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2015年2月

2015年2月 1日 (日)

2015年2月のことば

いのちの声を聞く

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アイ アム ケンジ
2015年1月26日未明 悲しいニュースが飛び込んできました。イスラム国に拘束され、人質となっていた湯川遥菜さんが殺害されたというニュースです。日本政府は真偽を確かめていると言っていますが、湯川さんと、共に人質となっている後藤健二さんの無事を願わずにいられません。

ネット社会において、溢れるほどの情報を手に入れられるようになりました。しかし、自分にとって興味のある情報・納得できる情報・都合の良い情報のみをかいつまんで得ることによって、視野が広がるどころか、ますます自己の殻に閉じこもってしまっています。そのような情報の受け止め方ですから、「なぜそのようなことが起こったのか」「なぜそのようなことを思うに至ったのか」など、出来事の背景や人心の奥底にあることに想いを馳せるということがありません。湯川さんと後藤さんが拘束されたニュースにしても、この手のニュースが流れたときの例によって「自己責任論」なるものが、ネット上を賑わせています。見殺しという殺人が行われています。

自由について考える
1月7日に起きた、フランスでのシャルリー・エブド本社襲撃事件をきっかけに、「表現の自由」と「信仰の自由」がせめぎ合っています。
こんにち、「自由」を主張する人が多くいます。また、他者が何らかの不都合を起こしたときには、「自分の自由で行った結果だから自己責任だ」と述べます。筋が通っているようですが、果たして自分が何らかの不都合を犯したときに、「自己責任だから仕方がありません」と気持ちを納めているでしょうか。「自己責任」ということばが、まるで他者を叩く道具のように聞こえてきます。
「自由」とは、権力によって妨げられるものではないという意味において「自由」なのだと考えます。何をやってもいい、何を言っても許されるというのが「自由」なのではありません。
「他者への敬い」や「自分の主義主張に賛同する者もいれば、同時に、傷付く者もいる。そのことを知っていること」。それらがあって初めて主張できるのが「自由」なのであり、何をやっても、何を言っても許されることが「自由」なのではないと、私は考えます。

今、わたしにできること
湯川さん殺害のニュースの衝撃を受け、イスラム国に対する怒りも沸き起こるわけですが、テロ組織と呼ばれる集団が存在するのには複合的な要因があります。その複合的な要因のひとつに、私たちひとり一人も絡んでいます。それが、この地球上に70億人以上の人が住み、生きているということなのです。決して「あいつら許せない!」という、自分を善の立場に置いた怒りで決着がつく話ではないのです。
この地球上には、数限りない人々(いのち)の声が溢れています。実際の音声としての声だけではなく、いのち そのものの声です。声の数だけ想いがあり、背景があります。今、わたしができることは怒ることではなく、「いのちの声を聞く」。立ち止まって耳を澄ますことなのです。

真のよりどころを求める人生
出会う人や出来事やタイミングなどで、考え方や行為も変わってしまうわたし。わたしは、根っこのない草のようなものです。根っこがないゆえに、自分が信じられるものを頼りにするのですが、それが争いの元となります。自己肯定は、周りの声が聞こえなくなります。
あなたには、本当に「よりどころ」となるものはありますか? 地位やお金や家族も「よりどころ」となり得るでしょう。しかし、いつかはわたしの手から離れていきます。根なし草なわたしが、限りある「よりどころ」を頼りにしても、砂上の楼閣のようなものです。本当の「よりどころ」にはなり得ません。
自分が信じられるものではなく、自分を信じてくれているもの(真実)があります。南無阿弥陀仏の念仏の中に「生きとし生けるものすべてを守りたい」という声(願い)があります。耳を澄ませてお念仏申しましょう。真のよりどころを求め続ける人生が、いのちの声を聞き続ける人生となります。
西蓮寺副住職 白山勝久(釈勝願)

※この文章は2015年1月26日に書いています。
※西蓮寺が所属する真宗大谷派東京五組では、「いのちの声を聞く」をテーマとして、教えに、人々の声に向き合っています。

   

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