとえ否定しても、時代の流れや環境によっては、わたしは他者を傷つけることがあるかもしれません。犠牲や悲しみの所行は、人が為すことです。
「ゆるす(赦す・許す・恕す)」とは、人の為すことでは ありません。人にはできないことです。できるとすれば、ゆるすべきかゆるさざるべきか、その狭間で苦しみ続けることです。
しかし、犠牲や悲しみに対して「ゆるし」があるからこそ、わたしは「ゆるされている感覚」を得ることができます。大いなるはたらきに抱かれている感覚。それがゆるしです。
キリノ大統領も、赦すか赦さないかの狭間で苦しみ、恩赦を決断した以降も、苦しみは持ち続けたことでしょう。しかし、大いなるはたらきのなかにある感覚を持たれていたからこそ、決断できたのだと想います。
犠牲は、悲しみは、人間の歴史の中で、無くなることのない出来事です。それゆえ、わたしは、ゆるすこともできずに苦しみます。そんな「偽り」のこころを抱える人間に対して、抱きしめるはたらきがあります。阿弥陀如来の慈悲のこころが。人が為す悲しい出来事に対して、「ゆるし」がある。南無阿弥陀仏の念仏は、阿弥陀に抱かれて生きている我が身を感覚させてくれます。「偽り」があるからこそ、「ほんもの(阿弥陀)」を感じることができます。

掲示板の人形

あっ、ひな人形を飾らなきゃ