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2015年10月 2日 (金)

2015年10月のことば

10月1日は肌寒い一日でした。2日は暖かくなるそうです。体調崩されませんように。
2015年も残り3ヵ月もあるとはいえ、もう来年の予定を立てる時期になりました。
丁寧に生きたいなと思う今日この頃です。
このブログも、ほとんど寺報のアップばかりになってしまいました。申し訳ありません。ご本山発行の「同朋新聞」内「時問自問」5人の執筆陣に選んでいただきました。9月号で初めての原稿を載せていただきました。次は、2016年2月号の予定です。「同朋新聞」毎月お楽しみに!!
以下、2015年10月の寺報です。

   

2015年10月のことば
 ただひとすじに聞く
  そこから世界は開かれる

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平和を求めながらも争う衆生
 今、世間で溢れる声が、汚く、暴力的になっています。
 自分と意見が違う者に対する罵り。
 自我を通すための血の通わない甘い約束。
 匿名であることをいいことに発する誹謗中傷。

想いを口にすることができるのは、個人の想いをはき出すためにというよりも、本来、他者(みんな)のことをこころに留めているからではないでしょうか。たとえば、多くの人が「平和」を願い、想いを口にしていると思うのですが、その想いを表出する声が暴力的になってしまっているのはなぜでしょう? 平和を求めながらも争いを起こしている現実。人間に平和を築くことはできないのでしょうか?

話し合っても分かり合えない衆生
「話し合えば分かる」「話し合わなければ分からない」など、語り合うことの大切さをよく耳にします。
本願寺8世 蓮如上人は、語り合うことの大切さを、何度も言い聞かせるようにして説かれました。
四五人の衆、寄り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべき
(「蓮如上人御一代記聞書」120)

仏法を聴聞して、聞いただけで家に帰ってしまっては、自分に都合の良いように聞いただけ、自分にとって都合の良いところだけを聞いて終ってしまいます。せっかく仏さまの教えに出遇えたのに、それではもったいないことです。
蓮如上人は、「仏法を聴聞したものは、4人いれば4人、5人いれば5人、みんなそれぞれに自分勝手に聞くものです。聞いて終わりではなく、自分の受け止めをよく語り合いなさい」とおっしゃいました。
自分のいただき(受け止め)を語り合うと、自分のいただきとは違ういただきをされている方がいることに気付きます。どちらが正しいかという話ではありません。同じ話を聞いていても、その受け止めはさまざまです。聞いた人の数だけ、いただきもあるのかもしれません。そこで、「自分の受け止めこそ正しい」という語り合いをしていては、他の方の話が耳に入ってきません。話を聞いているうちに、「あぁ、そういう受け止め方もあるのかぁ」と頷けるときがあります。「そういう受け止め方をされるということは、この方にはそう思わせる何かがあったのかもしれない」と、ことばを通して、目の前の人が見えてくることがあります。
仏法聴聞していたけれど、なにも聞こえていなかった。目の前に人がいることを認識していたつもりだけれど、なにも見えていなかった。語り合いを通して、今まで聞こえていなかったことが聞こえてくる、見ていなかったことが見えてくるということがあります。
「口がひとつで 耳はふたつ ちょっと語って もっと聞くため」という法語を聞いたことがあります。語り合うということは、聞き合うことなのかもしれません。話し合っても分かり合えないのは、聞くということが抜けているからなのですね。

いのちの声を聞く
次女(4歳)が家の中を裸足で歩いているとき、床とすり合って「ブッ」と音がしました。私はイタズラっぽく「オナラしたのだぁれ?」と尋ねました。すると娘は、「オナラじゃないよ、足の声だよ」と応えました。
次女は、無生物が出す音に対しても、「音」ではなく「声」と言います。「人形の声だよ」「カミナリの声がするね」「飛行機の声うるさいね」など。
娘の「足の声だよ」にハッとさせられます。お経にも、「音」と書いて「こえ」と読む読み方があるのです。「声」というと、わたしたちは人間が口から発するものと思い込んではいないでしょうか。しかし、動物の鳴き声も、生物ではないものが発する「音(おと)」も「音(こえ)」なのです。また、「亡き人の声に耳を澄ます」という言い方もします。亡き人は、物申せぬ者になったのではなく、遺された者が亡き人のことを想うとき、意志を継ぐとき、そこには亡き人の声が伝わっているのです。
「声」には、いのちや想いが宿っています。こころに響く何かがあります。わたしに何かを伝えようとしているのかもしれません。声を聞く、声に耳を澄ませることを通して、今まで自分本位で生きてきたわたしに、世界が開かれてきます。
聞くことに敬いや畏れがあれば、ことばが汚れ、暴力的になることもありません。

お念仏が聞こえてくる
平和を求めながらも争う衆生
話し合っても分かり合えない衆生
そんな悲しい現実(わたし)に向き合うとき、衆生の平和を願う声、分かり合えない衆生を憐れむ如来の声が聞こえてきます。
「南無阿弥陀仏」と念仏を称える わたしの耳に「南無阿弥陀仏」の如来の声が聞こえてきます。
一心に念仏もうす ただひとすじに聞く そこから世界は開かれる

   

掲示板の人形
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コメント

ご無沙汰しております。

出村彰『カステリョ』清水書院 1994 http://www.amazon.co.jp/dp/4389411209 のカステリョが「異端は迫害さるべきか」『宗教改革著作集 第10巻 カルヴァンとその周辺?』 教文館 1993年 http://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/7456 という文章を書いていますね。

いわゆる、「中間時Interim」。

十字架の出来事、と、世の終わり、という、二つの出来事だけがある。

近代的な単線的進歩発展史観ではなく、数直線的な連続的な時間とは異なり、よって、右上がりではもちろんなく、そうではなくて、二つの出来事だけがある。

二つの出来事のあいだの緊張だけがある。

出来事の名に値する決定的な出来事が二つだけある。ひとつは「もう」起きた、もうひとつ、世の終わりに、キリストが再臨して、最後の審判は、「まだ」。「もう」と「まだ」のあいだの緊張だけがある。

線がつながってるわけじゃない。連続的じゃない。漸近的じゃない。竪に積み上がっていってるわけじゃない。人間の積善で、救済を買い取るわけではない。

決定的な出来事が二個あるだけ。

二つの出来事のあいだの「中間時Interim」にわたしたちは生きているわけですね。

善悪、役に立つか立たないか、意味、価値、……を、決定できる、唯一の権威は、世の終わりの、キリストの再臨、最後の審判だけ。

「中間時」に生きている人間にはだれも、善悪を裁く「権威」がない。

最終的ってのは、ほんとにほんとにほんとに最終的なものだけが最終的。

途中で、ヒトラーなり誰なりが、似非キリストとなって、世の終わりキター、諸悪の根源はユダヤ人なのであいつらを抹殺すればぜんぶ解決ー!と言っても、それはフェイクなので、飛びついて、そうだーそうだーってパニックの中でマイノリティを虐殺したりしてはならん。

その驚くべきポイントは、人間が為すいかなる行為も「それ自体としては」善でも悪でも、ない。

正義が勝つことなど決してない、絶対にない、この世にあって、にもかかわらず、己の有限な知性の限りを尽くし善をなそうと死ぬまで生き尽くせ。

(すえとおらないってことですね。完成しない、成就しない。自分で成仏しない。自分で成仏しちゃったら、一佛、一佛國土ですからね。自分だけわかったー、知り尽くした-、全体知を得た-という「光の牢獄」に閉じ込められるだけ。)

自分がやっていることが善だと「知っているから」(わたしにとってこれほど自明なただしいことを、わからないあいつらがいるから、抹殺)では、ない。

そうじゃない。

知らないから。無知だから。だから、己の有限な知性の限りを尽くしなさい。

fundamenta(人として絶対に忘れてはならないこと)と、indifferentia (どーでもええこと)が厳密に区別される。

世の終わりは絶対にくる。世界は必ず破滅する。

このわたし、他の誰でもないこのわたし、固有のわたし、の、さしせまった急務は別のところにある。

怒り、嫉み、腹立ち…は、待てる問題である。

世界は必ず破滅する。したがって、人間が、マイノリティを差別とか、ヘイトスピーチとか、世界最終戦争とか、ユダヤ人の最終解決とか…、最終解決、抹殺、虐殺、とめどない死は、無益なり。

☆筆硯独語さんへ
お久しぶりです。コメントをいただいていたのですね。気づかずに失礼致しました。
私自身、ブログから遠ざかっていて、コメントの有無を確認していませんでした。

善と悪 正義と悪など、二項対立で考えることの限界を感じていました。
まさに筆硯独語さんタイムリー!!
「光の牢獄」・・・初めて聞く喩え(「喩え」で良いでしょうか?) なるほどなぁと思いました。
自分は正しいという光によって、何も見えない。
うん、そういう状況にあるのかもしれません。

「光の牢獄」というのは、わかってしまうこと、ですね。

人間には平等に理性が与えられているはずである
→ところが、自分にとって、これほど、自明なことがわからないあいつらがいる
→あいつらは人間ではないのだ
→抹殺するしかないな…

最終解決(=アウシュビッツ)、世界最終戦争…

実は自分がわかってしまっている、つまり、「光の牢獄」に閉じ込められてしまっていることが、問題。

わかったと思った自分が、誤解無限大。

世界の無意義性(「正義」が勝つことなど、世の終わりまで、ない)を、全体知に直接にアクセスすることで乗りこえようとする発想を一生涯、厳しく排斥しなさい、わかってしまってはなりませんという、知見。

ま、世の終わりというのは、ユダヤ-キリスト教の用語ですから、三千大千世界の、《衆生の》信心獲得、《衆生の》証大涅槃、と、読み替えてくださいw。

ま、自分で成佛して、自分ひとり、一佛一佛國土に閉じこもるな。それ、国王になっとるだけ。そうではなくて、みんなお浄土にお参りさせていただけることは定まってるんだから…というような考え方。

(ま、わたしたちは、みんな、国王なのでw、そういう自分から出なさい、と、呼び掛けられているのだ…とも言えます。どこへ、は、正解はありません。ただ、出ろ。行き先が娑婆世間内にない、出立。娑婆世間内に目的地が決まっていない旅。実は、正解がない=解は無数にある、ですので、ひとそれぞれ、そのつど、そのつど、ケースバイケース。エンドレスに葛藤せよ。正解がない問いを生きよ。ただ問いだけがあって、正解がない問いというものがある、そして、それは、知識教養などより、はるかに大事なことである。娑婆世間では旅人。寄留者。本籍はお浄土。)

目標(たとえば一切智のゲット)と、真の目的の厳密な区別。

目標というのは、方向ですね。向き。歩んでいく方向。(還ってくるっていう議論だからUの字じゃないか、は、仰る通りですが…)

目標のことを、「永遠の約束」とも言います。

約束が永遠なのであれば、それは、実は、娑婆世間で、自分ひとりで、成就、完成しないという意味になります。終わらないので。成就・完成しない=終わらない。「永遠化」と言います。

「おまかせ」ですね。一切智は、得られることは定まっておりますので、そんなことは、あなたの、切迫した、あなたの課題ではない。それは待てる問題である。あなたの娑婆世間での課題じゃない。

待つことの意味を知るものになりなさい。

待つことの意味を知るものには、《一切の》妥協が必要ない。

実は、目標につねに向かって、そして、すえとおること、目標を成就・完成してしまうことはしない、終わってしまうことはしない、わかった、オレにはぜんぶ分かったとなってしまわない、つまり、よーーーく考えると、一生涯、目標を目指し続ける=目標を成就してしまうことをしない、すえとおらないことこそが、求められるべきものなのだ、という、逆説。

目標を目指し続け、反復して、その成就に失敗し続けること(=実は生かされているということ)こそが、真の目的である。

ただ、すえとおらないことだけが、わたしたちが、そのまんま、救済の装置である、条件になっている。

卑近な例をあげます。

道を歩いていたら、人が倒れて血を流しています。自殺未遂です。

携帯電話で119番しようとしたら、腕をつかまれる。目と目があう。

「死なせてくれ……」

もしもここで、わたしたちが、阿○漢だとします。ありとあらゆる因縁が見える、分かるとします。○羅漢ですからね。

すると、そのような、世の不正、悲しみに対して、わたしたちは、なすすべなく立ち尽くし、えと、すべての事情が分かるなら、そうなります、ただ、泣いているだけになります。

これを「美しい魂」と言います。

なんにもできません。

しかし、わたしたちは、アホなので、知らないですから、無知ゆえに、その腕を振り払って、119番するわけです。

知っているから、ではないです。

無明だからです。

悪人だから。

すなわち、一生涯、あれで、善だったのか?を私たちが知ることはありません。

んなことは、今生を生き尽くし、死後往生しなければ分からないです。

哲学では「末期のまなこ」と言います。えーと、臨終時に、走馬燈。すると、世の中の仕組みとか全部わかるという考え。えーとですね、「末期のまなこ」から見た場合、人生、「」付きの、「失敗」が失敗ではないのだ、という知見。全力で生き尽くした人生に失敗はない。絶対に裏切られることのないみ教え。なぜなら、「失敗」が失敗じゃない。「末期のまなこ」、別のまなざしを賜ることを、哲学では「パララックスヴュー」と言います。別のまなざしと視差がある。二重視。臨終からカウントダウン、指折り数えるまなざし。現実に真理をかさねがきするわけですね。

ですから、この卑近な例にあるように、実は、悪人こそが、そのまんま、救済の装置である、と、考えるわけです。

人間の有限性こそが、無明さ、こそが、人間が永遠化に参与する条件になっているのだ、という、言い方をします。

エンドレスに葛藤せよ。

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