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2015年12月

2015年12月31日 (木)

2015年暮れ

2015年12月31日(木)
今年も終わろうとしています
2015年 ひどい年になってしまいました
新しい年 すべての人々のいのちが踏みにじられませんように 抗って参ります

本年もお世話になりました ありがとうございます
新しい年もお世話になります よろしくお願いいたします

(追伸)
郵便配達に携わる皆様
マイナンバーなる暴挙の配達をせざるを得ないうえに
年賀状の仕分け・配達もお忙しいことと思います
いつもありがとうございます

2015年12月30日 (水)

I LOVE あきた

妻の帰省にお供し、秋田県へ。
秋田にいる間に、時間を作って行く所があります。
学生のときにお世話になった先生のお墓参りです。

大学を卒業した後、数年後、先生が倒れられたと伝え聞きしました。しかし、先生に直接連絡をとれるはずはなく、たまに入ってくる情報を待つしかありませんでした。

さらに数年後、先生はお浄土に還られました。当時、自坊の本堂で手を合わせることしかできませんでした。

先生のお寺は秋田県。
妻と一緒に秋田に帰った際、妻の両親に尋ねました。「○○寺さんてご存知ですか?」
「あぁ、駅向こうの寺町の中にあるよ」と。とても近くにありました。
車で連れていっていただき、先生のお骨に手を合わせ、先生の奥さまとお話することができました。
以来、秋田に行った際は、お参りをさせていただいています。今回も、お念仏のご縁をいただきました。南無阿弥陀仏

先生を通して、いろいろなご縁がありました。人の想いを超えた出遇いがあり、驚きの連続です。人と人って、つながってるんだなぁということを感じます。
秋田の寒さにも、温もりを感じます。

ひとり帰京し、お寺での年末年始を迎えます。
今年一年、お世話になりました
来年も、お世話になります
ありがとう

2015年12月27日 (日)

何故ことばを失ったのか

『週刊金曜日』12月18日号 1068号に野坂昭如さんの遺稿が掲載されています。連載「俺の舟唄」22
12月9日にお亡くなりになる2日前、12月7日に編集に入稿されたものです。

かつて枯れ葉は焚火の主な材料だった。道端で焚火する光景は冬の風物詩、冬の季語でもある。今は焚火などやった日にゃ、恐がられるんじゃないか。(中略)今の子どもたちは、はたして童謡の『たき火』という歌を知っているだろうか。

出身地の訛りはいいものだ。耳に心地良い言葉とその抑揚に出会った時など、ふと、ではぼく自身の拠って立つ言葉は何なのか、子どもの頃から漠然と考えてはいた。

日本はあんなに豊かだった言葉遣いが、どんどん貧しくなっていく。美しかった言葉は今やまったくといっていいほどなくなってしまった。今、この国の体裁は整ったように見えるかもしれないが、しかし言葉は失ってしまった。そうか戦後は「黙」なのだ。

ことばを大切にされて生きられた方の、最後のメッセージだなぁと感じました。
当ブログ前回の投稿で、「一言一句を粗末にせず」ということを書きました。
季節を感じて生まれることば、お国訛り・・・ことばは、環境から生まれてきます。
豊かで美しいことばが失われている現代日本。その環境は、いかなるものでしょう。
「美しい国」などと標榜する人から、ことばも、体温も、季節の移ろいを感じるのと同様に他者(ひと)の気持ちを察する気持ちも失われています。

もちろん、他を責めるだけでなく、自身を見つめることばとして突き刺さっています。
野坂昭如さん、ありがとうございます。
たとえ個人のいのちは滅しても、ことばは、想いは死なない。

2015年12月21日 (月)

一言一句粗末にせず

「東京新聞」には、NHK朝の連続テレビ小説の主人公(あるいは出演者)が、毎週土曜日に、次週の内容にからんだメッセージを書かれています。毎週大変なご苦労だろうなぁと感じています。

2016年12月19日のその欄に、「あさが来た」 次週登場する福沢諭吉さん、というか、武田鉄矢さん(福沢諭吉役)のことが書いてあります。
「どんなに長い説明ゼリフでも一言一句を粗末になさらず、人の心にちゃんと届ける。
と、主人公あさ役の波瑠さんが書かれています。

一言一句を粗末にせず・・・
私が外で法話をさせていただいた内容を、担当の方々がテープ起こしをし、校正をされた原稿があります。
「先生のチェックをお願い致します」と。
テープ起こしをするだけでも大変な労力です。さらに、何人もの方が読み返してくださり、校正作業をされている。原稿をいただいて目にしたとき、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

感想・・・話し方が丁寧ではないなぁと。
話が散漫であったり、接頭語がおかしかったり、言いたいことがうまく表現できてなかったり。
(注・テープ起こしが間違っているということではありません。キチンと起してくださっているからこそ、私の話し方の問題点が浮き彫りになっています。びっくりぽん!!です)

確認作業を終えて、ちょうど波瑠さんのメッセージが目に留まったもので、
「自分は一言一句粗末にせずに生きているだろうか(いや、できてない)。ことばを大切にしているだろうか」
と、自問自答しました。
たしかに、武田鉄矢さんの語りは、お芝居にしろ、バラエティで語るときにしろ、一言一句重く伝わってきます。聞く者を惹きつける力があります(惹きつけるために一言一句大切にするというのではなく、一語一句大切にしていると、人は聞く耳を持ってくれるのでしょうね)。

一言一句に 想いを込めて 南無阿弥陀仏

2015年12月18日 (金)

わたしが為すのではなく、為すところにわたしがいる

道に迷ったときは、基本(根本)に返るべし。
ニーズを感じ取る、ニーズに応えることも大切ですが、何をするために私はこの道を歩んでいるのか、根っこの部分を忘れてはいけない。逆の言い方をすれば、根っこがシッカリしていれば、どのような形でニーズに応えようとも、ぶれることはない。
言うは易し、ですが。

16~17日、某研修会に参加し、思ったことのひとつ。つぶやきです。

2015年12月16日 (水)

解釈の違い

「女性は、入浴時間が男性と比べて長い」と聞いて、何を思われるだろう?
 女性はお風呂が好きなんでしょう
 男性は烏の行水が多いから
 女性は丁寧に体を洗うからでしょう そんなところでしょうか

このように思った方はいるだろうか?
「女性は、入浴時間が長くなるほど汚れているのか!」と。

(参考)

東京新聞 朝刊コラム「筆洗」 2015年12月7日より
哲学者の土屋賢二さんが女性の入浴時間について、書いている。「(女性は)男性の数倍の時間をかけて入念に洗うのが普通である」。そういう現象はあるだろう。こう続く。「女はそこまで汚いのか、と思う」。読んで、噴き出す。そんな解釈もあるのか

 
女性の方が入浴時間が長いと聞かされたとき、より汚れているからなどとは、あまり思わないのではないか。でも、思いは人それぞれ。いろいろな想い・解釈があることは当然。それにしても、「そんな解釈する!?」と驚くこともある。

今日、ひとつの文章に対して、妻と意見が割れた。喧嘩にはならなかったけれど、お互い相手の言っていることが飲み込めない。あぁ、こうも解釈が違うものかと思ったものです。
あらためて、解釈って人によってちがうものだなぁと思った。で、先のコラムを思い出しました。
「そこまで汚いのか、と思う」なんて思うかな? と、笑いながら読んでいたけれど、自分の解釈もおかしかったかもしれない。他人事(ひとごと)ではない。

噴き出して、笑い話ですむ内容ならいいけれど、
現代(いま)の日本、もはや笑い話で済まないことが、「解釈」の違いでまかり通ってしまっている。恐ろしい・・・

2015年12月15日 (火)

無意味な区分けから一歩踏み出す

真宗大谷派 解放運動推進本部女性室発行 女性室広報誌『メンズあいあう』第9号(2015年10月10日発行)
安冨 歩先生(東京大学東洋文化研究所教授)寄稿より


さて、人々が、自分の役割を、性別や年齢や出身や学歴によって固定されたものだ、と思い込んでいる社会を想像してください。こういった人々が「果たしてこの役割には意味があるのか?」「意味のあることとは何か?」という問いを発することがあるでしょうか。自分は性別が男/女で、年齢が何歳で、親の職業が何々で、学歴が○○であるから、この役割を果たすのは当然だ、と考えている人は、決してそんなことを考えません。目の前の役割を果たすことで、自分の立場を守ることに必死であり、余計なことを考えている余裕などないからです。

最近、他者(ひと)と向き合って仕事を勤めなければならない方々の差別発言が目に付きます。
「同性愛者は異常動物だ」など。
なぜそんな発言をするのだろう?と考えたのですが、同性愛ということが、自分の中で理解ができない、認められないのでしょうね。
それならば、「私は、理解できません。分かりません。異性が好きです」と言えばいいのに、どうして自分の狭い狭い了見から外れる人を攻める言葉で、自分の思いを語るのでしょう。

自分には理解できない、ということと、
自分の方が優位にある、自分こそ正しいという思い上がりがあるのでしょうね。

そんなことを考えているときに、安冨先生の寄稿を読ませていただき、「あぁ、そういうことなんですね」と感じました。
戦後の経済成長を支えるには、男性・女性の役割分担は意味を持っていたけれど、
成長も望むべくもなく、コンピューターの普及・アジアの台頭・高齢化が進む現代において、先の男性・女性の役割分担は、もはや機能しないわけです。
でも、にもかかわらず、昔のシステムを良しとし(というか、時代の流れを感じていないでしょうね)、思い込みを持ち続ける人々がまだたくさんいます。そうすると、なにも問うことはないし、疑問を持つこともない。ただ、自分の意志に合わないものを排除するだけです。差別的な考え方・発言が目立つ現代社会の理由が垣間見えた気がします。

安冨先生は力強く訴えています。


今こそ私たちは、思い込みを打破して、日常の隅々に至るまで、「本当にこれは意味があるのか」という問いを発さないといけないのです。

 

東本願寺 女性室のページ」から、無償配布発行物の「あいあい」「メンズあいあい」をお読みいただけます。
安冨先生の寄稿(「メンズあいあう」第9号)もぜひお読みください。

2015年12月13日 (日)

九転十起(きゅうてんじゅっき)

朝の連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデルとなった広岡浅子さん。
大同生命の創業者の一人で、日本女子大学の設立に尽力されました。
そんな彼女の座右の銘は「九転十起

「七転び八起き」なら知っている方もいらっしゃると思いますが、「九転十起」は聞かないですね(彼女の造語でしょうか?)。
「七転び八起き」よりも、転ぶも起きるもふたつ多い。人がする努力よりも、さらに努力を重ねるということの表われです。

さて、「七転び八起き」も、「九転十起」も、起きる方がひとつ多いです。
転ぶから起き上がれるわけだから、転ぶも起きるも同じか数でないとおかしくない?と思いませんか?
それは、最初から転んでいることを表しているからだそうです。
始めに転んでいるわけだから、起きる方がひとつ多い。
頑張って、すっ転んで、「あぁ、失敗した!」「あぁ、ダメだ!」「もう嫌だ!」「こんなに頑張っているのに」と挫折しなくていいんです。始めから転んでいるわけですから。転んだところから、既に起き上がり、わたしがあるわけです。
安心してください。初めての挫折ではありませんから。

2015年12月12日 (土)

分からないところで・・・生きる

野坂昭如さんが、空襲と妹を餓死させた少年時代の体験を基に書いた小説『火垂(ほた)るの墓』。この名作の抜粋を読み、作者の心境を記せ-。野坂さんの娘さんが、学校でそんな課題を出されたことがあったという▼当然ながら娘さんは、父に「正解」を尋ねた。答えは、「あれはまあ、締め切りに追われて、後先なく、書いたんだけどね、特に心境といわれても」。さすがに、奥さんに「もう少し何とかいいようがあるでしょ」と怒られたそうだ▼野坂さんに言わせると、かの名作は「徹頭徹尾自己弁護の小説」なのだという。小説の「兄」は飢えて死にゆく妹のため、自分の指を切って血を飲ませるか肉を食べさせようかとまで考える。しかし、現実の自分は、かみ砕いて妹に与えるつもりの食べ物を、ついのみ込んでしまっていた▼そうして妹が死に、その体を抱き運んだときの思いなど、自分でもとらえがたい。そういう思いは、他人に百分の一も伝えられず、言葉にしたとたん、自己弁護や美化がまじってしまうもの。他人に思いを伝えるというのは、そういう厳しい営みなのだと(『忘れてはイケナイ物語り』光文社)▼野坂さんは『火垂るの墓』を読み返さず、映画化されヒットしても、悲しくなるからと、終わりまで見ることができなかったという▼八十五歳で逝った作家が言葉にし尽くせなかった「思い」を、思う。
(「東京新聞」朝刊 2015年12月11日 「筆洗」より)


「作者の心境を記せ」・・・国語の問題でよく出るけれど、作者の心境どころか、他者(ひと)の心境など分かるはずもない。自分の思いだって、「自分でもとらえがたい」のに。
さだまさしさんだったと思うけど、自分の詞(うた)が国語の問題になり、自分で解いてみたら40数点だった!!と仰っていたのを思い出しました。
「国語って、理不尽な問題を出すなぁ」と、中学・高校の頃はぼやいていたものです。

「わたしはあなたの気持ちを分かっているから」
目の前の方の心境を、分かったつもりになることの恐ろしさ。
「自己弁護や美化がまじってしまうもの」

「思い」をむりやり言葉にしなくても、
言葉にし尽くせない「思い」を抱えて生きるのもいいんじゃないかな。
自分のこころに、目の前の方に向き合っていれば

2015年12月9日 野坂昭如さん往く

(追記)
上記「作者の心境どころか、他者(ひと)の心境など分かるはずもない。」と断定してしまっているのは、私自身の生き方の表われなのかな・・・と思った深夜 私ひとり

2015年12月11日 (金)

何事にも先人がいる

いろいろなことに疑問を持ち、
さまざまな悩みを持つ方と酒を酌み交わす。

呑んでいるときも
「この原材料は何だろう?」
「あれ(お店の壁に貼ってあるポスターを見て)、何だろう?」
「テレビでこんなこと言ってたんだけど、どう思う?」
と、いろいろなことに興味・関心を持っている。

あまり物事に疑問を感じない私としては(「そういうものなのだろう」と、あっさり流してしまう)、
物事の受け止めに感心してしまう。

私としては、初めて聞くような関心・興味・疑問・悩みでも、
その方は言う。

「こんな疑問、誰も思わないと思うでしょ? でもね、ネットで検索すると、既に誰かが同じこと悩んだり、考えたりしてるんだよ。自分でもビックリする。自分が悩みの第一発見者とか、自分だけの悩みって、無いものなんだねぇ」

「へぇ~」と、私は感心。

悩み事は、
同じ悩みを抱えている人がいる。
自分だけではない。
何事にも、先に歩んでいる先人はいる。
その方が歩いた跡が道となり、わたしはその道を歩んでいる。

わたしに先だって悩みを抱えた人がいるのなら、
わたしに先だって悩みを抱えながらも生き尽くした人がいるということ。
(悩みの解決方法を見つけた人がいる、というわけではなくて)


お店を出て、「じゃっ」って、その方は颯爽と帰っていった。

じゃっ

2015年12月10日 (木)

親鸞聖人の教えを伝えていくことに粉骨砕身いたしましょう

12月に入り、両目を患いました。
もうほとんど治ったのですが、世の中が曇って見えます。自分が腹黒く見えます。
あっ、ちゃんと見えてるじゃん!


こんなニュースが・・・
「お東紛争46年、法的手段尽きる 真宗大谷派」(京都新聞)
私も、ことの経緯は説明できるほど詳しくはないのですが。
真宗大谷派の歴史の1頁(1側面)です。
「声明(せいめい)」が出たときだけ紹介するのではなく、こういうことも明らかにしておかないと。
「京都新聞」のページですが・・・(「真宗大谷派」のページでは、「こういうことがありました」旨、書かれてないなぁ)。


阿弥陀の浄土へ
 歩む道はまだ
  娑婆世界

(追記)
2015年12月15日
宗務総長のコメントが発表されました。
「寄附行為変更無効確認等請求上告事件」判決・「一般財団法人認可取消請求上告事件」決定に対する宗務総長コメントを発表

2015年12月 8日 (火)

起きながら寝ているわたしたちのために

1941年12月8日
日本軍がハワイ真珠湾にて攻撃を行い太平洋戦争が開戦した日

「リメンバー パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」は、攻撃を仕掛けられたアメリカ側のことばだけど、
今思えば、日本人も(こそ)真珠湾を(先の大戦を)忘れてはいけない。

「戦後70年」ということばをよく耳にしました。私も使いました。
戦争が終わって(と言われて)70年も経つと、自分たちがしてきたことや戦中・戦後に味わったつらさを忘れてしまうのですね。自分がされたことは、覚えているのだけれど(真実か嘘かは別にして)。

リメンバー パールハーバー
戦争が起こるとはどういうことなのか、何が起こるのか。忘れてはいけないし、想像力をフル稼働しなければいけない。

真珠湾攻撃のように、戦争には、宣戦布告という、いわゆる「スタート」がハッキリしているものだったのだけど、現代は違うようです。つらいのですが、私は、すでに第3次世界大戦が始まっていると感じています。

1980年12月8日
ジョンレノンの命日

オノヨーコさんが、かつてニューヨークタイムズの新聞に広告を出されました。
一面なにもなく、ただ、「イマジン」の歌詞が一行書かれているだけでした。

Imagine all the people living life in peace.
(想像してみよう、生きとし生けるもの すべての人が平和に生きている姿を)

ジョンレノンとオノヨーコさんの「イマジン」に、彼女はどのような想いを込めたのだろう。
この一文に、すべてが込められているのですね。
あとは、私たちが想像してみないと

何年だ? 12月8日
お釈迦さまがさとりをひらかれた日(と言われています)
12月8日頃、「成道会(じょうどうえ)」と言われる法要が営まれます。

さとりをひらく・・・真実に目覚める

起きながら 夢を見ている(自分の欲望追求の夢を) わたしは 起きているのに 目が覚めていない

夢を見ていたことに 目覚めた仏陀は 起きながらにして寝ていた自分に気づいた(目覚めた)

リメンバー
イマジン
ブッダ

忘れるな
想像してみよう
目を覚ます

お釈迦さまのさとりの内容は、「中道(ちゅうどう)」といいます。
苦しい修行を重ねても、逆に、世俗にどっぷり漬かっても、目覚めるということはない
琴の弦は、きつく締めすぎると切れてしまうし、ゆるめてしまっても音が出ない。丁度いい締め加減があるものです。
右とか左とか言うけれど、寄りすぎてしまうと、相手が悪く見えてしまうだけ、対立を深めてしまうだけ。そこからは何も生まれません。
「中道」・・・ちょうどいい加減に、目覚めたい

2015年12月 7日 (月)

憎むは人の業にあらず

西蓮寺掲示板のことば 12月の文章は、
フランス パリでのテロで、奥様を亡くされた男性 アントワーヌ・レイリスさんのメッセージを胸に留め、書きました。
アントワーヌ・レイリスさんはFacebookに「あなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりはしません」と綴りました。

あなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。

13日の夜、あなたたちは特別な人の命を奪いました ―― 私が生涯をかけて愛する人であり、私の息子の母親です。 しかしあなたたちは私に憎しみを抱かせることはできません。私はあなたたちが何者かを知らないし、知りたいとも思いません。あなたたちは魂を失った人間です。殺人をもいとわないほどにあなたたちが敬っている神が自分の姿に似せて人間を創造したのだとしたら、私の妻の体に打ち込まれた全ての銃弾は、神の心を傷つけたでしょう。

私はあなたたちの願い通りに憎しみを抱いたりはしません。憎悪に怒りで応じれば、今のあなたたちのように無知の犠牲者になるだけです。あなたたちは私が恐れを抱き、同胞に不審な気持ちを持ち、安全に生きるために自由を失うことを望んでいる。あなたたちの負けです。

今朝、私は彼女に会いました。この数日、ずっと待ち望んでいた再会です。金曜日の夜に外出した時と同じように彼女は美しかった。12年前に私を夢中にさせた時と同じように美しかった。もちろん私は痛みに打ちのめされています。その点については、あなたたちは少しは勝利をおさめたのかもしれない。しかし痛みは長くは続きません。彼女はこれからも私たちと共に生き続けます。そして私達は再び自由に愛しあえる楽園で会えるのです。そこは、あなたたちが入れない場所です。

私と息子は二人きりですが世界中のすべての軍隊よりも強い。これ以上あなたたちのために使う時間はありません。メルヴィルが昼寝から目を覚ましたので、彼のところに行きます。彼は生後17カ月。普段通り食事をし、私と遊び、そして幸せで自由な人生を過ごすことで、あなたたちに勝利するでしょう。彼もあなたたちに憎しみ抱くことはありませんから。

このメッセージに出遇い、2015年1月にいのちを奪われた後藤健二さんが、かつて発信されていたメッセージを思い出しました。

目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。
(後藤健二さん 2010年9月7日の文章)

おふたりのことばの重さを感じながら、吹けば飛ぶような文章しか書けない自分にイライラしています。

2015年12月 6日 (日)

有限の中で、無限を見いだす

2015年12月6日放送「サンデ-モーニング」「風を読む」拝見
世界規模の異常気象によって、豪雨や干ばつ被害が拡大し、農業を営んで暮らしていた方々は、農業をやめ、都市部に移住します。都市部の人口が増え、食糧問題や衛生問題が深刻化します。生活の不平不満が募ってくると、その怒りは政権に向かい、暴動やテロが起こります。
かつての戦争は、石炭・石油などの燃料の奪い合いが目的でした。これからは、水の奪い合いで戦争が起こるでしょう、とも。
政界規模での異常気象は、その被害に苦しむ人々を生み出すだけでなく、争いへと発展してしまうことを教えられました。

一部の地域で起きていることではなく、日本も含めた全世界的問題です。テロ(と位置付けられる事件)が発生すると、「テロは許せない」「テロには屈しない」という側面ばかり目立ってしまいます。しかし、テロや暴動などが起こる背景には、いろいろな要素が複雑に絡み合っています。
自然環境の変化が、生き物の生活に影響を及ぼします。でも、その自然環境の変化は、人間が引き起こしているようなものです。

豪雨や干ばつによって農業が営めない、水が不足している地域に、日本は、海水を淡水に変える技術を持っている。3.11以降、今もなお原発にこだわる日本政府や経済界。しかし、自然エネルギー発生のための技術や蓄電の技術も発展しています。貧しい国や地域に提供できる技術力が、日本にはあります。また、そのような技術力を導入しようとしたり、農業技術を教えたりすることを、「日本が指導してくれるなら」と、相手に信用してもらえるのが日本でした。しかし、欧米諸国と歩調を併せて戦争をしようとする国になってしまった日本は、すでに信用を失ってしまったかもしれません。
「武力がなくて平和が築けるか!」という声も耳にしますが、武力に頼らなくても平和を築くことができる可能性を持った国が日本だったのです。理想主義だと笑われる憲法9条ですが、武力の行使をしない生き方のヒントがあると思います。

忘れてはいけない現実がもうひとつ。
日本の発展の背景には、世界の森林伐採の罪があります。安価な木材で家を建てたり、エビが大好きな日本人は熱帯地域のマングローブ林の環境破壊を進めています。自分たちの幸福・利潤追求の果てに、他国の自然を奪ってきました。また、先鋭的な技術の進歩は、その代償に温暖化に寄与してもきました。
技術力で、困っている国を救えると書きましたが、技術発展・進歩のために、困る事象を生み出しているという矛盾も引き起こしています。

みんなつながっているんだ。あらためて思う。
個人が、「自分さえよければいい」「みんなやってるじゃん」と言うのを聞いたことはあるけれど、
世界規模の事柄でみたとき、「自分さえよければいい」では済まされません。「みんながしているから(環境破壊に汲みしているから)」何をしても許されるのでしょうか?
国に生きる者が、「自分の国さえよければいい」「周りの国もやってるではないですか」と言い出すと、争いが起こる。今、現に起きていると感じています。

2015年12月 5日 (土)

優しさと強さは矛盾しない

昨日は、山田洋次監督のトークから、ことばをご紹介しました。
その山田洋次監督の最新作「母と暮らせば」に出演されている吉永小百合さんが、2015年11月26日放送の「報道ステーション」で、古舘伊知郎さんと対談をされていました。
対談は、吉永さんの希望で、埼玉県東松山市にある「丸木美術館」で撮影されました。
「丸木美術館」にある「原爆の図」を、いつか見に行きたいと思っています。

戦争反対・原爆反対・原発反対
その思いで、朗読活動を続けておられる吉永さん。
しかし、その思いは抱えつつも、3.11の大震災・津波・原発事故が起こるまで、無知であった自分を恥じます。
もっともっと知って、考えて、声を出していかなければいけないのだと。

「せっかく日本に生まれたのに、よく考え、世界に向かって言わなくてはならないことがある」(吉永さん)

「核と人類は、共存できないと思っています」という古館さんに、吉永さんも賛同されます。

映画「母と暮らせば」は、長崎が舞台です。
母(吉永さん)と、原爆によって亡くなった息子(嵐の二宮和也さん)の物語。
亡くなったはずの息子が、たまに母の前に現われ、会話を重ねるファンタジー。
この映画を撮った山田監督には、原爆はダメ、戦争もダメという想いが込められています。

映画を観た古館さんは仰います。
「変な言い方ですけど…一方が死んでから、あぁいう会話ができるのかなぁと思いました。面と向かうと言えなかったり、言い合いになったりしますものね」
吉永さんも「そうですね」と応えます。

個人的な話を挟みますが、数日前、ある先輩僧侶がお浄土に還られました。
私は、直接の関わりはほとんどなく、1度一緒に吞みに行った記憶があるくらいの方なのですが、
多くの方々が、SNS上で、早すぎる死を悲しんでいます。
直接に交流を持ち、その人柄を懐かしみ、別れに涙する人。
SNS上で知り合い、直接会ったことはないのだけれど、1度も会うことが叶わなかったことを後悔する人。
「いつか会いましょうね」ということばを交わしながらも、結局会えずにいた方が多くいらっしゃいます。
今、年賀状を書いている方も多い時期だと思いますが、「今年は会いたいですね」なんて想いを書かれる方もいるのではないでしょうか。
本当に会いたいのなら、会っておきたいのなら、機会は自分で作るもの。会いに行って、話をしましょう。

また、親との会話も、お互いが生きているうちじゃないと、できないんだなぁと思いました。当たり前のことなんですけどね!!
私は、ほとんど口を開くことがないので、そういえば親ともそんなに話してないなぁと、対談を見ながら反省していました。妻は、私の親とも楽しそうに会話を重ねています。傍から見ていて、「どっちが本当の親子なんだろう?」と思うほどです。
対談を聞いていて、「もう少し話そうかなぁ」と思いました。

とはいっても、この世で関わりを持てた人の有難さって、亡くなられてから気付くものなんですよね。
「もっと話しておけば良かった」…その後悔の気持ちは、痛いほど分かります。でも、それに先だって、出会えたことに感謝したいと思います。

対談に戻ります。
吉永さんのお母様は、「戦争はいけないことだし、嫌だけど、戦争をしている当時は、そんなこと口にすることも許されない時代だった」と仰っています。
そのことばを聞いて育ったからこそ、現代(いま)、戦争はいけないことだと、戦後と言われる時代を70年過ごしてきた日本人として、世界に訴えていかなければいけないと、吉永さんは仰います。
まだ声を挙げることはできているけれど、9月19日に安保法案が通ってしまい、戦争反対を声に出すことに圧力がかかる時代になってしまいました。TBSの「ニュース23」の岸井 成格(きしい しげただ)さんに対する圧力がかかっているのも、危うい時代が既に来ていることの反映だと思います。古館さんにも、圧力がかけられている噂が絶える日はありません。
しかし、声をあげるべきことは、あげ続けて生きたいと思います。

吉永さんのデビューシングル「寒い朝」(作詞 佐伯孝夫/作曲 吉田正)
(歌詞)「北風吹きぬく寒い朝も 心ひとつであたたかくなる」
想いひとつで、寒くもなるし、暖かくもなる。
沈み込んでしまうのではなく、こんな時代(とき)だからこそ、訴えていかなければいけないことがある。

「積極的平和主義」とは、「平和のアピール」であり、「武器を持たないこと」。
吉永さんと古館さんが、お互いにエールを送って、対談は終わりました。

優しさの中に信念がある吉永さん
古館さんが、吉永さんとの対談を終えて語ります。
「優しさと強さは矛盾しない」

(文中のことばや対談の流れは、すべて私の覚え書きであり、正確なものではありません)

2015年12月 4日 (金)

リアリティがイメージを生み、イメージがリアリティを生む

映画のお話は作り話です。
作り話だからこそ、リアリティを追求しなければ、観た人は想像力を膨らませることが出来ない。
リアリティを追求するからこそ、作り手も、演じ手も、観る方も、想像力を膨らませられる。
想像することができれば、そこにリアリティが生まれる。

2015年12月4日(金) NHK「あさイチ」 プレミアムトークコーナー ゲスト山田洋次監督のコメント…私の覚え書きです。
「想像することの大切さ」を、歩んできた人生の重さの中から語られているように感じました。

映画の、スクリーンの中のストーリーは、想像することでリアリティが生まれます
あれ? 現実世界のリアリティのなさは、どうしてなのだろう?
世界各地で起きているさまざまな出来事。
今、現に、多くの人が傷付き、多くの人がいのちを奪われている。
すべてがつながっていて、決して他人事ではない。
どこか世界と自分とを切り離しているような感覚。
他人事として俯瞰しているような視線や論調。
あ! 想像力の欠如が、リアリティのなさを生み出しているんだ!

想像力を持って生きん!!
イメージ、イメージ、イメージが大切だ!!

映画「母と暮せば」を観に行きたくなりました。
(2015年12月12日(土)全国公開)

2015年12月 3日 (木)

水木しげるさん ありがとうございます

2015年11月30日、漫画家の水木しげるさんがお亡くなりになりました。
2015年10月12日には、「ゲゲゲの鬼太郎」の歌を歌われていた熊倉一雄さんも亡くなられました。
ちょっと恐い雰囲気の鬼太郎(アニメ)を見て育った者として、淋しさを感じます。

ネットで「水木しげる」さんを検索すると、水木しげるさんが掲げた「幸福になる七カ条」が、多く紹介されています。
 第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
 第2条 しないではいられないことをし続けなさい。
 第3条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。
 第4条 好きの力を信じる。
 第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
 第6条 怠け者になりなさい。
 第7条 目には見えない世界を信じる。
  (『水木サンの幸福になる七カ条』より)

「なるほどなぁ」と頷く条もあれば、「どういう意味かな?」もあるのではないでしょうか。第5条とか第6条とか
私自身、本を読んでいないので、自分なりの受け止めを語ることもできませんが、無形の力を信じるということが想いの根底にあるように感じます。

水木しげるさんの「幸福になる七ヵ条」を取り上げる方が多くいて、それを読んで感銘を受ける方が、さらにいる。
幸せを求める人の多さを表してのことと思います。

さて、水木さんの訃報を伝える同じ新聞で、「Facebookをやめたら幸せになる?」という見出しの記事がありました。
見出しを見たときに私が勝手に推測したことは、FacebookやSNSを利用していると、「これから仕事しなければいけないのに」「これから原稿を書かなければいけないのに」などという時に、つい投稿してしまうし、のぞき込んでしまう。時間を費やしてしまいます。Facebookをやめれば時間を有効利用できる。だから幸せ(という表現になっていますが)になれるのかな?と思いました。
でも、記事を読んでいると…他人の投稿をうらやましく感じて、そのため自分が恵まれていないと感じてしまうのだそうです。他人の投稿を見て感動するのではなく、他人と自分を比較して、つらくなってしまうのですね。
SNSでの投稿って、つらい内容よりも、楽しい内容・自慢したい内容をアップするのだから、他人が楽しそう・恵まれていそうに見えることは当然のことだと思います。
「Facebookをやめたら」と書いてあるけれど、問題はツールではなく、人間の側(私の中の比較心)にあるのですね。

水木さんの第3条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。
「楽しさ」って、「楽しいこと」に止まらず、「自分がやりたいこと」「自分にできること」などを意味しているのではないかな。
自分が追求していることを、自分の備忘として、足跡として、現代のツールSNS上に記してみる。
それだけのことと割り切れば、落ち込むこともないと思います。

水木さん、ありがとうございます(-人-)

2015年12月 1日 (火)

2015年12月のことば

2015年も12月を迎えました。
戦争に向かわないために、微力ながら抗ってきたつもりですが、世の中は、世界はきな臭い方向に進んでいます。いえ、もはや きな臭いどころか、戦火が上がってしまっています。
多くの人間が争いのない世の中を望んでいると思うのですが、ヒトは、欲望(経済)がからむと、戦争をも求めてしまうのですね。自分を正義に立てて物申すのではなく、人間もヒトも含めて「ただの人」と思わずに接していきたい。そう思う2015年の暮れです。

   

2015年12月のことば
目の前の方を ただの人と思うなよ
高橋 卯平

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「凡夫」というは、
今年は、暴力に始まり暴力に終わるように思われる一年でした。暴力による犠牲になられたすべての方々に、哀悼の意を捧げます。
親鸞聖人のことばが思い起こされます。

「凡夫(ぼんぶ)」というは、無明煩悩われらがみ(身)にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと…
(「一念多念文意」)

迷い悩みに充ち満ちて、欲望も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみの心が尽きる暇もなく、いのち終えるそのときまで止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない。それが、「凡夫」の姿です。

「憎」という漢字を見ていると、「凡夫」を表しているように見えてきます。「憎」は、「心」を重ねると書きます
(「曽」は、火のついた窯に蒸し器を乗せ、その蒸し器から蒸気が立っている様子を象っています)。
「心」を重ねて「憎」と成る。美しい色でも、何色も重ねていると黒色になります。美しいつもりの心も、想いを重ねているうちに、憎悪へと変質してしまいます。
「凡夫」とは、「憎」で表される心の持ち主とは、特定の誰かではありません。わたしの姿です。自分のことは自分が一番 よく分かっていると言いますが、実は、自分自身が一番よく分かっていないものです。でも、そんな「凡夫(わたし)」だから  こそ、阿弥陀如来のはたらきは「摂取不捨」、全てのいのちを摂(おさ)め取り、捨てることがありません。

なにを争っている?
テロのこと、原発のこと、安保法のこと、沖縄の基地のこと等々・・・地球上でさまざまな事件・課題・問題が起きていて、それらについて多種多様な意見・思想・想い・関心の程度がある。賛成する人と反対する人がいれば、意見が対立しているわけだから衝突することもある。それは当然のことと思っていたけれど、最近、ちょっと待てよ!?という想いが湧いています。
物事には賛成派もいるし、反対派もいます。万人が同じ物・事柄・人を支持することなどありえません。しかし、根っこは同じ、つながっていると思います。平和でありたい、平穏でありたい、争いは良くない、せっかく生まれてきたのだから喜びをもって生きたい、と。そのための方法や手段や思想が、多種多様な形で表出しているだけなのに、争いを生み出している。しかも、外野どうしが争い、当事者が置き去りとなり、結果当事者が一番被害を受けている。そんな現実を見ていて、何を争っているのだろう? どうして争っているのだろう? という気持ちに満ちています。
平和を望みながら、傷つけ合い殺し合う。おかしいじゃないですか! ばかばかしいじゃないですか! どうして傷つけ合う必要のないいのちどうしが、ことばという刃・武器という殺人兵器・権力という暴力で意見の違う相手を従わせようとしているのですか! その結果何が生まれるのですか? 平和なんて生まれません。平穏なんて訪れません。傷つけ合うことによって生まれたものは、傷を背負っています。癒えることのない傷を。その傷に向き合って生きるのならまだしも、なかったこととしようとするなんて!

賛成と反対、善と悪、敵と味方・・・二項対立で物事を見ることに慣れてしまっています。わたしのいのちも、目の前のいのちも、同じいのち。わたしの奥底に流れる想い(願い)は、誰もが根っこは同じ。それなのに、表出する形が違うだけで、いがみ合い、傷つけ殺し合う。人間の抱える闇が、今、痛く悲しい。
わたしの目は、目の前のいのちを敵として見るためのものではありません。わたし自身を見つめるためのものです。しかし、わたしがわたしを見つめたって、自己肯定でしか見えません。「凡夫」なわたし、「憎」なわたしが見えるのは、如来から賜った眼のおかげです。南無阿弥陀仏

阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏を称える人の前にいます
今月のことばは、高橋卯平さんのことばです。北海道の農家の方で、お念仏を大切に生きられた方とお聞きしています。
「目の前にいる方は、あなたに念仏の教えを届けるために 阿弥陀さまが姿を変えて表われた方だから、大切になさい」という両親の教えを胸に、念仏の生涯を歩まれました。
出会ったことのない高橋卯平さんやそのご両親からも、教えを、如来の眼をいただける。根っこでみんなつながっているからです。

できないことをする!
憎い相手に対し、「話が通じる相手ではない」と言う人もいますが、それならば暴力が許されるのですか? 話が通じないかもしれない、分かり合うことは無理かもしれない。それでもなお、暴力はいけない、分かり合いたいと願うことをやめてはいけない。
軽薄な理想主義と笑われようとも、できないことだからと投げ出したくない。阿弥陀如来は「生きとし生けるものすべてをすくいたい」という無理とも思える願いを抱えながら、それでも願いを尽くして成就されました。その御手の中に生きるわたしも、無理とも思える願いを抱えながら生きる時代(とき)なのだから。

   

掲示板の人形
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お寺の掲示板なのにクリスマス風かよ!と突っ込まれるかもしれませんが、お寺の前を通る子どもたちが、毎月の人形を楽しみにしているので。
左のカラフルなクマさんはハウステンボスで、サンタと雪だるまの人形はどこか?で、坊守が買ってきました(はじめは、私が人形を買って置き始めたのですが、最近は坊守が人形を買うことを楽しみにしています。人形を見ることを楽しみにしてくれる人がいるからですね)。
右のクマさんは、親しくしていただいている存明寺さまからいただきました。ありがとうございます。赤と緑のリボンがクリスマス風です。

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