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2016年2月

2016年2月23日 (火)

いのちは 同じ重さ

朝、境内の掃除をしていて

目の前に鮮血が・・・

その先には ハトが亡くなられていました

カラスやネコにやられたのあれば、見るも無惨な姿になっているのですが、外傷がありません

でも、血は流れています

どうして死んでしまったのだろう?

窓にぶつかったわけでもないし、

病気で亡くなったわけでもなさそう・・・

などと思いながら、境内のある場所に穴を掘り、そこにハトを埋めました 南無阿弥陀仏

ハトを移動する際と、穴の中に安置する際、

私の手に、ハッキリとハトの重さを感じます

目にするハトの大きさと、その大きさに見合う重さが、私の手にズシリとのしかかる

死んではいるけれど、生きていたんだ

どうしたんだい? 何があったの?

こころの中での問いかけに、当然応えるわけもなく、

ハトは安らかに目を閉じている

ホント、優しい目をしている

ハトの重さと 優しい目と・・・後で洗い流した鮮血と

いのちがあったんだ

いのちは、死んで終わりか?

いや、私の手に、ハトの重さの感触が残っている

    私の脳裏に、何とも言えないハトの優しい目の曲線が焼き付いている

覚えている人がいる現実は、

死もまた生であるという真実

また いつか 会いましょう

2016年2月22日 (月)

2月22日

2013年2月22日 真宗大谷派東京教区専福寺 二階堂行邦前住職が還浄されました。

今日は、二階堂先生が亡くなられてから3年目の2月22日でした。
先生が亡くなられ、想いをブログに綴ったのですが、自分では書いたことを忘れていました。が、先日ある方がそのブログをシェアしてくださり、私自身久しぶりに読み返すこととなりました。

二階堂行邦先生 「真宗聖典を毎日3ページずつ、お内仏の前で声に出して読んでいたときがあるんだ」

「あの人が生きていたら・・・」的に物事を考えるのは好きではないので、そんな振り返り方はしません。

先生との出遇いを通して、今ある自分。
どんな道を歩んできただろう。
今、どんなところに立っているだろう。
これから、どんな道を歩んでいくことだろう。

ふと、そんなことを想いました。
南無阿弥陀仏

2016年2月21日 (日)

人に教えようとしたとき、間違うし、失言する

前回の投稿で、自民党の丸山和也参院議員の発言について触れましたが、2016年2月21日放送の「ワイドナショー」で武田鉄矢さんが、

「教えたくてたまらないんですね。人間というのは面白いもので、教えようとした時に必ず間違うんですよ。俺だけが知っているとか。こんな考え方も君たちはできないのかとか。人に教えようとした時に、必ず人間は失言するんです」

と、丸山議員の発言に触れて仰っていました。
丸山議員や、最近名前が出てくる政治家先生に限らず、“先生”って持ち上げられる肩書き・立場の者や、他者(ひと)に説明・指導をする年齢となった者は、気をつけなければいけないことです。

あなたは間違っている!(自分こそ正しい!) 
自分の言ってることに間違いは無い!
なんて思い始めたら要注意

武田鉄矢さんのご指摘ごもっともですが、同番組で松本人志さんが「丸山議員、発言の内容云々以前に、酔っぱらってたんちゃうかな、と思います」と言ってたのは笑えました。私もそう思いながら映像を見てたので。
「酒の席のことだから」「酔っぱらってたので」という言い訳をする人がいますが、言い訳になりませんから。

   

境内の白梅・紅梅が咲きました
暑くなったり、寒くなったり、植物も大変です
気候不順の折、皆様お身体ご自愛ください(‐人‐)

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2016年2月20日 (土)

生涯聞法

2016年2月15日(月)
ある研修会に参加。
ご講師より
「差別は、どうして起きるのでしょう? 差別される原因があるのではなく、差別する人がいるということなのだと思います。
差別を受けている方が、ある話し合いの場で、「私は、みんなと何も違わない。みんなと同じなのに、どうして差別をされなければいけないのでしょう?」と訴えられました。みんなと同じなのだから、差別をされるいわれははありません。みなさんもそう思うでしょ。すると、その場にいらっしゃった方が発言をされました。「私は、在日の2世です。そういう意味で、みなさんと違います。でも、違ったら差別を受けてもいいのでしょうか? 国籍・人種・肌の色・性別・・・たとえ違っても、差別を受ける理由にはならないと思います」と。そうですね。同じだから差別をされるいわれがないのではないし、違うからといって差別の理由にはなりません。
「差別」の反対語って、何でしょうね? 「平等」? 私は違うと思います。私は「敬意」だと思います。相手に対して「敬意」を持つ。そうすれば、「差別」などおきないのではないでしょうか」
(以上、ご講師のお話より。私の聞き書きです)

私も「尊敬することかな?」と思いながら聞いていました。
自分を優位に置きたいが為に、理由にならない理由で、他者を貶める。それが「差別」を生み出していると思います。
「そんな、誰でも彼でも「尊敬」なんかできないだろう!」と言われてしまいそうですが、そういえば、「天上天下 唯我独」ということばがあるなぁと思い出していました。「この人すごいなぁ、憧れるなぁ」という意味での「尊敬」の対象は、誰でも彼でもというわけにはいきませんが、ひとり一人のいのちがかけがえのないものであるという教えに向き合えば、誰もが尊いいのちを生きているという眼を持つことができます。誰もが「尊い」。
目の前の方を、ただの人と思うなよ」です。

2月16日(火)
真宗会館にて、「ある精肉店のはなし」上映会。妻が参加。
私たちが食べるものを口にすることができるのは、それを育ててくれている方や、いのちをいただく勤めを果たしてくださる方々がいてくださるおかげです。その方々に対して、どうして差別をするのでしょう? 偏見の目で見るのでしょう? 自分たちはお肉を食べているにもかかわらず・・・
屠畜解体をされている方が、自分の仕事のことを話したら、「どうしてそんなかわいそうなことをするんですか?」と言われたというお話を聞いたことがあります。
人それぞれに考え方があるとはいえ、どうしてそんなことを思うのですか?と、思ってしまう。

2月17日(水)
自民党の丸山和也参院議員の「今、アメリカは黒人が大統領になっている・・・」の発言。
びっくりしたけれど、発言に対する批判に対して「良心に恥じることは何もない。批判は見当違いだ」「不条理で怒りを覚える」とのこと。
最近、話の一部分を抜き出して、「問題発言だ!!」云々いう人や発言や記事が目につきます。全体を見て(聞いて・読んで)、考えなくちゃ!!と思っています。けれど、それにしても、この発言は「?」。
発言そのものに腹立ちを感じている方もいることと思いますが、弁明・釈明のことばの中で、「(アメリカへの)尊敬の念がほとばしった言葉が、なぜ人種差別の言葉と受け取られるのか」と言われたことがひっかかりました。
そう、15日の会で、「差別の反対は敬意だと思います」という話を聞き、私もそうだなぁと頷いた直後の出来事だったので、「尊敬の念」でもって「差別」と間違われかねない発言(丸山議員からすれば「誤解」なわけですが)が生まれてしまうことに驚きを感じました。あまりに念がほとばしりすぎたのでしょうか?


繊細な内容だと思うので、書きながらも、「この文章によって誰かを傷つけてしまうかもしれない」と感じています。でも、このブログの読者は、一部だけ抜き出して批判される方はいないので、研修会から始まったこの3日間の出来事(思ったこと)を書かせていただきました。
反対語って、正反対でありながら、同一性があったりもします(言ってること伝わるかな)。「嫌い」と言いながら「好き」だったり(この例えで良いのかな・・・)。だから、「差別」と「敬意」も、反対語でありながら、同一性が生じてしまうおそれがある。「差別」も「敬意」も、他者を強く意識するという意味においては、同じですね。
先にも書きましたが、「尊敬」するということは、個人的感情・想い・憧憬としての「尊敬」するということは、「尊敬」できているときはいいけれど、ちょっと腹黒い感情が湧き起こってくると「差別」のこころに変わってしまう。そういうこともあるのかもしれない。教えのことばにふり返って・・・「天上天下唯我独尊」・・・誰もが、変わる者のいないいのちをいただいている唯一の存在であるということ。そういう想いを「敬意」というのではないでしょうか。

今日書きたかったことは、誰かを責めようというのではなく、教えに触れ続けていると、聞き続けていると、いろいろなことを気付かせていただけるということ。
15日の研修会だけでも、16日の上映会だけでも、今日の文章(想い)は湧いてこない。15日・16日がなくて17日の発言を聞いたら、単に腹を立てるだけで終わってたかもしれない(多分そうだろう)。
15日・16日を通して17日があったから、「差別」や「尊敬」や「敬意」ということの意味を、教えの場だけで終わるのではなく、いろいろと考えるご縁をいただきました。南無阿弥陀仏

2016年2月15日 (月)

2016年2月のことば

アップが遅くなりました。2016年2月の掲示板のことばです。
ちょっと意地悪なことばですが、毎朝寺の前を通る小学生が、大きな声で読み上げて登校していきました。何を感じたかな

   

2016年2月のことば
福願う 心の裏に 鬼の顔

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「偽り」という鏡
人の為と 横に書いたら 偽りという字になりました
寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」を書き始めるきっかけとなったことばです。
山門前の掲示板に、このことばを掲示したところ、初老の男性が寺を訪ねてきました。男性は尋ねます。
「人の為にすることが、どうして偽りなのですか?」と。

その当時は、掲示板にことばを掲示するだけでした。ことばを目にする方それぞれが、その意味を考え、噛みしめていただければと思っていました。しかし、ことばの意味を尋ねられたときに、「どうして このことばを掲示したのか」「私自身はどういう受け止めがあってことばを掲示したのか」ということも併せて発信しなければいけないと思い、寺報を書き始めました。

「人の為」と思って物事を為すことは尊いことです。「人の為」と思うからこそ、物事を為すことができるのかもしれません。しかし、たとえ純粋な想いで始めたことでも、いつの頃からか「お礼を言われなかった」「誉められなかった」「見返りがなかった」など、不平不満の気持ちが溢れてきます。そのことを否定するつもりはありません。しかし、本当に「人の為」を想ってのことなのか、自分を中心に考えていなかったか? 不平不満が出たときにこそ、問い返されます。

「あなたのためを想って言っているのよ!」
「あなたの・・・ため?」
というようなやりとりのコマーシャルがあったことを思い出しています(なんのCMか忘れてしまいましたが)。

わたしが何か発言やアドバイスをするとき、そのことばは、わたしの経験や都合に根ざして出てきます。
経験したことを元に、「あれはいい」とか「あれは悪い」とか言います。自分に都合の良いように、「ああしたほうがいい」「あれはやめといたほうがいい」とか言います。
そんなわたしが「あなたのためを想って」と言っても、まさに「偽り」でしょう。
自分にとって成功(失敗)だったことが、誰にとっても成功(失敗)するとは限らない。タイミングや環境によって、同じことをしても、結果は違うもの。 
「偽り」と表現すると、わたしの想いや行動を否定されるように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて鏡のことばです。「偽り」とは、わたしの姿を映し出していることばです。

節分の季節「鬼は外 福は内」の声が聞こえてきます。
「災いよどっかいけ~ 福よ来~い」という気持ちは  分かります。しかし、「他者(ひと)のことは知らないよ。自分さえよければいい」つもりで福を願うのであれば、追い出すべき「鬼」とは、果たして何でしょう? 私に災いをもたらすものとは、外的要因なのか、それとも自分自身なのか・・・。

忘れてはならないこと
2016年1月末 天皇皇后両陛下がフィリピンを訪問されました。日本とフィリピンの国交正常化60周年を祝うほか、首都マニラにある「英雄墓地」を訪れ、「無名戦士の墓」で第二次世界大戦の戦没者に供花し、黙とうをささげられました。
第二次大戦でフィリピンは激戦地となりました。この争いでは、日本兵50万人 現地フィリピンの方々は110万人が犠牲になったと言われています。
戦後、フィリピンのモンテンルパ刑務所には、日本人戦犯108名(うち53名の死刑囚を含む)が収容されていました。
しかし、当時のキリノ大統領(フィリピン第6代大統領)は、日本人戦犯全員に恩赦を与え、帰国を許しました。
キリノ大統領自身、日本兵によって、妻と3人の子どもたち、身内を殺されています。しかし、これからの両国の関係を想えば、怨みを持ち続けていては未来は開かれないと、恩赦の決断をされました。胸を切り裂くような悲しみを抱えながらの決断であったと想います。
「ゆるす」には、それに先だって犠牲や悲しみがあります。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。たとえ否定しても、時代の流れや環境によっては、わたしは他者を傷つけることがあるかもしれません。犠牲や悲しみの所行は、人が為すことです。
「ゆるす(赦す・許す・恕す)」とは、人の為すことでは ありません。人にはできないことです。できるとすれば、ゆるすべきかゆるさざるべきか、その狭間で苦しみ続けることです。
しかし、犠牲や悲しみに対して「ゆるし」があるからこそ、わたしは「ゆるされている感覚」を得ることができます。大いなるはたらきに抱かれている感覚。それがゆるしです。
キリノ大統領も、赦すか赦さないかの狭間で苦しみ、恩赦を決断した以降も、苦しみは持ち続けたことでしょう。しかし、大いなるはたらきのなかにある感覚を持たれていたからこそ、決断できたのだと想います。
犠牲は、悲しみは、人間の歴史の中で、無くなることのない出来事です。それゆえ、わたしは、ゆるすこともできずに苦しみます。そんな「偽り」のこころを抱える人間に対して、抱きしめるはたらきがあります。阿弥陀如来の慈悲のこころが。人が為す悲しい出来事に対して、「ゆるし」がある。南無阿弥陀仏の念仏は、阿弥陀に抱かれて生きている我が身を感覚させてくれます。「偽り」があるからこそ、「ほんもの(阿弥陀)」を感じることができます。

   

掲示板の人形
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あっ、ひな人形を飾らなきゃ

2016年2月14日 (日)

苦労と幸せは、別物ではなく、一体のものなんだ^^

こんにちは みなさまお元気ですか?
私は、インフルエンザが治ったら、咳風邪が続き、いよいよ花粉症の季節到来です!!
薬漬けの毎日です
みなさまお身体ご自愛のほどを

  

2016年2月14日(日)
お友達(新郎とも新婦ともお友達)の結婚披露パーティーに出席
妻も新婦のお友達なので、一緒にお呼ばれ。ふたり一緒に出席させていただきました。

お開きの席で、新婦からの挨拶が
「お世話になっている先生が仰っていました。
『最近の結婚式では、「一緒に幸せになります」という挨拶がされるけれど、私の頃は、「一緒に苦労をします」と挨拶をしていたものです』と。
私も、幸せになりたいとは思いますが、この人となら一緒に苦労ができると思えたので、結婚を決めました

横で、新郎が泣いてます
うんうん、よかったねぇ。こっちまで涙が出てきました

おふたりとも、おめでとうございます
苦労と共に幸あれ

2016年2月 6日 (土)

みなさま お身体お大事に

インフルエンザ罹患
1月31日から臥せっていました(教区報恩講を無事にお勤めできてホッとしています)。
1月中に寺報を作ってあれば問題はなかったけれど、例によってそんなはずななく・・・。
結局、2月1日の発行に間に合いませんでした。

けれど、インフルエンザが落ち着いてきた3日目くらいから起き出して、文章を直し始める(一応草稿段階の文章はありました)。
寝込んでいる間に頭の中でいろいろなことを想い、そのおかげで、あらたな想いが湧いてきました。当然、文章のほとんどが書き直し。
今、やっと入稿。ホッとしました。
でも、寝ている間にたまった仕事があるので、頑張ります

記憶が確かならば、生まれて初めてのインフル感染。
初めてタミフルを飲みました。
変な気は起こしませんでしたが、
2日目の晩の夢見がとても悪かった(可笑しかった)です

夢の中でバスに乗っています
昼間もずっと寝ていたせいか、現実に度々目を覚ますのですが、
寝入る度に、乗っているバス・環境(シチュエーション)・メンバーが変わります。
寺の前を走っている関東バスだったり、都バスだったり、地方のバスだったり、路線バス乗り継ぎの旅だったり(それなのに、太川陽介さんや蛭子さんは出てきませんでした)、長距離バスだったりです。
で、一緒に乗っている相手も違うので、話している内容もバラバラです。
面白かったのは、寝入る度に違うバスに乗るので、その度にちゃんとSuicaをピッとしているところです。
自分でも夢って分かっていた気がします。楽しみながら乗っていた気がします。
ですが、記憶している最後のバス乗車。高速バスの旅だったのですが(どこからどこへの旅かは覚えていません)、今年に入り悲しいバス事故が続いていますが、夢の中、自分が乗っているバスも事故に遭いました。その瞬間に目が覚めました。汗をビッショリかいています リアルにそのときの様子を覚えていて、心臓がドキドキして、なかなか寝付けませんでした。

いつの間にか寝ているし、
実際はそんなに長い時間夢を見ていたわけではないかもしれないけれど、
一晩中夢を見ていたような夜でした。

これもタミフルの影響なのか、
インプットしている情報と、寺報を書かなければという切羽詰まった感覚が混じり合って、おかしな夢を見たのか分かりません。
どちらにしても、タミフル服用の際はお気を付けて。

当然、インフルエンザにお気を付けください。
まだまだ流行は続いているようですし、今年は3種類?かかる可能性もあるとか。
睡眠と水分はしっかりとってください。

2月のことばは、近々アップします。お楽しみに。
「同朋新聞」2016年2月号 「時問自問」の原稿を書かせていただいています。お持ちの方、手に取れる方はお目通しください。

では、良い夢をご覧ください。おやすみなさい
(こんな文章読んだ後で、「良い夢を」じゃないですよね。ごめんなさい)

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