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2015年12月15日 (火)

無意味な区分けから一歩踏み出す

真宗大谷派 解放運動推進本部女性室発行 女性室広報誌『メンズあいあう』第9号(2015年10月10日発行)
安冨 歩先生(東京大学東洋文化研究所教授)寄稿より


さて、人々が、自分の役割を、性別や年齢や出身や学歴によって固定されたものだ、と思い込んでいる社会を想像してください。こういった人々が「果たしてこの役割には意味があるのか?」「意味のあることとは何か?」という問いを発することがあるでしょうか。自分は性別が男/女で、年齢が何歳で、親の職業が何々で、学歴が○○であるから、この役割を果たすのは当然だ、と考えている人は、決してそんなことを考えません。目の前の役割を果たすことで、自分の立場を守ることに必死であり、余計なことを考えている余裕などないからです。

最近、他者(ひと)と向き合って仕事を勤めなければならない方々の差別発言が目に付きます。
「同性愛者は異常動物だ」など。
なぜそんな発言をするのだろう?と考えたのですが、同性愛ということが、自分の中で理解ができない、認められないのでしょうね。
それならば、「私は、理解できません。分かりません。異性が好きです」と言えばいいのに、どうして自分の狭い狭い了見から外れる人を攻める言葉で、自分の思いを語るのでしょう。

自分には理解できない、ということと、
自分の方が優位にある、自分こそ正しいという思い上がりがあるのでしょうね。

そんなことを考えているときに、安冨先生の寄稿を読ませていただき、「あぁ、そういうことなんですね」と感じました。
戦後の経済成長を支えるには、男性・女性の役割分担は意味を持っていたけれど、
成長も望むべくもなく、コンピューターの普及・アジアの台頭・高齢化が進む現代において、先の男性・女性の役割分担は、もはや機能しないわけです。
でも、にもかかわらず、昔のシステムを良しとし(というか、時代の流れを感じていないでしょうね)、思い込みを持ち続ける人々がまだたくさんいます。そうすると、なにも問うことはないし、疑問を持つこともない。ただ、自分の意志に合わないものを排除するだけです。差別的な考え方・発言が目立つ現代社会の理由が垣間見えた気がします。

安冨先生は力強く訴えています。


今こそ私たちは、思い込みを打破して、日常の隅々に至るまで、「本当にこれは意味があるのか」という問いを発さないといけないのです。

 

東本願寺 女性室のページ」から、無償配布発行物の「あいあい」「メンズあいあい」をお読みいただけます。
安冨先生の寄稿(「メンズあいあう」第9号)もぜひお読みください。

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コメント

こんにちは。

ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナー、アントニー・D. スミスといった学者たちが、なぜ、ひとは、お国の為に死ねる、というまでの、愛着を持つことがあるのか、について、著作を出しているようです。

無宗教で、世俗化された近代にあっては、中世には宗教の機能であったものを、国家が代理しているという要素があるのではなかろうか?という問いを提出しているようです。

「くに」というものが、人の根拠、立脚地となるところの、理想になることがある、ということでしょう。中世であれば、殉教する人がいたのと同様に、無宗教で、世俗化された近代にあっては、お国の為に死ぬ、というひとは有り得るという。

近代に、宗教はいらないのだ、と、ひとは、宗教を捨てたつもりになっても、ひとに、根拠や立脚地がなくていいということにはならないので、棄てたつもりだった宗教が、回帰してくるのだと、考えられます。回帰してきたときに、語弊はありますが、似非宗教になってしまっている可能性も考えられるでしょう。

根拠、立脚地というのは、元来は、すがたかたちなく(つまり、ない)、おわします(つまり、ある)、具体的なあれやこれやではなくて、そうではなくて、私たちにとっての、わたしたちが生きている現実のすべて…ではないもの、すべてではないもの、であったのが、世俗化された近代にあっては、実体として実在しているものにわたしたちはすがりついているのかもしれないからです。

そうすると、たとえば、あくまでも、一例ですが、

たとえば、選択的夫婦別姓、一方で、誰も何も、必ず別姓にしなければならないと強制しようと言っているわけでなし、自分たちが夫婦同姓を選ぶなら、それで良いので、誰も文句を言わないのであって、夫婦別姓にしたい他人に何も文句を言う必要はないではないか、もっと言えば、選択肢が増えるだけなのに、他人に文句を言う人がなぜいるのかが、さっぱりわからない…という人がいるわけです。更に言ってしまえば、自分にとって、これほど自明なことがわからないあいつらとは、話しても無駄だ、残るのはパワーポリティックスしかない…と。

ところが、ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナー、アントニー・D. スミスといった人々の議論を、「くに」、ではないうて、婚姻に援用すれば、もしかすると、一方で、婚姻ということを、無宗教で、世俗化された近代にあっては、一種、宗教の代理物にしているひとびともいるかもしれないということも、想像することもできます。

で、あるならば、根拠、立脚地なのですから、夫婦同姓であれ!というのは、無私無欲、透明で、純粋なもの、からの勅命だ、贈り物だ、純粋贈与なんだ、ということなんですね。そうでないと、根拠、立脚地にはなっていないですから。

すなわち、(強制的)夫婦同姓制度というは、こちら側の選択ではないのだ、人間の側の選択ではない、そうではなくて、選択は向こう側から為されているのだと、わたしたちは選ばれた民だ…と、そういう人々には経験されているのだということになります。

つまり、そこに、計算はないのだ、損得勘定はないのだ、わたしたち、人間の側が、損得勘定で選択していない、そうではなくて、丸儲けなのだ、人間の側に夫婦同姓でないことを選択する人権などはなく、そのような人権は破戒に過ぎないのだ…というように、もちろん、無意識でしょうが、宗教の代わりなのであれば、そのように経験されていることになります。

で、あれば、そういう人々にとっては、選択的夫婦別姓、とは、選択するという選択、メタ選択の強要となり、そういう人々を根拠、立脚地から、根こそぎにしてしまうところの暴力と経験されることになります。

ですから、そうなのであれば、選択肢が増えるだけなのに、反対する人々はまったく理解できない、自分にとって、これほど自明なことがわからないあいつらとは、話しても無駄だ…のように、もしも、わたしたちが、思ってしまうとするならば、実は、私たちの想像力が不足しているのかもしれないわけです。

自分の自明が他人の自明ではないかもしれないわけです。選択肢が増えることは、自明に良いことだと、無反省に決めつけているそうしたわたしたちであるかもしれないわけなのですね。

フランスでムスリマがヒジャーブをつけているのは、フランスの理念に対する反抗の表現である、という、現在フランスで起きていることと同型の事態が、実は、日本でも起きているのかもしれないのです。フランスでは、お父さんやお兄さん、旦那さんから、つまり、男性から強要されたのではなく、女性自身が、自分の自由な選択で、ヒジャーブを付けると決めた場合に限り、その場合には、腹立たしいが、フランスの理念に反抗する表現として、表現の自由はあるのだから、赦すが、家父長制に抑圧された、ま、いわば、文化程度が低い(とフランス人が、無意識に、思っている)女性は教育すれば、自由は良いよ、選択するのは良いことですと、上から目線で啓蒙すれば、蒙を啓けば、ヒジャーブを脱ぎ捨てるはずだという、猥雑さ、が、あるわけですね。

選択肢が増えるのは、自明に良いことである、と。

しかし、もしも、女性が、自らの自由な選択で、ヒジャーブをつけたままにしていた場合、もはや、ヒジャーブは、ムスリマとしてのアイデンティティーではなくなってしまっています。根拠、立脚地を暴力的に奪われてしまっているわけで、破戒であり、もはや、宗教は、完全に破壊し尽くされてしまっています。

元来、根拠、立脚地は、人間の側の選択ではないから、根拠、立脚地なわけです。贈り物だから、選択が向こう側から、計算なく、交換ではなく、無私無欲の透明で純粋なものから、賜っているからこそ、根拠、立脚地であるのであって、人間の側が選択したなら、もはや、根拠、立脚地は奪われてしまっているわけで、宗教は、そこでは、もう既に、完全に破壊し尽くされてしまっています。

実は、選択をするという選択を強制してしまっている。

しかし、それが、御信心ならば、如来より賜りたる信心であれば、人間の側に信教の自由、すなわち、信じないでいることもできる自由はないわけです。そのような、ひとの選択などという偶然に左右される要素の入る余地がありません。そうではなくて、それは、必然であり、人間に信じない自由、人権などないからこそ、立脚地、根拠なわけです。

わたしがヒジャーブをつけているのは、お母さんがつけていたからであり、お母さんがつけていたのは、おばあさんがつけていたからであり……と、系譜が、イスラームの歴史を遡れる。そこに誇りやアイデンティティがある。

わたしがヒジャーブをつけているのは、お母さんがつけていたからであり、お母さんがつけていたのは、おばあさんがつけていたからであり…、他に何の理由もない、何の理由も他に要らない。

なぜなら、理由の理由はないから。根拠の根拠はないから。立脚地の立脚地はないからです。

人間が自由に選択したなら、それは、根拠、立脚地では、ありません。

ですから、たとえば、強制的夫婦同姓制度が、立脚地になっているひとがいたとするならば、その人にとっては、選択的夫婦別姓は、聖なるものを汚すことなんですね。

強制的夫婦同姓制度は、得するひとと、損するひとがいるじゃないか、と、言ってることになりますからね。計算がある、はからいがある、だから、贈り物じゃない、純粋に無私無欲のものから、賜るんじゃない、と、言っていることになりますから。

すると、それ、もしかすると、ひとから、その、根拠、立脚地を奪う暴力なのかもしれないんですよね。

ことほどさように、わたしたちが、はあ?こいつらアホか?当たり前じゃないか! 自明とおもったときこそ、あやうい。

☆筆硯独語さん こんにちは
いつもコメントありがとうございます。
ブログ本文以上に、伝えたい感万歳のコメントをありがとうございます。
読んでいて、頭がこんがらがってしまいました^^
たかだか自分の頭で分かった(つもりになっている)ことを、すべてだと、正しいと思い込んでいるから、自明と思った瞬間、本当は分かっていないループに陥ってしまいますね(汗)

あらためて味わわせていただきます。

わたしたちは、選択肢が増えるんだから、自明にいいことじゃないか!と思うわけですね。

なぜ、あたかも、自分のアイデンティティーが攻撃を受けたかのように、反応するひとびとがいるのかを、わたしたちは、理解できない。

理解できないから排除する。

語弊はありますが、自分にとってこれほど自明なことがわからないあいつらとは、話にならんと、思ってしまう。

どうして、それがアイデンティティクライシスになるんだろうか?ということを考えない。

しかし、夫婦別姓を、人間の側が選択する、えと、選択が向こう側から為されているんじゃない、えと、無私無欲、計算なしじゃなくて、非選択的夫婦同姓というのは、実は、猥雑であって、聖なるものではなく、そうではなくて、非選択的夫婦同姓だと、損するひと(ま、一般には女性)と、得する人(一般には男性)が、いる、ってことが、暴露されると、夫婦同姓というのは、純粋な、無私無欲なもの、向こう側から賜ったもの、贈り物だ、という、ことが、アイデンティティの基盤になっているひとにとっては、自分の立脚地、根拠を奪われる経験になりますわね…。

つまり、宗教の代わりになってる。

そういうこと、ありえるわけです。

だとすると、そこまで考えたら、選択的夫婦別姓、というのは、選択するという選択の強制、ひとから根拠・立脚地を奪う暴力なのかもしれないな…となるわけで、で、あれば、話してもしかたないではなくて、時間をかけて丁寧に会話を続けよう…になるわけなんですね。

ちなみに、選択的夫婦別姓は、異性愛の夫婦だけが、現在、税制などで優遇されているところに、さらに、いま、すでに優遇されているものに、プラスで、さらに優遇が与えられるという話だ、という風に、もっとひろく考えることも、実は、可能。

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