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2016年1月 1日 (金)

2016年1月のことば

明けましておめでとうございます
いつも当ブログ「ことば こころのはな」をご覧いただき、ありがとうございます
長年続けて来たブログも、最近は毎月1日に発行している寺報のアップばかりでした。
が、12月はちょっと思うところがあって、できるだけ想いをことばにしてきました。
というのも、想いを伝える努力もせず、丁寧に説明するといいながら肝心なことは何も語らず、たまにことばを発したかと思えば意見の違う者に対するバッシングばかり。そのような人が国の政を動かしている姿に、疑問と憤りを感じています。
で、ことばを大切にして生きたいと想ったのです。「私の方が正しい」なんて思っているわけではありません。ただ、せっかくことばをいただいて生きているのだから、想うところを正直に、決して誰かを叩く目的ではなく、ことばに敬意をもって、想いを発したいとあらためて想いました。
相手に変化を求めて ことばを発しているのではありません。それでは独裁者です。
自分の想いを、相手に伝えるために、ことばを大切にする。そうして生きていきたいと想いました。
本年もよろしくお願い致します。
( 筆硯独語さん、コメントをありがとうございます。ひとつ一つのコメントに応じず申し訳ありません。でも、ちゃんと読んでます)

   

2016年1月のことば
さるべき業縁のもよおせば、
いかなるふるまいもすべし
 親鸞聖人

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そうなるべき縁がもよおすならば
親鸞聖人は言われました。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13章)
「そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもしてしまうのがわたしです」と。
このことばは、親鸞聖人とお弟子さんの唯円さんとの会話の中に出てきます。
「聖人の仰せならば、私は背きは致しません」と言う唯円に、聖人は「では、人を千人殺して来なさい」と命じます。「そのようなこと、私の器量ではできません」と唯円が返せば、「人を殺さないのは、あなたが善い心を持っているからではありません。また、決して殺害はしてはいけないと思っていても、そうなるべき縁がもよおすならば、殺すということもあるかもしれないのです」と聖人は語ります。

この会話を紹介した際、「そうかもしれないけれど、してはいけないことは、やっぱり、してはいけない。人は、強いこころを持っています。だから、してはいけないことを避けることができます」と感想をいただいたこともありました。
そうですね。してはいけないことは、やっぱり、してはいけないですよね。
しかし、「国民のいのちを守るため」「テロには屈しない」などという理由をかざして戦争を、争いを肯定する人もいます。国民のいのちを守るために、他国の方々のいのちを殺しています。テロに屈しないための爆撃で、多くの一般市民のいのちを奪っています。ある者を守るとき、同時に他の誰かを傷つけることが起こっています。

どうして「人を千人殺してきなさい」なのか
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
親鸞聖人の教えを聞いて、「私も何をしてしまうか分からない身だ」と、内省する(自分を見つめる)ことは大事なことです。しかし、内省を促すだけならば、「他人の物を盗んできなさい」ということばでもかまわないのではないでしょうか? 聖人は、「人を千人殺してきなさい」と言われました。そのように言われると、「そんなことできません」と言いながらも、憎い誰かの顔が浮かんだりしませんでしたか? 「人を殺してきなさい」ということばは、わたしのこころに波風を立てます。ざわめくこころで自分と向き合うことになります。他人事として聞き流すことはできなくなります。

どうして「いかなるふるまいも」するのか
さて、どうして「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいも」してしまうのでしょうか?
それは。縁を生きているからです。さまざまな環境で生まれ育ち、多くの人々と出会い、出会った人々から影響を受ける。それらの縁をいただいて、わたしはわたしとなりました。先にわたしが存在していて、そこに縁が集まってくるわけではありません。さまざまな縁が重なり合う中のほんの一点がわたしです。
あらためて聖人のことばを噛みしめると、「あなたは、いかなるふるまいもすべし」ではなく、「さるべき業縁のもよおせば」と言われています。その結果、「いかなるふるまいもすべし」と。縁があってこそのわたしなのです。
自分一人の力で生きている人はいません。いのちは、個人の所有物ではありません。目の前のいのちだけでなく、無数のいのち・事柄と繋がって、わたしはいます。
縁をいただいて生きている。他のいのちと繋がって生きている。自分の思い・考え・願いで物事を為してきたつもりでいるけれど、自分でしようと思ってできることなどひとつもないのです。

ご縁があって
わたしたち、嬉しい出来事については、「ご縁があって」「おかげさまで」と喜びを表現できます。しかし、悲しい出来事を「ご縁で」とは言えません。でも、悲しい出来事もまた、「ご縁があって」なのです。
「嬉しい出来事」「悲しい出来事」と書きましたが、個人的・一面的には嬉しい出来事であっても、万人にとって喜ばしい出来事とは限りません。わたしにとってかけがえのないAさんとの出会いがあったとき、そのAさんと別れた誰かがいるかもしれません。あるいは、先に述べましたが、「国民のいのちを守るため」に行った行為によって、多くのいのちが奪われるという現実があります。
 さまざまな縁が寄り集まって、物事を、人生を織り成しています。「嬉しい出来事です」「悲しい出来事です」と、一面的に見ただけでは語り得ません。誰かにとって喜びの出来事であっても、そのとき同時に悲しんでいる誰かがいます。わたしの願いが叶ったとき、その犠牲になっている人がいます。悲しいことに、喜んでいるわたしは、他を傷つけていることに無自覚です。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言われたとき、まだ物事を為していない、未来のことだと考えませんでしたか? しかし、縁をいただいて、今、わたしがここにいます。つまり、今に至るまでわたしは、「さるべき業縁のもよお」して、「いかなるふるまいも」してきました。聖人のことばに、わたしの姿を教えられます。

   

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