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2014年9月

2014年9月18日 (木)

寺報2014年9月号 

ブログとは別に、ペーパーメディアの寺報を毎月発行しています。
毎月1日にアップしているのは、寺報の本文です。
本文とは別に、思ったことを書き綴っているページがあります。コラム欄というほどの内容でもないのですが。
そちらのページをアップすることは無いのですが、今月は思うところがあってアップします。

   
(以下、2014年9月の寺報より)

 夏 お盆 初盆 ご法事
   海 山 川 プール
   公園 お祭 ラジオ体操

 暑さにバテる大人をよそに
 元気いっぱい汗をかいている子どもたち

 知らない子とだって
 たまにしか会わない子とだって
 子どもたちは思いっきり遊んでる

 仲が良いから? 意見が合うから?
 そんな大人のチマチマした世界ではなく
 誰彼かまわず遊ぶ子どもたち

 自分の世界を押し殺したり 相手の顔色をうかがったり
 そんな大人の駆け引きなんて
 子どもたちには関係ない

 個々に自分の世界を持ったまま
 それでいて他の世界とも融合している
 誰もがそんな時代(とき)を生きていた

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(以上、2014年9月の寺報より)

   

夏、子どもたち(自分の子どもだけでなく、公園にいる子どもたち)が遊ぶ姿を見ていて、不思議なことに気がつきました。
子どもたちは、声をあげながら楽しそうに遊んでいます。複数人で仲良く遊んでいるのですが、よく見ると、それぞれがバラバラなことをしているような
今、こっちの子と遊んでいたと思ったら、いつの間にか違う子と遊んで、また前の子と遊び始めたり、
一緒に鬼ごっこをしているのだけど、ひとりは水をくみ始め、ひとりは水鉄砲で遊び、ひとりは泳ぎ始め、でも、鬼ごっこは鬼ごっこで成り立っている。
それぞれが それぞれの思いで動いているのに、場が成り立っている。子どもたちすげぇと感動しました。
まさにバラバラでいっしょ

子どもたちのおかげで上記の寺報が書け、前回前々回にアップした「それぞれ」「青色青光」を書くに至りました。

2014年9月11日 (木)

青色青光

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
                          『仏説阿弥陀経』

お釈迦さまが説かれた阿弥陀経というお経に出てくることば。
 青い花は青い光を放ち、
 黄色い花は黄色い光を放ち、
 赤い花は赤い光を放ち、
 白い花は白い光を放つ
ことばとしては、これだけですが、
おしえの味わいをいただいた人々が、

 青い花を咲かせる花の種からは、青い花が咲きます
 黄色い花を咲かせる花の種からは、黄色い花が咲きます
 赤白い花を咲かせる花の種からは、赤い花が咲きます
 白い花を咲かせる花の種からは、白い花が咲きます

と受け止め、そこから派生して、「わたしは、生涯において わたし という花を咲かせればいい」と語られるようになりました。
わたしは、他の誰になる必要もありません。自分はダメな人間だと卑下することもないし、まだまだ出来るはずだと無理をせず、今できていることを見直してみませんか? 充分なことが出来ていませんか? わたしがここにいるという真実があります。
というふうに。

私も、そのように語っていました。ブログでも書いたかもしれません。

今月の掲示板のことば」の文章を書いていて、それだけではないなと感じました。
 青い花は、青い世界を生きている
 黄色い花は、黄色い世界を生きている
 赤い花は、赤い世界を生きている
 白い花は、白い世界を生きている
それぞれがそれぞれの世界を生きているのだけれど、だからといって、別々の世界を生きているわけではない。同じ世界にありながら、それぞれの世界を生きているいのち。でも、それぞれでありがなら、同じ世界に生きている。
そういうこともお釈迦さまは説かれていたのだなぁと感じています。

十人が十人、同じ想いをすることが求められるのではなく、
十人十色の想いを抱えながらも、同じ大地に立つ(咲く)ことができます

2014年9月 5日 (金)

それぞれ

同じ物を見て絵を描いても、
見る人ごとに絵は違う

同じ所に立って写真を撮っても、
撮る人ごとに写真は違う

同じ所に旅行に行っても、
語る人ごとに感想は違う

2014年9月 2日 (火)

2014年9月のことば

ひとつのいのちは
すべてのいのちにつながっている

                本橋成一

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夏の学校2014
8月2~4日、クレヨンハウス(代表 落合恵子さん)主催の「夏の学校2014」に参加しました。
落合恵子さんをはじめ、倉本聰さん、むのたけじさんなど、3日間で延べ10名の方のお話を聞かせていただく、とても素敵な時間でした。
こころに残るお話はたくさんありますが、本橋成一さん(もとはし せいいち…写真家・映画監督)と纐纈あやさん(はなぶさ あや…映画監督)の対談を聞いていて感じたことを書かせていただきます。

ある精肉店のはなし
大阪府貝塚市に小さな屠場がありました。北出さん一家は、市場で仕入れた子牛を肉牛に育て、その牛を 屠畜(とちく)し、お肉を小売りする状態に切り分け、売る仕事までをされています。
流通や社会状況の変化により、2013年3月31日に屠畜場を閉鎖されました。

牛と共に生活をし、食肉として売るまでを一家でなさっていた北出さん一家。その姿を、本橋成一さんは写真と文で紹介されています(『うちは精肉店』 一般社団法人 農山漁村文化協会発行)。
纐纈あやさんは、北出さん一家の記録、屠畜のドキュメンタリーを映像で残してくださいました(「ある精肉店のはなし」 プロデューサー 本橋成一さん)。
今回、「ある精肉店のはなし」を鑑賞後、おふたりの対談を聞くことが出来ました。おふたりとも映像関係の仕事をされているだけあって、本橋さんは「想像力をかき立てるものを作りたい」と、纐纈さんは「見て、感じてほしい」と語られました。
想像力をはたらかせること、見て感じて考えること、とても素敵な能力なのに、わたしたちは活用せずに生きているのではないでしょうか。

自分本位の想像 自分優位の感じるこころ
3年前、住職方の研修会で、品川にある食肉市場・ 芝浦と場に見学に行きました。わたしたちの食生活を支えてくださっている方々に感謝の想いを感じます。なぜ、屠畜に携わる方々に対する差別が起こるのでしょうか。どうして、差別がなくならないのでしょうか。
屠畜される牛や豚のことを思い、「かわいそう」「恐がっている」「牛も悲しんでいる」などと言い、屠畜に携わる方々を差別の目で見る。お肉を、いえ、いのちをいただいて、自分がいのち長らえさせてもらっていることを忘れて。
纐纈さんは、そのような「牛も悲しんでいる」という声に対し、「人間の持つ感覚でもって、動物にもかわいそう・つらい・恐いなどといった感情があると思ってしまうが、それは違うと思います。動物には動物の世界・感情・感覚があります。人間には人間の世界・感情・感覚があります。人間本位・優位の眼で、動物を見ることには怖さがあります。人間の都合で見ているということを自覚しなければいけないと思います」と話してくださいました。
彼女のことばを聞いた瞬間、私自身が持っていた「想像する」「感じる」ということの意味が打ち破られました。
「想像する」「感じる」…自分本意・自分優位になってはいないでしょうか。
「平和な世の中を想像する」といっても、自分を善に立てての平和ではないでしょうか。まさか自分が和を乱しているかもしれないなんて思いもしません。
「他者(ひと)の気持ちを感じる」といっても、自分の想いを超えて他者の気持ちは感じられません。他者を思い遣っているつもりでも、気付かないうちに傷付けていることがあるのかもしれません。
想像や感じるということが、自分本位・自分優位ならば、それは、悲しい現実しか生み出しません。「こうなれば平和になる」と自分本位に想像したり、「あなたの気持ち分るよ」と自分優位に感じたつもりになってみたり…。あぁ、平和を、差別のない世を願いながらも、争いや差別を生み出す生き方をしていました。
ひとりひとりのいのち、ひとつひとつのいのちは、それぞれの世界(時間や、歴史や、経験や、つながりなど)を生きているものです。そのことを尊重し、忘れず、目の前のいのちと真向かうこと。そのことが想像することだと、 感じることだと聞こえてきました。

   

掲示板の人形
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