2014年5月のことば
一悪を以て 衆善を忘れず
「一悪を以て 衆善を忘れず」とは
たったひとつのミスや気になる行為のために、その人の、それまでの行為や実績を忘れてはなりません。
なにゆえ他者(ひと)に厳しいのか
STAP細胞の作製に成功したと論文で発表した小保方晴子さん。誰もが驚き、功績を讃えましたが、STAP細胞の疑問点が指摘されると、彼女への批判へと転化します。あれだけ持ち上げておいて、突き落とすときの手の平の返しようには驚くばかりです。マスコミや学会の話ではありません。わたしのことです。「まだ若いのに凄いね」「割烹着が可愛いね」などと言いながら、STAP細胞の疑問点が報道されると、「騙された」とか「ひどいことするね」とか「割烹着を買ったのに」とか。批判がメチャクチャです。割烹着を買ったのは、彼女のせいではなく、自分の問題なのですが。
小保方さんの一件を上げるまでもなく、最近、他者に対する批判や非難が、あまりにも厳しく、自己中心的に感じ、こころが痛みます。
例えば、ベビーカー論争は、あまりにも悲しすぎます。電車やバスの中で、「ベビーカーたたむべきだ」「いや、小さい子どもがいるのだから、周りが気を遣うべきだ」云々。お互い言い分もあるでしょうが、「自分が正しい」というところに立って文句を言っているのですから、和やかなこころは生まれず、いやな空気が流れるだけです。
お互いの意見を言い合うということは、新しい視点を生み出し、一人では見いだし得なかった発見があるなど、本来意義のあることです。しかし、「自分が正しい」というところに居座ってものを言う限り、発展的なことは何も生み出しません。このことは、ベビーカー論争に限った話ではありません。
「なにか手伝えることはないかな」
「周りに迷惑をかけてないかな」
わたしの目の前に他者(ひと)がいる。いのちがある。そんな想いを持つだけで、見えてくる風景・感じられる空気は変わってきます。
他者(ひと)を傷付け、自らも傷付く
人は、一人では生きていないのに、どうして争うのでしょう。
気が合う、気が合わないということはあります。でもそれって、多少なりとも関わりがあってこそ分かることです。現代(いま)は、そのとっかかりの関わりさえも持とうとしません。他者と向き合うことすらしません。
それでいて、テレビ・新聞・雑誌等の報道やネット上の情報だけで、隣国の人々に嫌悪感を抱き、存在を否定する。小保方さんへの批判も重なります。わたしは、隣国の人々の、小保方さんの、何を知っているというのでしょう。人間、個と個で向き合うと、酷い人間ってそうはいないと思うのですが。
正しいのか正しくないのかも分からない情報だけを頼りに、他者を判断(批判・非難)する。他者を批判するけれど、批判しているわたしの方も、頼りない情報を基に嫌悪されています。争う必要もない者の間に、争いの土壌が構築されています。
他者を知るということは、根気のいる作業です。すべての人間と、丁寧に向き合うことはできません。しかし、たったひとかけの情報で、たった一側面の印象で、相手を知ったつもりになり、牙を向けるということは、他者の存在を否定するばかりでなく、わたし自身のいのちを おとしめてもいます。
「一悪を以て 衆善を忘れず」再考
「一悪を以て 衆善を忘れず」
…わたしが受けている恩は、たったひとつの情 報・印象で否定されるものなのですか? (いえ、そうではありません)
掲示板の人形
金太郎とクマの置き物です。パズルになっています。
烏山にある、木のおもちゃ専門店「MUKU」で買いました。おじさんがとても優しくて、子どもたちもこのお店が大好きです。
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