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2015年5月 2日 (土)

2015年5月のことば

子どもは 誰かといっしょのとき ひとりになれる
                   D.W.ウィニコット

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D.W.ウィニコット
D.W.ウィニコットはイギリスの児童精神分析家。小児病院に40年にわたり勤務し、豊富な臨床経験から乳幼児の母子関係理論を発展させた。
生後1年を迎える頃、乳児は母親のそばで、自由に生き生きと探索活動をすることができるようになる。時に行く手に何か不安を感じるような事態が生じると、すぐに母親の元に戻り、不安を低減することができる。つまり、母親を心の安全基地として利用することができる。母親の姿が見えなくなると、泣き叫んだり、探し求めたりするが、母親が戻ってくれば喜びを全身で表現し、たちまち元気を取り戻すことができる。これは、良好な愛着行動が形成されていることを示している。このような愛着行動から、基本的信頼感という内面的な発達課題の達成の一面をうかがい知ることができる。
ウィニコットは、毛布・タオル・ぬいぐるみなど乳幼児が特別の愛着を寄せるようになる主に無生物の対象を移行対象と呼び、こうした対象は、母子未分化な状態から分化した状態への「移行」を促すとした。
(参考)
 『心理学 キーワード辞典』(オクムラ書店)
 『ライフサイクルの臨床心理学』(培風館)

安全基地
乳幼児は、その成長過程で母親を「安全基地」として捉え、やがて、毛布・タオル・ぬいぐるみなどをよりどころとして、乳離れを果たしてゆく(ですから、ぬいぐるみなどへの愛着を切り離さないであげてください)。
乳幼児・こどもの頃は、なにかしら自分の「安全基地」を設定し、信頼関係を築き、発達してゆく。「安全基地」のおかげで、「ひとりになれる」。
でも、こどもに限った話ではありません。おとなになって自立・独立しても(したと思っていても)、誰もがなにかしら自分の「安全基地」を持っているものです。

携帯電話への友人の登録件数や、SNSの友達の数。その数の多さに人は安心を求めるという。友達からのメールやメッセージにすぐに返信しなければ嫌われると怯え、あるいは返信が遅い場合には腹立ちを覚える。気遣いを要する友達です。誰かといっしょでありながら、ひとりになりきれない現実があります。
こどもの頃は、ぬいぐるみなどが移行対象であり欠かせないものとなります。おとなは、誰もが必要としている(そう思い込んでいる)ツールに振り回されています。実は、わたしの想いに振り回されているだけなのですが。

わたしの想いを土台とした安全基地の不安定さ
ウィニコットのことばに出遇い、「誰かといっしょ」とは「阿弥陀如来といっしょ」であると、自分に都合のいいように考えていました。
こどもは、「安全基地」に対して無条件の信頼を持ちます。しかし、年を重ねると、自分の好みや条件を突きつけて「安全基地」を持ちます。揺れ動くわたしの想いを土台として基地を建てても、たやすく崩壊してしまいます。「安全基地」が安全であるはずがありません。
「誰か」を「阿弥陀如来」と位置付けても、それは阿弥陀如来ではなく、自分の欲望の写し絵。「信じていますから」「篤く信仰しているのに」「神も仏もないものか」と期待や愚痴や不満がでるものが、「安全基地」であるはずがありません。
生きていれば、期待や愚痴や不満は噴出するもの。それらが噴出した暗闇の中に放り出され、どうしていいのか分からなくなったわたしを、ギュッと抱きしめてくれていたのが阿弥陀如来。

温もりを感じた ひとりではなかった
年を重ね、経験を積み、自立しているように思っても、それは勘違いであり思い上がり。わたしをわたしにするために、どれだけの人(いのち)の想いや手助け、そしてギュッと抱きしめてくれている願いがあったことでしょう。そのことに無自覚で生きることは、自立ではなく孤立。
「阿弥陀如来」が「安全基地」なのではありませんでした。自分の都合で「安全基地」を設定していた、わたしの思い上がりがポキッと折れたとき、今までギュッと抱きしめ続けてくれていた温もりを感じます。

暗闇の中 
安心して「ひとりになれる」
ずっと誰かといっしょだから

   

掲示板の人形
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こどもに「かぶとを折って」とせがまれ、何十年ぶりに折り紙でかぶとを折ろうとしたら・・・折れませんでした。
折り紙の本を開いて、折り折り。ふ~む、忘れているものですね。
調子にのって、いくつか折って、ジジとネコバスにかぶせてあげました

ジジにかぶとをかぶせようとしたとき、人形の箱にジジが見当たらないので、「ジジはどこ?」とこどもに聞いたら、「ジィジは、本堂にいたよ」という返事。
いや、「ジィジじゃなくて、ジジです」

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コメント

ふふふ、じいじ じゃなくて、じじ

おかあさんの手って、こんなに温かくて気持ちがいいのだと、ある日知りました
私の娘の息子(私の孫)がむずかって、娘が”おいで”と言って手を広げているのに、なかなか来ない

そのとき、娘が、じゃあおばあちゃんを抱っこしちゃおうかな・・って私の肩にちょっと手を触れました
ほんの一瞬なんですよ肩に触れたのは、なのに

わあぁ~こんなに暖かくて気持ちがいいんだ、とにかく気持ちがいいんです、
わたしも、昔は子どもを抱きしめたんですけど、こんなご利益が(?)あるとは知りませんでした
これじゃあ、泣きべそかいて、おかあさんの腕に抱かれる気持ちわかるなあ~

まだわたし、阿弥陀さんのぬくもりに気づいていないのですが。

☆佐智子さま
うん、ご利益ですね。求めるものじゃなくて、すでにあるもの。
すでに親鸞聖人に出遇われているから、ほんの一瞬の出来事で、阿弥陀さまにダッコ ダッコ ギュッされているのに気付くときがきますよ

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