« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014年10月

2014年10月22日 (水)

○○のせいじゃない?

子どもたちの間で「妖怪ウォッチ」という漫画・アニメが流行しています。
「妖怪執事ウィスパーと出会い、妖怪を見ることのできる妖怪ウォッチを手に入れた主人公が、至る所に出没する妖怪達と友達になり、彼らと協力し、町の人々の悩み・問題を解決しながら物語の裏に潜む謎に迫る」(ウィキペディアより)というストーリーです。
で、お話の中では、到る所に出没する妖怪たちが悪さをするので、「妖怪ウォッチ」大好きな子どもたちは、
「どうしてこんなに部屋が散らかっているの」
「どうして〇○しないの!?」
「どうして○○できないの!?」
などという親のお小言に、
「ようかいのせいじゃない?」
「ようかいのせいだよ!」
と応えるそうです。
その反応にイラッとくる親も多いそうです。
そのような子どもに、どのように対応したら良いか尋ねる相談もネット上で見かけます。

いつの世も、漫画やアニメやテレビの影響を受けて、子どもは成長していくものです。
それが成長と言って良いのか否か、
そのこと自体が良いのか悪いのかは分りませんが。
イラッとくる親も、アニメの主人公のマネや、お笑い番組のマネをして、親や先生たちを困らせたことがあるのではないでしょうか。
成長の過程における通過儀礼だと思います。
すぐにそういう時期は脱します。温かく包み込み、かつ叱るときは理由をキチンと話して叱りましょう。お片付けはご一緒に。


自分にとって不都合なことを妖怪のせいにする
なんか、どこかで聞いた話だなぁと悶々としていました。
あぁ、なんでも先祖のせいにする話に似ているなぁと思いました。

不都合なことが起これば(続けば)、「先祖が迷っているのではないか」
良いことがあれば、「ご先祖さまのおかげです(先祖を大事にしている自分は偉いです)」
「安らかにお眠りください」と言うわりに、先祖を、亡き人を振り回しています。

何事もご縁
亡きご先祖自身が、今を生きるわたしに、あらゆる出来事を提供しているわけではありません。
先祖のせいとか、おかげとか、わたしの想いで翻る責任転嫁や感謝。
よく考えてみれば、先祖のせいでも、おかげでもありませんでした。

「○○のせいじゃない?」
「○○のせいじゃありません!」

2014年10月 1日 (水)

2014年10月のことば

善人ばかりの家庭では 争いが絶えない

Dsc_0813

息苦しい(生き苦しい)世の中
最近感じます。息苦しく(生き苦しく)ないですか? 世の中、善人ばかりになって息苦しくなった。そんな気がします。
誰もが、自分の意志や意見を持ち、その意志や意見を元に発言や行動をするのですが、まるで他者(ひと)を傷つけようとしているかのような恐さを感じます。
7月に盲導犬が刺され、9月には全盲の少女が蹴られる事件が起きました。酷いことをするなと憤りを感じましたが、ネット上では、「盲導犬が邪魔だ」「目が見えないなら外を出歩くな」という声も囁かれています。辛くて、悲しい。
誤報を謝罪する報道機関に、罵声を浴びせる同業他社。誤報はあってはならないが、かつて、自分たちの過ちを真摯に詫びたマスコミがあっただろうか。今の報道機関の姿を見ていると、自分で自分の首を絞めているように見えます。
反原発のメッセージを発すると、その度に言われるのが、「原発がなくなったら、そこで働いている人々・家族が路頭に迷うぞ。それでいいのか!」という声。そういうリスクを背負っていることは承知しています。が、ふと思ったのです。近年、本屋・文房具屋・酒屋・CD屋など、町にあったお店が姿を消しています。ネットで買い物をする人が増えたことが原因でしょう。私も利用します。そのことによって、働く場を奪われている家族がいる現実があります。原発の話を持ち出すまでもなく、わたしは、他者の仕事を奪っていたのです。
自分の意志・意見を表わすとき、自分を善、間違いない者として表現をしています。そのときに他者を、今までは「悪」とまでは見立てていなかったでしょうが、最近は「悪」に見立てているかのようです。それゆえに、他者に対する攻撃性・凶暴性がハッキリと表出しているかのような気がします。

悪人の家と善人の家
「善人ばかりの家庭では争いが絶えない」という法語についてのお話です。
Aさん一家とBさん一家が、隣り合って住んでいました。Aさん一家は、いつも笑いが絶えず、みんな仲良し。 Bさん一家は、喧嘩ばかりで、雰囲気は良くありません。
B家のお父さんが、A家のお父さんに尋ねます。
 「お宅は、みなさん仲良しですね。どうしてですか?」
Aさんは答えます。
 「うちは、みんな悪人だから。もしかしたらお宅は、みなさん善人なのではないですか?」と。

ある日、廊下に水の入ったバケツが置きっ放しになっていました。
A家では、バケツを蹴っ飛ばしたお父さんが、「気がつかなかった私が悪かった。ごめん」と謝り、お母さんが「そこに置きっ放しにしたの私なの。ごめんなさい」と謝り、子どもが「お母さんが掃除中なのに、僕がお母さんを呼んだの。ごめんなさい」と謝りました。みんなが、自分が悪いのだと謝りました。水浸しになった廊下を、みんなで掃除をして、仲良くお茶の時間になりました。
B家では、バケツを蹴っ飛ばしたお母さんが、「こんなところにバケツを置いてたらジャマじゃない!」と怒り、お父さんが「俺が掃除をしてやっていたんじゃないか!」と怒鳴り、子どもが「ふたりとも静かにしてよ! 今、勉強しているんだから!」と怒りました。みんな、自分に非があるとは思っていません。その日の夕食は気まずい雰囲気になりました。

私に責任があった、私が悪かったと、自分の悪を自覚している人(悪人)が集まれば、争いは起きません。
私に責任はない、私は悪くないと、自分を優位に置いて、 他者を見下ろすような人(善人)が集れば、争いが起こるのは必然です。

幸せを感じているとき、泣いている誰かがいる
さて、家庭ほどの世界ならば、自分の悪の自覚によって、みんなが仲良くなることはあり得ると思います。しかし、世界が大きくなればなるほど、それは難しくなります。誰かを大切に想うとき、同時に誰かを傷つけてしまうという現実が起こるのですから。日本の平和のために、経済発展のために、安く働かされている人々がいます。危険な道具が売りつけられています。罪もないのに差別を受けている人々がいます。
「善人ばかりの家庭では争いが絶えない」のお話を紹介したのは、「善人ぶらないで、わたしの中の悪に目覚めましょう!」などと言おうとしたのではありません。悪の自覚は大切なことですが、「自分は、わたしの中にある悪を自覚した!」と思い込んだ時点で、実は善人のままなのです。そういう思い込みの中で、家族が、みんなが仲良くなることはありません。
気づかないうちに誰かを、他のいのちを傷つけている現実がある。そのことを、こころの片隅に置いてほしいのです。正義を果たしたとき、泣いている誰かがいます。

   

掲示板の人形
Dsc_0789

« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ