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2015年12月 1日 (火)

2015年12月のことば

2015年も12月を迎えました。
戦争に向かわないために、微力ながら抗ってきたつもりですが、世の中は、世界はきな臭い方向に進んでいます。いえ、もはや きな臭いどころか、戦火が上がってしまっています。
多くの人間が争いのない世の中を望んでいると思うのですが、ヒトは、欲望(経済)がからむと、戦争をも求めてしまうのですね。自分を正義に立てて物申すのではなく、人間もヒトも含めて「ただの人」と思わずに接していきたい。そう思う2015年の暮れです。

   

2015年12月のことば
目の前の方を ただの人と思うなよ
高橋 卯平

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「凡夫」というは、
今年は、暴力に始まり暴力に終わるように思われる一年でした。暴力による犠牲になられたすべての方々に、哀悼の意を捧げます。
親鸞聖人のことばが思い起こされます。

「凡夫(ぼんぶ)」というは、無明煩悩われらがみ(身)にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと…
(「一念多念文意」)

迷い悩みに充ち満ちて、欲望も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみの心が尽きる暇もなく、いのち終えるそのときまで止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない。それが、「凡夫」の姿です。

「憎」という漢字を見ていると、「凡夫」を表しているように見えてきます。「憎」は、「心」を重ねると書きます
(「曽」は、火のついた窯に蒸し器を乗せ、その蒸し器から蒸気が立っている様子を象っています)。
「心」を重ねて「憎」と成る。美しい色でも、何色も重ねていると黒色になります。美しいつもりの心も、想いを重ねているうちに、憎悪へと変質してしまいます。
「凡夫」とは、「憎」で表される心の持ち主とは、特定の誰かではありません。わたしの姿です。自分のことは自分が一番 よく分かっていると言いますが、実は、自分自身が一番よく分かっていないものです。でも、そんな「凡夫(わたし)」だから  こそ、阿弥陀如来のはたらきは「摂取不捨」、全てのいのちを摂(おさ)め取り、捨てることがありません。

なにを争っている?
テロのこと、原発のこと、安保法のこと、沖縄の基地のこと等々・・・地球上でさまざまな事件・課題・問題が起きていて、それらについて多種多様な意見・思想・想い・関心の程度がある。賛成する人と反対する人がいれば、意見が対立しているわけだから衝突することもある。それは当然のことと思っていたけれど、最近、ちょっと待てよ!?という想いが湧いています。
物事には賛成派もいるし、反対派もいます。万人が同じ物・事柄・人を支持することなどありえません。しかし、根っこは同じ、つながっていると思います。平和でありたい、平穏でありたい、争いは良くない、せっかく生まれてきたのだから喜びをもって生きたい、と。そのための方法や手段や思想が、多種多様な形で表出しているだけなのに、争いを生み出している。しかも、外野どうしが争い、当事者が置き去りとなり、結果当事者が一番被害を受けている。そんな現実を見ていて、何を争っているのだろう? どうして争っているのだろう? という気持ちに満ちています。
平和を望みながら、傷つけ合い殺し合う。おかしいじゃないですか! ばかばかしいじゃないですか! どうして傷つけ合う必要のないいのちどうしが、ことばという刃・武器という殺人兵器・権力という暴力で意見の違う相手を従わせようとしているのですか! その結果何が生まれるのですか? 平和なんて生まれません。平穏なんて訪れません。傷つけ合うことによって生まれたものは、傷を背負っています。癒えることのない傷を。その傷に向き合って生きるのならまだしも、なかったこととしようとするなんて!

賛成と反対、善と悪、敵と味方・・・二項対立で物事を見ることに慣れてしまっています。わたしのいのちも、目の前のいのちも、同じいのち。わたしの奥底に流れる想い(願い)は、誰もが根っこは同じ。それなのに、表出する形が違うだけで、いがみ合い、傷つけ殺し合う。人間の抱える闇が、今、痛く悲しい。
わたしの目は、目の前のいのちを敵として見るためのものではありません。わたし自身を見つめるためのものです。しかし、わたしがわたしを見つめたって、自己肯定でしか見えません。「凡夫」なわたし、「憎」なわたしが見えるのは、如来から賜った眼のおかげです。南無阿弥陀仏

阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏を称える人の前にいます
今月のことばは、高橋卯平さんのことばです。北海道の農家の方で、お念仏を大切に生きられた方とお聞きしています。
「目の前にいる方は、あなたに念仏の教えを届けるために 阿弥陀さまが姿を変えて表われた方だから、大切になさい」という両親の教えを胸に、念仏の生涯を歩まれました。
出会ったことのない高橋卯平さんやそのご両親からも、教えを、如来の眼をいただける。根っこでみんなつながっているからです。

できないことをする!
憎い相手に対し、「話が通じる相手ではない」と言う人もいますが、それならば暴力が許されるのですか? 話が通じないかもしれない、分かり合うことは無理かもしれない。それでもなお、暴力はいけない、分かり合いたいと願うことをやめてはいけない。
軽薄な理想主義と笑われようとも、できないことだからと投げ出したくない。阿弥陀如来は「生きとし生けるものすべてをすくいたい」という無理とも思える願いを抱えながら、それでも願いを尽くして成就されました。その御手の中に生きるわたしも、無理とも思える願いを抱えながら生きる時代(とき)なのだから。

   

掲示板の人形
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お寺の掲示板なのにクリスマス風かよ!と突っ込まれるかもしれませんが、お寺の前を通る子どもたちが、毎月の人形を楽しみにしているので。
左のカラフルなクマさんはハウステンボスで、サンタと雪だるまの人形はどこか?で、坊守が買ってきました(はじめは、私が人形を買って置き始めたのですが、最近は坊守が人形を買うことを楽しみにしています。人形を見ることを楽しみにしてくれる人がいるからですね)。
右のクマさんは、親しくしていただいている存明寺さまからいただきました。ありがとうございます。赤と緑のリボンがクリスマス風です。

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