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2014年7月 2日 (水)

2014年7月のことば

善き人に遇って教えられ
悪しき人に会って反省すれば
善悪ともにありがたい

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あなたの苦手な人は?
学生時代、「どんな人が苦手な人か?」というテーマで、友人と語り合ったことがある。その時は、「自分と正反対の性格の人」といった内容で結論となった気がする。
時折「どんな人が苦手な人か」で語り合った時のことを思い出す。年を重ねて思う。「自分とそっくりな人間」だと。誰よりも、自分が目の前にいたら、気が合うどころか、口も聞かないほどに反目するだろうと思う。というか、自信を持って断言できる。自分がもう一人いたら、絶対喧嘩すると。

こいつさえいなくなれば
ドラえもんの道具に、「どくさいスイッチ」というものがあります。この世から消してしまいたい相手の名前を言いながらスイッチを押すと、その相手は姿を消してしまいます。はじめから存在しなかったことになるのです。
そんなスイッチに頼ってはいけないと、始めは使うことを躊躇していたのび太。しかし、ジャイアンのいじめに耐えかねてスイッチを押してしまいます。そしてジャイアンは姿を消します。
いじめっ子がいなくなり、平穏な生活が訪れるかと思いきや、次はスネ夫がいじめっ子として台頭します。で、スネ夫を消すと、また違う誰かが。そしてまた違う誰かがいじめっ子としてのび太をいじめます。
都合の悪い人間を消してゆくうちに、大好きなしずかちゃんまでも、のび太は消してしまいます。結局、のび太はひとりぼっちになってしまいます。自分の思い通りにしようとしたら、孤独になってしまいました。

何も変わらぬ学び 痛みのない反省
善き人に遇って教えられ、悪しき人に会って反省する。善き人・悪しき人、それぞれ誰かの顔が浮かんでいるのではないでしょうか。でも、自分すら信用ならず、自分の思い通りにしようとして結局孤独に陥るような私が、善き人・悪しき人といっても、それは自分の色眼鏡で見ているだけのこと。そんな私が「教えられた」とか「反省した」と言っても、「理解できること」「納得できること」を「教えられた」と言い、自分のこころが痛まない程度の反省しかしていないのではないでしょうか。

いのち 縦のつながり 横のつながり
私の誕生のためには、父と母がいて、更にそのまた父と母がいて、さらにさらに父と母がいて・・・。いのちの誕生を思うと、人知を超えたいのちの歴史があります。
同じ時代に生きる私たち。毎日顔を合わす人もいれば、生涯会うことのない人もいます。会うことのない人がはるかに多い。けれど、そういう人たちがまったく無関係な人かといえば、そんなことはありません。会い得ない人の努力のおかげで、私はいのち長らえています。会ったことのない人のエピソードに、泣いたり笑ったり怒ったりする。会わぬ人ともつながって生きている不思議。想いを超えた広いつながりを、わたしは生きています。
時間と空間の織り成す中を、わたしは生きています。当然、いろいろな人との出会いがあります。私の色眼鏡では、善き人悪しき人ハッキリ分けて見えることでしょう。でも、本来善きも悪しきもありません。ただ、目の前に、いのちが生きているのです。

すべてが意味のあることに
悪しき人と思っても、その人との出会いも含めて、今のわたしがいる。その人との出会いがあったからこそ、今のわたしと成りました。それが嫌だ、許せないという想いもあります。けれど、そんな想いが、「悪しきあいつが」という眼が、「それも(が)あっての私です」と転じたとき、「悪しきあいつ」が「善き人」に転じられます。悪しき人に会って反省したことが、そのまま善き人からの教えとして転化します。
「遇」は、「想いを超えたものとの出遇い」。会えるはずのない人・物事・出来事との出遇いということ。「悪しきあいつ」も、「善き人」として出遇い直せるのかもしれない。つらい出会いも、意味あることと出遇い直せる。善悪ともに、有ることが難いことでした。

   

掲示板の人形
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これから暑くなりますね。熱中症には気をつけましょう。過日、墓前で読経中に、一瞬目の前が真っ白になりました。まめな水分補給を。アルコールは控えめに。

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