2015年7月のことば
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり 親鸞聖人
人間はみんな優しい それなのに傷つけ合う
人間は、誰に教わるでもなく、喜怒哀楽の感情を持ち、他者(ひと)を想うこころを持っている。自然の感情やこころを表現するために、知恵や知識で考える必要はない。相手によって表情を変えたり、対応を変えたりするのは、知恵や知識が邪魔をしているのかもしれない。
善だとか悪だとかの色分けなどしない人はみんな
感情やこころを素直に表現できるけれど、
知恵や知識を盾にして自分を立てる行為は、
大うそつきがすることです。 西蓮寺副住職訳
何のために賢くなろうとするのか
知恵や知識の否定をしているわけではありません。知恵や知識は、本来視野を広げてくれるものだと思うのですが、現実は視野を狭めているように感じます。
知恵や知識により他者を知り、理解し合えるようになりそうなものですが、そうではなく、自分の色眼鏡で善だ悪だと識別し、差別や敵視が激しくなっています。賢くなることとは、敵を作ることですか? 結果、孤独になることですか?
知恵や知識は、感情やこころを超えたものを作り出しました。多くの人がいいなと思うのですが、やがてその恐ろしさに気付きます。感情やこころは警鐘を鳴らすのですが、知恵や知識が邪魔をします。頭を使いながら、思考が停止しています。
伝えたい 聞きたい 人と人が向き合える
親鸞聖人(1173~1262)から数えて本願寺8代目の蓮如上人(1415~1499)は、親鸞聖人のおしえを広め伝えるために250通を超える「御文(おふみ)」(お手紙)を書かれました。親鸞聖人のおしえのエッセンスが詰まったお手紙です。
蓮如上人が書かれた「御文」を、字を読める方が声に出して読み上げます。それを聞く方々は、蓮如上人の想いが、親鸞聖人のおしえが、阿弥陀如来の誓願が、身に響きます。自然と頭が下がり、手が合わさり、南無阿弥陀仏の念仏が口から出ます。生きることの不安が、「御文」の響きによって、生きる力となりました。そのことは、現代(いま)に念仏が伝わっていることが証明しています。
孤独にこころ震えていた人びとが、「御文」の響きによって、独りではないということを感じる。
現代、容易に情報が入り、知恵や知識を得ようと思えばいくらでも身につけられる時代。人は、ますます不安に陥り、恐怖心を抱き、他者を責め、孤独になる。おかしなものです。
より処なく生きているわれら
「芬陀利華(ふんだりけ)」(川上清吉作詞/山田耕筰作曲)という仏教讃歌が聞こえてきました。
よしあしの 間(はざま)をさまよい
より処(ど)なき 凡夫(ただびと)すらや
みほとけの 誓いをきけば
自分の色眼鏡で善だ悪だと識別し、さまよっている。自分を肯定するために、知恵だ知識だ地位だ権力だと、当てにならないものを頼りとして生きている。そんな、当てにならないものを頼りとして生きている凡夫(ただびと)であるわたし。そんなわたしでさえ救うと誓われた阿弥陀如来。あぁ、その誓いを聞くことができたなら(おしえに出会えたならば)。
自分を愛すること
詩人・吉野弘さんの詩「奈々子に」に出遇いました。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。
「自分を愛すること」って、自分が可愛いとか、自分が正しいなどという自己陶酔ではない。自己陶酔からは、他人を愛する気持ちは生まれない。それが現代(いま)のわたし。賢くなって、大切なものを見失っている。いや、賢くなったつもりになって、大切なものを見失っていることにも気がついていないのかもしれない。
現代の知恵や知識は、答えを求めるけれど、答え(と思っているもの)を抱き、世界を見失っている。答えではなく、問いを持ち続けていると、いろいろなものが見えてくる。さまざまなことを感じられる。わたしが他を愛するよりずっと前から、わたしは他から愛されているということを教えられる。そうすると、自分を愛さずにはいられない。
答えを持って賢くなるのではなく、問い続ける中で、自分の中にあるまことのこころに出遇う。
今月の人形
鸞恩(らんおん)くん
「今月のことば」のブログを見て、「あれ?、掲示板が違う!」と感じられた方は、当ブログ通 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
山門修繕の関係で、いつもの掲示板にことばの貼り替えができなかったので、もうひとつも掲示板にはりました(西蓮寺には、3つ掲示板があります)。
この掲示板には人形を置くスペースがないので、磁石で吊せる人形をさがしたら、鸞恩くんと目が合いました。
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