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2015年12月 8日 (火)

起きながら寝ているわたしたちのために

1941年12月8日
日本軍がハワイ真珠湾にて攻撃を行い太平洋戦争が開戦した日

「リメンバー パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」は、攻撃を仕掛けられたアメリカ側のことばだけど、
今思えば、日本人も(こそ)真珠湾を(先の大戦を)忘れてはいけない。

「戦後70年」ということばをよく耳にしました。私も使いました。
戦争が終わって(と言われて)70年も経つと、自分たちがしてきたことや戦中・戦後に味わったつらさを忘れてしまうのですね。自分がされたことは、覚えているのだけれど(真実か嘘かは別にして)。

リメンバー パールハーバー
戦争が起こるとはどういうことなのか、何が起こるのか。忘れてはいけないし、想像力をフル稼働しなければいけない。

真珠湾攻撃のように、戦争には、宣戦布告という、いわゆる「スタート」がハッキリしているものだったのだけど、現代は違うようです。つらいのですが、私は、すでに第3次世界大戦が始まっていると感じています。

1980年12月8日
ジョンレノンの命日

オノヨーコさんが、かつてニューヨークタイムズの新聞に広告を出されました。
一面なにもなく、ただ、「イマジン」の歌詞が一行書かれているだけでした。

Imagine all the people living life in peace.
(想像してみよう、生きとし生けるもの すべての人が平和に生きている姿を)

ジョンレノンとオノヨーコさんの「イマジン」に、彼女はどのような想いを込めたのだろう。
この一文に、すべてが込められているのですね。
あとは、私たちが想像してみないと

何年だ? 12月8日
お釈迦さまがさとりをひらかれた日(と言われています)
12月8日頃、「成道会(じょうどうえ)」と言われる法要が営まれます。

さとりをひらく・・・真実に目覚める

起きながら 夢を見ている(自分の欲望追求の夢を) わたしは 起きているのに 目が覚めていない

夢を見ていたことに 目覚めた仏陀は 起きながらにして寝ていた自分に気づいた(目覚めた)

リメンバー
イマジン
ブッダ

忘れるな
想像してみよう
目を覚ます

お釈迦さまのさとりの内容は、「中道(ちゅうどう)」といいます。
苦しい修行を重ねても、逆に、世俗にどっぷり漬かっても、目覚めるということはない
琴の弦は、きつく締めすぎると切れてしまうし、ゆるめてしまっても音が出ない。丁度いい締め加減があるものです。
右とか左とか言うけれど、寄りすぎてしまうと、相手が悪く見えてしまうだけ、対立を深めてしまうだけ。そこからは何も生まれません。
「中道」・・・ちょうどいい加減に、目覚めたい

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コメント

https://twitter.com/gan_kai_ji/status/675876062299983873

阿弥陀様は「死者を誰でも成仏させる仏」ではない。阿弥陀様から頂ける「信心」すなわち「阿弥陀様のお救いを疑いのない心」が必要です。その信心を頂けなかったから私はこんなに永く輪廻を繰り返してきました。いま仏法を聴かせて頂けるのはきっと最後のチャンスなのでしょう。なまんだぶつ 新井山 願海寺【浄土真宗本願寺派】 (@gan_kai_ji) December 13, 2015


というご意見(本派の公式の御法義かも?)もあり…。ま、つっこみどころ満載な気も。えと、「問い」という意味で。解けない「問い」という意味で。

☆筆硯独語さんへ
コメントの文章を読んで、「あぁ・・・(ちょっと落胆)」でしたが、
ツイッターを少し拝見したら、おそらくとても真面目な方なんだろおなぁと感じました。

こんにちは。

===============

有時上人。予に語ての給はく。法相三論天台華嚴眞言佛心の諸大乘の宗。遍學し悉明るに。入門は異なりといへども。皆佛性の一理を悟顯ことを明す。所詮は一致なり。法は深妙なりといへども。我が機すべて及難し。經典を披覽するに。其智最愚なり。行法を修習するに。其心翻て昧し。朝朝に定めて惡趣に沈んことを恐怖す。夕夕に出離の縁の闕たることを悲歎す。忙忙たる恨には渡に船を失がごとし。朦朦たる憂[一字、判読不能]は闇に道に迷がごとし。歎ながら如來の敎法を習。悲ながら人師の解釋を學。黑谷の報恩藏に入て。一切經を披見すること。既に五遍に及ぬ。然れども猶いまだ出離の要法を悟得ず。愁情彌深。學意增盛なり。爰に善因忽に熟し。宿縁頓に顯れ。京師善導和尚勸化の八帖の聖[書割注 上人在世般舟讚未流布故云八帖書]を拜見するに。末代造惡の凡夫。出離生死の旨を輒定判し給へり。粗管見していまだ玄意を曉めずといへども。隨喜身に餘り。身毛爲竪て。とりわき見こと三遍。前後合て八遍なり。時に觀經散善義の。一心專念彌陀名號の文に至て。善導の元意を得たり。歡喜の餘に聞人なかりしかども。予が如の下機の行法は。阿彌陀佛の法藏因位の昔。かねて定置るるをやと。高聲に唱て。感悅髓に徹り。落涙千行なりき。終に承安五年[割注 乙丑]の春。齡四十三の時。たちどころに餘行をすてて。一向專修念佛門に入て。始て六萬遍を唱。

======================

ここでは、「法相三論天台華嚴眞言佛心の諸大乘の宗。」という文脈ですから、必ずしも浄土佛教特有の用語ではなくて、すなわち、三心とか、至誠心とか、真実心とか……という言葉遣いではなくて、「皆佛性の一理を悟顯ことを明す。所詮は一致なり。」と、「佛性」ということばづかいで、がーんorz、と、法然上人は仰っておられるわけで、じべたをころげまわってもがいておられるわけですが、法然上人をして、ころげまわらせた「問い」があったわけでして、その問いは、言語化はしきれない。

思考が言語を超えているわけで、その問いは、厳密に解決されえない。

宗教的な問いは、それが真に宗教的な問いであるならば、厳密に解決されえない。そうではなくて、解答がでるのではなくて、ある問いの言語化、ある言語化された問いが、別の問いに置き換えられる。(解答の歴史があるのではなくて、問いの歴史がある。)

実際、もしも、一つの正解に収斂していっているのであれば、世界の宗教、宗派は、だんだんに、一宗派に収斂していっていなければなりませんが、そのようなことはおきておらず、宗派は増えていっているわけです。別の言語された問いに置き換えられていっているからですね。

限りなく問いがひらかれていっている。

解がない問い、問いだけがあって、解がない問いがあって、そのような問いが、人類の知性を爆発的に拡大する。

開放性だからですね。

(教信沙弥さまは、ふたつのことを言っておられたそうです。ただ、二つだけ。ひとつじゃないんですね。二つ。一つは称名念佛なんですが、もうひとつは、「西方に牆せず」。西の方向に開かれてあれ。西からの風の声を聞け。ま、自分で勝手に成佛して、一佛一佛國土に閉じ込められるな、でしょうか。自分で成佛したら、そうなりますからね。)

(ま、身ははなから成佛してるだろ、思いについてのみ往生ってこと成り立つだろ、とか、言えますけれども…。)

わたしたちの、思い、こころ、という話であれば、自分が知ってる、わかった、であれば、光の牢獄に閉じ込められてしまうから。

ひるがえって、わたしたちは、自分にとってこれほど自明なことがわからないあいつらには、話をしてもしかたがない(おおげさに言えば、あいつらは人間ではない、空爆するしかない)…というように、排中律でしか、ものごとを認識できない。

わたしたちの認識の枠組みは、排中律。

古典論理ですね。

閉集合として、「すべて」があって、その「すべて」という、円の直径のところに、線分を一本引いて、人間と人間じゃないものに分割する。あるいは、愛国者と非国民。自分にとって、これほど自明なことがわからないあいつらは非人間的な怪物だ、そういう、認識の枠組みでしか、わたしたちはなにも認識できない。

しかしながら、誰かを非人間的な怪物だと排除することによってしか、成り立たない、そのような、わたしたちとは、いったい、なんなのか???

そうやって考えていくと、そもそも、私たちの認識の枠組み、「すべて」という閉集合を分割してしか認識できないという、そのような、認識の枠組みが、静的な、固定的な、空間的な比喩というものが、わたしたちの言語化の限界として、ある。

そうではなくて、真実は、超越論的存在論、つまり、時間論なのだけれども、わたしたちは、時間というものを、うまく言語化できない。

なので、時間ということを直接に、わたしたちは、うまく、言語化ができないので、閉集合じゃないよ、開放集合、無辺なんだ、というような言い方で、時間ということを間接的に、迂回して表現するしかありません。

攝取不捨とは、無際限の含み入れが続いている時間があるのだ、無際限の含み入れが続いている時間にあっては、「すべて」が成立し得ない、無辺なんだ、含み入れが終わって、完成して、成就しなければ、すべてと、くくる外枠、すべてのなになには~と、判断する外部の立ち位置、すべてを一望俯瞰的に、光の下で、手のひらのうえにおいて、外側から判断することはできない……というような、否定形でしか説明ができません。

相互に背馳し合う、矛盾しあう、何も共通の度量衡がない(したがって、数値化もできず、平均も出せないから、平均が正常、はずれていたら異常もない)、無数の、解釈が、生成しつつあり、そのどの異論も、ひとつも排除されることなく、含み入れが続く時間があるのだ…というような、極めて難解な言い方しかできません。

すると、新たにやってくる人々がいつでもいるよね、あらたに信心獲得しつつ、しかし、わかったと完成しない、成就しない、それは、いつか必ずわかるのだから、待てる問題だ、このわたしの差し迫った急務は別のところにある、というひとがいるよね…というようなことになり……、まー、難解な言い方しかできないんですよねー。

潜勢力を潜勢力のまま、生きる。えと、潜勢力の完全なる現前化は、待てる問題である。わたしがわたしではないものにならなくてかまわない。わたしはわたしのまま、つまり不完全なまま、有限なまま、生まれ、学び、ひとを愛し、約束をかわし、子どもをそだて、そして、わたしはわたしのまんま、わたしがわたしではないものにならないで、わたしはわたしに踏み留まって、静かにきえていって、かまわない。

佛に成ら《ない》ことができるという潜勢力をそのまま生きるもの。
佛に成ることができるという潜勢力を持ちながら、佛に成ら《ない》もの。
佛に成ら《ない》ことができるという潜勢力を持ちながら、佛に成ら《ない》もの。

待つことの意味を知るもの。

佛に成るのは、待てる問題だ。このわたしの差し迫った急務は別のところにある

(どこに、このわたしの課題はあるのか?…について、固定した一つの正解はない。そのつどそのつど、ケースバイケース、ひとぞれぞれの解が無数にある。つまり、あんたは王さま、あんたは、王位を棄てて、自分の王国から出ろ、と呼び出されているけれども、具体的に、どこに、というのは、正解はない。ただ、出なさい。目的地が決まっていない旅。つまり、あなたの人生。呼び出しは、呼び出しそれ自体を呼び出す。)

『深く信ぜよ……定んで往生を得と。』 『さだめて往生することを得と信知して…』 『決定往生すべき身なりと信じて…』(法然上人)

で、それ、ほとんど生得的に、先験的に賜ってますよね。じゃなきゃ、生きていかれていない。疑いあることなし。なぜなら、アホで、有限で、無知なわたしたちが、生きているというのは、いつか必ず分かるからですよね。それがなければ、やけおこしてるはずで、暴れてるはずですからね(^^;;;;

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